桜の咲く季節になると、一陣の風のように甦っては消え去っていく記憶があった。

それは15の春。
何もかも知ったつもりでいた。
否、本を読めば答えはどこかに書いてあると思っていた。

暖かく、それでいて肌寒い温度の中で、急速に芽生えた感情。
それを何と言うのか、誰にも教えてもらえなかった。
そして、それを知ることすらしなかった。


記憶




夢を見た。
いや、夢というよりは眠っていた記憶を掘り起こした感じだった。

直樹は頭を振って起き上がった。
4月も何日か過ぎた。
まだ一人寝ることに慣れなかったが、ほんの数年前まで一人で寝ていたことは忘れたのかと苦笑した。

まだ荷物も解いていない。
ダンボールの箱からいるものだけ出しながらの生活。
いつもは朝からうるさい声が響くのに、それすらもない日々が始まった。

カレンダーを見た。
そして、ああ、こんな時期だったと思い返す。
今まで思い出さなかったのが不思議なくらい。
それはどうしようもない過去の話。そして現在の話。
クロスしたのは、多分今年のことだったのだろう。
つい過去の自分にまで嫉妬しそうな自分を情けなく思う。
もう止められないし、既に済んでいることだからだ。
それに、今すぐ家に帰れるものならば、その体中から記憶を拭い去ってやりたいと思うのに、今はそれすらもできない。

電話が鳴った。
こんな朝早くから珍しいと受話器を取る。

『…入江くん?』
「どうした」
『うん…。あの、あのね。どうしても、声が聞きたくなって』
「ふうん。俺がいなくて夜が寂しかったか?」

意地悪くそう言うと、いつもより察しよく焦ったように返してきた。

「ち、違う。…あ、ううん。違わないけど…でも…」

その歯切れの悪い言葉に、直樹は夢の中の出来事を思い出す。

「もう俺に抱かれたくなった?」
「そんな…」

少しだけ甘く、切ない響きは、いったい誰のせいだろう。
朝の光の中では、あまりにも似つかわしくないため息。

直樹は口の中だけで返す。
抱きたいと思っているのは、俺のほうだ、と。

珍しく沈黙した電話で、琴子は一つため息をついた。
どうしようもない距離。
ただ夢の中で触れ合うにはもの足りない。
まさか抱かれた夢を見たのだとは、琴子にはとても言えなかった。
それでも何とかして今の気持ちを伝えたくて口にする。

「…今度会えたら…」

直樹は、琴子の言いたいことがわかる気がした。

「そうしたら…」

琴子が言えない言葉を紡いでやる。

「…たっぷり抱いてやるよ」

受話器の向こうで、息をのむ声がする。
それを苦笑して聞きながら、「じゃあな」と終わりの言葉を告げる。
いくら朝早くても、そうのんびりと電話もしていられない。
ましてや、こんな甘い会話など。

あわわわと言葉にならない返事だけを残し、琴子からの電話は切れた。


直樹は窓際へ行き、カーテンを開けた。
目の前に桜並木が見える。
風に揺れる枝を見ながら、少しだけ想いが揺れる。

どうして、今、そばにいないのだろうと。
どうしてそんな選択ができたのだろうと。
こんな朝には、誰よりもそばにいたかったのにと。

今の直樹なら、そんな感情も理解することができる。
そして、それを分かち合える相手もいる。
寂しいと言って抱き合える相手もいる。
声だけでも聞きたいと言える相手もいる。

15の時には認めなかった想い。
あのとき、何故必死で否定したのだろう。
桜が降り注ぐ月夜の下で、わかりかけた何かを自ら手放してしまった。

15の頃の自分には、そんな感情が自分の中にあることすら知らなかった。
誰にでもあるはずの感情を知らなかった自分。
誰でも知っているはずだと、誰もあえて教えることもない情熱。
それを呼び起こした女に会えたのは、おそらく一世一代の稀有なことだったかもしれない。

サッシの窓を開けると、風が吹き、時折桜の花びらを運んでくる。
ひらひらと部屋の中に舞い落ちるのを見ると、あの時の切ない想いまでもよみがえってくる気がした。

今ならわかる。
桜の季節になるたびによみがえった想いは、ただ、愛おしかったのだと。
そして、その想いは、今も続いている。
当たり前のように隣にいるようになった二人には、今のこの距離は辛い。
いや、多分、この先楽になることなんてないのだろう。


お互いに言いかけて、言いよどむ言葉。
言ってしまえば、歯止めが利かなくなる言葉。

ただ、「会いたい」と。


早朝の冷たい空気を吸い込んで、頭と身体を冷やして、やっとサッシの窓を閉めた。
そうしないと、とてもこのまま仕事に行けそうになかったのだった。
これからの日々を少しだけ憂い、直樹は振り切るようにして朝の支度を始めることにした。


記憶−Fin−(2009/03/25)