納涼祭り2016 『坊ちゃまとあたし』特別編



真夏の夜の夢


清里の別荘は、いつもと同じく木立を揺らして涼しかった。
なのに、珍しく来客が途切れなかった。
ゆっくりしようと思った坊ちゃまを訪ねて、様々な人がやってきた。
斗南大学の教授に会社の関係者など。
いつもはやってこない人まで。
何かに祟られているとしか思えない。
坊ちゃまは避暑に来たというのにいつも以上に疲れていた。

「坊ちゃま、お疲れ様でした」
あたしはアイスコーヒーを差し出して労った。
「…うん」
坊ちゃまはまだ十三歳。中学生になったばかりだというのに、その頭脳は知るところぞ知る天才なのだ。
あたしはその坊ちゃまの家に居候させてもらっている家庭教師兼生活全般のお世話を…。
「…過大広告はやめろ」
「え、あれ」
「いちいち口に出すな」
「…はい」
実は、家庭教師なんてもってのほか(あたしがバカだから)。
でも、でも、これでも中学教師なんだけど!
二十三にもなって十三の坊ちゃまにいつも諭されてるけど!
「直樹様、本日の来客はこれで終了です」
「…ああ」
どうしてここまで来客が多いのか、あたしはわかっていなかった。
何しろ坊ちゃまは貿易会社の御曹司。
しかも、天才!
あたしがわからないことなんて山ほどある。
「琴子さんも落ち着かなかったことでしょう。
どうぞ、あちらに山城さんがプリンサンデーを作って置いてあるそうですよ」
「え!わー、食べる、食べる」
こんなふうにして、生活全般のお世話は、執事の渡辺さんがしてくれるから、入江家でのあたしは結構な役立たず。ああ、自分で言ってむなしいくらい。
そんなあたしだったけど、それでも坊ちゃまの役に立ちたい気持ちはある。
あたしの将来はこの先どうなるのか自分でもよくわからないけど、とりあえず坊ちゃまが大きくなって独り立ちするまではここに置いてもらって見守るつもり。
おばさまもそうしてほしいって言ってくれてるし。
今更入江家を出たいなんて実は思っていないし。
逆に出て行けって言われたら…悲しいけど新居を探すほかない。
幸いまだあたしはコネでも何でも就職だけはさせてもらえたから、いきなりクビにされることもないだろう。
ううん、たとえ今クビにされても、いざとなればお父さんの所に帰るとか、とりあえずアパートくらいなら何とかなりそうだもの。
「…およそ現実的じゃないな、その案は」
プリンサンデーを黙々と口に運んでいるつもりだったのに、いつの間に坊ちゃまがあたしを呆れて見ていた。
「そう言えば、あたし、小さいときの坊ちゃまをあまり覚えていないんですよね。パーティの時のことは酔っぱらってて。
でも、それよりも前にさらに坊ちゃまにそっくりな男の子に会った気がするんです。途中まではずっとその人があたしの王子様だって思っていたのに」
「はあ?」
坊ちゃまはあたしをにらみつけた。
あ、やば。
あの日のパーティのことは禁句だった。
女装…じゃなかった、ちょっとしたおばさまの策略で女の子の恰好をしていた坊ちゃまは、とあるクリスマスパーティの日、あたしにバカにされたか何かで(その辺を覚えていない)、怒ってその日以来女の子の恰好をやめたのだった。
それ以来、何かとトラウマになっているらしく、しかも坊ちゃまは記憶力がいいから、あの日何事かを言った人間があたしだと気付いたときから虎視眈々と復讐する機会をうかがっている気がする。
あ、もちろんそこまで坊ちゃまの性格は悪くないと思っているから、何かあたしに一つ意地悪をしてやろうというくらいのものなんだけど。
その意地悪は、未だ発動されていないから、それもちょっと怖い。
憶えてろよ、というセリフとともにあたしには猶予が与えられたっきり。
いや、だから、あの日のことは覚えていないんだってば、とあたしは繰り返す。
記憶力の悪いあたしは、酔っぱらっていたのもあって、もう本当に何を言ったかすら覚えていないのだから。ついでに言うと、それが坊ちゃまだったことなんてすっかり忘れていたから、坊ちゃまは更に怒っていたのだ。
「坊ちゃまって、そっくりな親戚いませんか?」
「一色家の人間は同じ顔がたくさんいる」
「それはそうですけど、そうじゃなくって、本当にもっとかっこよくて…その…」
優しく微笑んだあの人は、一色家のような意地悪気に笑う顔じゃなかった。
そう、例えば、坊ちゃまがもう少し大人になっていて…。
あたしは坊ちゃまの顔をまじまじと見た。
坊ちゃまの顔って、きれいよね。
それは認める。
いつもちょっとしかめっ面だから、あたしは本当によく笑った顔なんてめったに見ないけど。
「…へぇ」
坊ちゃまはあたしを見て、低音でそう言った。
そろそろ坊ちゃまも声変わりが始まるのか、時々ドキッとするほど低い声を出す。そして、ちょっとかすれたりするとあたしはどうしていいかわからない時もある。
このまま坊ちゃまの声が変わるなんて、わかっていたけどわかっていなかったのだ。
坊ちゃまがかっこよく大人になるのを見るのは楽しみだけど、本当はもう少しだけかわいい坊ちゃまでいてほしかったりする。
頭をなでることができるくらいの背は、ちょっとずつ伸びてきて、あと一年もしたら完全にあたしは抜かされそうだ。
これでもあたしだって160くらいあるんだけどな。
「正確には158.6だろ」
あたしが160とつぶやいたのを見逃さず、ツッコミを入れてくる。
「四捨五入すれば160じゃない。あ、坊ちゃまは男の子だから170も越えて180くらいになるとモテモテですよ、きっと」
「めんどくさい」
「どこまで伸びるか、楽しみですね」

そんな会話をした日の夜だった。
あたしは懐かしい夢を見た。
どこかの森の中で迷子になっている夢。
これはあの時のあたしだ。
あたしが五歳の頃、お父さんに連れられてどこかの別荘に来た時、つい一人で森の中に迷い込んだ時に会った人。
ほら、あのかっこいい、坊ちゃまに似た人に会った日のことだ。
泣いているあたしに困って、涙をぬぐってくれて、手をつないでお父さんのいる別荘まで連れ戻してくれた。
あの日の別荘は、もしかして…ここ?
今まで気が付かなかった。
そう言えば、あの時はお母さんの具合があまりよくなかった頃だ。
それからもう少しして、あたしが十歳の頃、その時は確か同じように別荘に招かれて、その時は迷子になったんじゃなくて、どうしたんだっけ。
そうだ、素晴らしくかっこいい人がいたんだった。
あの五歳の日、別荘まで連れて帰ってくれた人だと信じて疑わなくって…。
今思えば坊ちゃまの親せきだったかもしれないのよね。
あたしより十歳は上だった気がするから、今その人はもう三十を過ぎて…。
はあ、どうなってるかな。
絶対この人と結婚するって、運命だって思ってた。
…あたし、昔から夢見がちよね。
ま、いいか。夢くらい乙女は見るものよね。
そのうち現実をいろいろ知っていくものなんだし。
そうか。おばさまに聞いたら、あの日この別荘に来ていたのが誰かわかるかもしれないわよね。
次の電話で早速おばさまに聞いてみようっと。



また琴子が変なことを言い出した。
その日は、来客がやけに多くて疲れていた。
それもこれも日本でこのまま勉強を続けるのがいいのか悪いのか、迷っていた俺にあれこれとアドバイスをくれる教授や会社の幹部がやってきたのだ。
日本に残ろうと思った原因がムカつくことを言っている。
「そう言えば、あたし、小さいときの坊ちゃまをあまり覚えていないんですよね。パーティの時のことは酔っぱらってて。
でも、それよりも前にさらに坊ちゃまにそっくりな男の子に会った気がするんです。途中まではずっとその人があたしの王子様だって思っていたのに」
「はあ?」
呆れて琴子を睨んだ。
酔っぱらっていたのは知ってる。
間違えて酒を飲んだせいだ。
俺にそっくりな王子様、だと。
王子様って、今どき五歳の女でも言わねーぞ。
更に琴子は言った。
「坊ちゃまって、そっくりな親戚いませんか?」
「一色家の人間は同じ顔がたくさんいる」
「それはそうですけど、そうじゃなくって、本当にもっとかっこよくて…その…」
王子様みたいなって言いたいのかよ、おまえは。
よりによって、俺に似た男だと。
妙齢の男は一色家にもいない。
入江家の方には従兄がいる。
しかし、どいつもこいつも親父のクローンのような柔和な顔だ。
余程一色家の遺伝子が強いのか、俺の顔も裕樹の顔も親父とは似ても似つかない、どちらかというと一色家のおふくろの方の顔に似ている。
「…一色家のような意地悪気に笑う顔じゃなかった。
そう、例えば、坊ちゃまがもう少し大人になっていて…」
ぶつぶつとまた声に出してつぶやいていることも気づいていない。
挙句の果てに俺の顔をじっと見て「いつもちょっとしかめっ面だから」と言った。
「…へぇ」
ますますしかめっ面になりそうだ。
面白くない。
それにすごく疲れた。
「これでもあたしだって160くらいあるんだけどな」
「正確には158.6だろ」
俺のツッコミにすかさず反論する。
「四捨五入すれば160じゃない。あ、坊ちゃまは男の子だから170も越えて180くらいになるとモテモテですよ、きっと」
「めんどくさい」
いったい誰にもてるんだ。
「どこまで伸びるか、楽しみですね」
そう笑った琴子は、俺が見下ろしたらきっと悔しがるんだろう。
ただ、俺の背は今のところまだ152だ。
ほぼ琴子と肩を並べるところまできたのに、まだ抜かせない。
あと一年。
あと一年で抜かしてやる。
そう思って寝入った俺は、奇妙な夢を見たのだった。

 * * *

誰かが泣いている。
別荘の外か。
「渡辺、誰か泣いてるぞ」
そう言っても、誰の返事もない。
俺は頭を振って起きだした。
やけに暗いのは、別荘の灯り以外はない山の中だからだ。
別荘の裏手は森だ。
うかつに踏み込んだら俺でも戻れなくなるかもしれない。
そんなところに何で子どもが。
迷子なのか、幽霊なのか。
少し迷ってから、思い切って別荘の裏手に出た。
部屋から庭に出られるようになっているが、窓を開けたところでもう後悔し始めていた。
こんな時間に子どもがいるわけないか。
いるのは魑魅魍魎、幽霊の類と決まっている。
幽霊が怖いわけではないが、何かこの別荘や琴子に危害があっては困る。
それも含めてやはり見に行くことにした。何かあっても俺ならば、どうにかなるだろうという安易な、今思えば本当に安易な考えだったのだ。

外に出ると、蒸し暑いような、ひんやりと涼しいような、山の中独特の空気がまとわりつく。
寒いわけではないが、つい着ている上着を引っ張った。引っ張ったところで自分を守ってくれるものなど何もないというのに。
がさがさと夏草の音がする。
少しだけ露なのか、足元が濡れる感じがして気落ち悪い。
履いているサンダルでは、全速力で逃げるのは無理だろうということだけはわかる。
それなのに、安易に出てきた自分に呆れる。もしもこれが誘拐につながるような何かであった場合、アウト、だろうなとか思いながら。
幽霊よりも人間の方が怖いのだと琴子はいまだわかっていない節がある。
琴子ですらそばにいる限り、そういう危険性があるのだとわかっていない。密かに守らせていることすら知らないだろう。
いや、知らない方がいい、としてそれも黙っているのだが。
木の陰に、幽霊なのか人間なのか、ワンピースを着ておさげ頭の子どもがいた。おさげというからには性別は女、だ。
五歳くらいか。
「どうした」
一応声をかけてみる。
「ゆ、ゆうれい?!」
どちらかというとそっちの方が幽霊っぽいのだが、ここはぐっと我慢して「違う」と答えた。
「ま、まいごになっちゃったの」
「こんな時間に?バカか」
思わずそう言うと、子どもは泣いて「だって、ながれぼしが…」としゃくりあげた。
ああ、流れ星ね、と俺は納得した。
この辺りは雲さえ切れていれば、夜空がよく見える。
流れ星の一つや二つ、少し粘っていれば見えるだろう。
「で、流れ星見えたのか」
「…こわくていけなかったの」
俺はそこで諦めてため息をついた。迷子にしろ何にしろ、連れて帰らねばならないだろう、とわかった。
「来い」
そう言って歩き出すと、子どもは泣きながらついてきた。
俺は別荘とは少し反対の方角に歩きながら、少しだけ坂を上る。
ところが鈍いのか、子どもはその坂すら転ぶ。
仕方なく手を引いてやる羽目になる。
よく星の観察をするために木を払って夜空がよく見える場所を作っておいて、良かったのか何なのか。少なくともこの子どもに見せてやることはできる。
いつの間にか涙も引っ込んだ子どもは、少し開けた場所に来るとバカみたいに口を開けた。
「わああああ、ほしがいっぱい」
ああ、そうだろうな。
どこから来たのか知らないが、少なくとも田舎の子どもではないらしい。そもそも田舎の子どもはこれくらいの暗さと坂は屁でもないだろう。
「ほら、流れ星早く見つけろよ」
「うん」
そう言うとずっと上を向いている。
「あ」
すぐに一筋の流れ星がすっと落ちていく。
「おかあさんがなおりますように。おかあさんがなおりますように。おかあさんがなおりますように」
決して早くない口調でそう言った。
どう頑張っても消えるまでに三回唱えるのは無理だろう。
それにしても。
「…お母さん、病気か」
「…うん」
「そうか」
それは子ども心に寂しいだろうというのはわかる。
「おにいちゃん、ありがとう」
「もういいのか」
「うん」
「戻るか」
「うん」
元来た道を引き返しながら、別荘に連れていくべきか、警察にでも電話するべきか、まずは渡辺を起こすか、と考えて振り向くと、子どもが消えていた。
「どこ行った?!」
さすがに焦った。
今までそこにいたはずの子どもが、いない。
一本道で、どこにも逸れようのないような道だ。
しばらく呆然とした後、もう一度道を戻る。
坂の上まで戻って見下ろしても、誰もいない。
虫の音だけが響く。むしろ先ほどまで聞こえなかったのが不思議なくらいだ。
何か嫌な予感がして別荘までの道を急いで戻る。
戻りながら、夏草に足をとられてサンダルが脱げた。と同時に転んだ。
こんなところで、と思ったが、止めようがなかった。動揺していたのもあるのだろう。
本当に幽霊か何かだっただろうか。
いや、この手に握った子どもの手は、確かに温かかった、というより熱かった。子ども特有の少し汗ばんだ熱い小さな手だった。
転んだところで少し坂を転がった。無様だ。
誰もいないことにほっとすると同時に少しだけいないことに恐怖する。
何故渡辺がいなかった?呼びかけに起きてこなかった?
ここは、本当に別荘の近くなのか?
今は、今は何時だろうか。
それすらも確認しなかった。うかつだった。
寝転がったまま上を見た。
木々に囲まれた隙間から星が見えた。
露が服に浸みる。
息を整えて気持ちを落ち着かせようと目を閉じた。
夏草の匂いがする。
今の出来事を琴子に話したら何と言うだろうか。
怖がるだろうか。
いなくなった子どもを心配して捜しに行こうというだろうか。
あれこれと想像しながら目を開けた時、何かの光が見えた。
「直樹様ー!」
懐中電灯の光だった。
「ここだ」
渡辺は、もちろん気付いていたらしい。
戻らない俺を心配して追いかけてきたのだろう。少しばかりの猶予を持たせて。
今の出来事をなんと説明したらいいのか、渡辺がここに到着するまでに俺は頭を働かせることにしたのだった。



坊ちゃまに似た人の話をしてから、坊ちゃまは目に見えて不機嫌だった。
急にタイムスリップとか、タイムリープとか、時空がどうとか、パラレルワールドとか何かそういうたぐいの本とか小説家を読み漁っている。
渡辺さんに聞いても、渡辺さん自体が「さあ、どうなんでしょう」と目を細めて笑っている。
もう別荘から東京のお屋敷に戻る前日になってようやく言った。
「琴子、小さいときに会った人は、おまえの中ではどういう位置づけなんだ」
「え?えーっと、位置づけっていうのは」
「つまり、親切にしてくれたお兄さんで終わりなのか、もう一度会いたい人なのか」
「えっ。そ、それは」
王子様で散々馬鹿にされたから言いづらい。
でも、坊ちゃまが言うまで許さないといった感じなので、顔が赤くなるのを感じながらしぶしぶ言った。
「…あたしの、初恋、かな」
そう言ったら、坊ちゃまは飲みかけのお茶を持ったまま、ぎょっとした顔をした。
きっと何言ってんだ、と思ってるんだろうな。
ええい、もういいや。
一度口にしてしまえば、後はもう何でもない。
「だって、迷子になっていた時に助けてくれたのよ。かっこよかったし。助けてもらったからじゃなくて、本当にかっこよかったの。
でも今頃、その人はいくらなんでも結婚してるくらいの年だろうし、初恋は実らないって言うしね。いい思い出よねー」
あたしはそう言ってお茶を飲んだ。
坊ちゃまに似ていたんだから、きっと大人になってもかっこよくなってると思うの。
「思い出で済めばいいけどな」
「あら、どこの誰かもわからないし、場所がどこかもあたし憶えていないの」
「さすが琴子」
何故か感心したようにつぶやく。
「もう一度会ったらどうする」
「さあ?気づかないかもしれないし」
「気付いたとしたら?」
「どうかしら。だって、あたしがこんな年になってるんだし、その人だってその分年を取ってるでしょ。再会したからって、あの頃を思い出してっていうのは、ちょっと無理がある気がするの。覚えてるかもしれないけど、もし好きになったりしても、それは今の姿を見て好きになるはずだから、再会したことなんてきっかけでしかないわけよね。
だって、あんな小さい頃のあたしを好きでとか言ったら、ただのロリコン、よね」
渡辺さんはちょっと噴き出した。
坊ちゃまはお茶を置いて息を吐いた。
「そうだな」
「どうかした?坊ちゃま」
坊ちゃまはちょっと苦笑いをしながら目をそらした。
それはちょっとだけ安心したような、それでいてちょっと残念そうな顔。
「いや、意外に現実的だな」
「そう?坊ちゃまの初恋があたしと同じくらいだったとして、どこの誰かもわからないんじゃ捜しようもないし、あたしみたいに大きくなったらあの人と結婚するのとか言うのとはわけが違う気もするけど」
がたっと坊ちゃまが足をテーブルに引っかけた。
「坊ちゃま?」
珍しいこともあるなと坊ちゃまを見ると、今度は嫌そうな顔をしている。
「だから、坊ちゃまは安心してくださいね」
「何を」
「えーと、なんとなく」
坊ちゃまはあたしをちらりと見ると「やっぱりくだらない」とつぶやいたのだった。

 * * *

結局あれは何だったのかと自問する。
渡辺に言わせれば、庭に出る扉が開いた音で目が覚めた、という。
いつも渡辺と呼べば駆けつけてくるはずが、その声は聞こえなかった、申し訳ないと謝る。
しかも庭に出てから一向に戻ってくる気配がないので、装備を整えて追いかけてきたというから、小さな女の子は見ていないという。
ただの夢だったのか、本当にあったことなのか、今ではあやふやだ。
こんな出来事もいつか科学で説明できるのかもしれないが、少なくとも今の俺じゃ無理だ。
どうせなら、琴子と十歳の差がある今よりも、琴子と同年代で会ってみたかった。
今より未来なのか過去なのか、それはわからない。
俺が琴子に出会った時からすでに琴子は十歳年上で、再会した時ももちろん年上だ。
時空が違っても十歳差だった。
それは、やはり何かの法則だったりするんだろうか。
大人になったなら、そんな十歳差など大差ないと平気で言えるかもしれない。
それでも、今はまだ十歳の年の差は歴然と二人の間を隔てている。
琴子が年をとるよりも早く、大人になりたいと思っていた。
再会して一緒に過ごすようになってから十年近い月日が経っても、琴子は変わらない。
いい意味でも悪い意味でも。
見た目もやることも変わらない琴子。
もっと成長すればいいのにと思う反面、そのまま変わらないでいてほしいと思うことも。
出会った頃のままなんてありえない。
人間は変わる。
それでも琴子の本質は、あの頃のままだ。
そばで、ずっと、俺を見守っているつもりの琴子は、俺が見ていることには気づかない。
「坊ちゃまが立派な大人になるまで、ちゃんとお世話しますから」
どちらかと言うと、お世話される方だと思う大半の意見は無視して、琴子はそんなこと言っている。
このまま大人にならない方が無条件でそばにいるんだろうか、とも思う。
しかし、琴子の周りには、琴子が相手にしなくともうろつく野郎がいる。
それを蹴散らすくらいの大人になってしまった方が楽なのだろう。
琴子の初恋が俺ならば、まだ可能性はあるだろうか。
琴子がよそ見をしないくらいの男になって、気付いたときには身動きが取れないくらいにしてしまえばいい。
俺が大人になったからはいさようならと、どこかへ行く余裕もできないくらいに。
「言っておくけどな、立派な大人になるかどうか、おまえの責任重大だぞ」
「ええっ、でも坊ちゃまは十分天才じゃない」
「おまえの役目は何だよ」
「えーと、坊ちゃまの教育係兼、遊び相手…?」
「…だよな」
俺はその返答に満足してうなずく。
「じゃ、じゃあ、渡辺さんは?」
「あれは家の管理人、執事でアドバイザー」
琴子は目玉を丸くして「ああ!」と今更そうだったのか!という顔をした。
「覚えておけよ」
琴子は俺の言葉の意味も考えずに素直に「はあい」と返事をした。
昔から変わらない。単純でお人好しでお馬鹿で騙されやすい。
いつか俺の言った意味に気付く日が来るまで。
仕方がないから、俺は急いで大人になることにする。



Fin