能天気の五月病




五月は何かと気の抜ける月である。
四月の進級、新入、異動といろいろ環境が変わって気の張る時期を過ぎ、少しだけ落ち着いて周りが見えた頃にふと気がつくのだ。

一体自分は今まで何をやれたのだろう、と。

何でもできると胸を張っていたものの、世間の風は甘くはなく、何もできない自分を歯がゆく思いながら過ごした四月。
もしくは、何にもできないからと言われるがまま動いて、気がつくとすでに四月も過ぎ去っていた、という日々。

「はあぁぁぁぁ…」

隣で盛大なため息をつかれて、桔梗幹は手に持ったボードを音を立てて置いた。
その派手な音に驚いたのは当の本人ではなく、周りでこれから申し送りを受けようと座っていた同僚たちだった。

「あのねぇ、朝からやめてくれるかしら。これから仕事しようってのに、士気が上がらないったら」
「あ…ごめん、あたし、ため息ついてた?」

のんきにそう答えたものだから、幹は隣の同僚を見てこりゃダメだわと肩をすくめた。

入江直樹が研修目的でA県に出向してからというもの、妻である琴子が落ち込んだりするのは日常茶飯事だった。
ゴールデンウィークはさすがに帰ってきて一緒に過ごせば、また少し元気を取り戻して仕事をしてくれるだろうと誰もが思っていたが、急変に手術が重なって一日も帰ってきていなかったのだという。
そりゃため息もつきたくなるだろう、というのが大方の意見だったが、幹は今更それくらいで琴子が仕事もできないほど落ち込むとは思えなかった。
今度はいつ帰ってくるかわからない転勤ではなく、夏までには帰ってくるという期限付きなのだ。
それに神戸よりは近くて、行き来もさほど問題ではない、と入江夫妻は思っている。実際暇もできないほどの研修医時代とは違って、何事もなければ週末に帰ってくることはできる。
もちろんそれでも物足りないであろうことは十分察しがつくが、それとは別の何かが琴子にため息をつかせているのだろうと思われた。

申し送りも終わってそれぞれ持ち場に散っていく前に、幹は声をかけることにした。

「琴子、今日こそは新人みたいにカストをダメにしたら、新人と一緒に研修受けてもらうわよ」
「し、しないわよ」
「あら、そう?」

朝一番でガーゼ交換に回らなければならない外科では、ガーゼ交換に必要な物品を乗せたカートを押して医師とともに各部屋を回る。
その医師が免許取りたて研修医だったりすると、ついていく看護師もベテランでないと心もとない。
先日は新人でもないから大丈夫だろうと琴子と研修医を行かせたのが間違いだったのか、使い始めのガーゼカスト(注1)を不潔にして交換するはめになった。
もちろんそんなのは想定内で、他の病棟よりは大目に確保している。だから他の病棟より請求数が多いと中央材料室(注2)に文句を言われつつも仕事上は滞りなくいくのである。

「お、お願いします」

すでに噂を聞いているのか、一緒に回ろうとしている研修医はやや緊張気味だった。
琴子は自ら胸を叩いて自信満々に「任せて!」と請け負った。
しかし、カートを押して意気揚々と廊下を歩いていく琴子の後ろを研修医は落ち着きなくついていくのだった。


 * * *


「で、何でそんなに落ち込んでるのよ」

仕事帰りの甘味屋で、あんみつをつつきながら幹は聞いた。
朝からのため息は、どうにか大きな失敗をせずに済んだガーゼ交換の回診を過ぎても解消されることはなかったからだ。

「あたし、新人のミヨちゃんより役に立ってないのよね…」
「何をいまさら」

間髪いれずにそう即答したところ、琴子は目を見開いて涙目になった。

「そこは同僚として親友として否定してくれてもいいでしょ」
「あー、はいはい」

大きな寒天がのどにつるりと入っていき、幹はその口当たりにため息をついて感嘆した。

「まー、本当においしいわ、ここ」
「モトちゃん!」

ついうっかり感想を漏らした幹だったが、思ったよりあんみつが口に運ばれていない琴子の器を見ると、少しだけ態度を改めることにした。

「ミヨちゃんはまれに見る出来のいい新人だから、あんたと比べても仕方がないんじゃない?」
「だから、それじゃ困るのよ」
「困るって、何が?ミヨちゃんにでもいじめられたの?」
「ミヨちゃんはそんなことしないわよ」
「そうよねぇ。まれに見る出来のいい…」
「だ、だからね、入江くんが帰ってきたときにミヨちゃんよりも出来る看護師になってるって約束したんだもの〜」
「…したんだもの〜って、あんたそれ無理じゃ…おっと、そもそもそんな無謀な約束を…じゃなくて、何でそんな約束したの」

幹の言葉に少々引っかかりはあるが、先ほどよりは真面目に聞く気になっていると感じたのか、琴子はようやくあんみつを口に運んだ。
正直幹は理由はどうでもよかったが、何か面白そうだったので身を乗り出した。単純なる好奇心である。

「ゴールデンウィークに入江くんが帰ってこないってなったときに、遊びに行きたいって言ったの」
「ああ、まあ、それはわかるけど」
「でも仕事の予定が入ってたから我慢したのよ!」
「だからつまり?」

琴子の話は無駄に長い。
幹は乗り出した身を引いて、再びあんみつを口に運び始めた。

「研修の終わり頃にちゃんと休みをもらってN市に来てもいいって」
「へー、N市ねぇ。行ったことがないわ、あたし」
「うん、あたしもなの。それで、遊びにいく代わりに…」
「入江さんが出した条件がミヨちゃんってわけ?」
「本当はそんな条件なんて最初はなかったのよ」
「じゃあ、何で」
「それはその…」
「『俺のいない間に腑抜けた看護してんじゃねえよ』とか?」
「…そんなことしないもんって言ったら、新人よりミスが多かったら来なくていいって」
「そもそも入江さんいないのに、どうやったらミヨちゃんより出来る看護師になってるって証明するのよ」
「…それが…」

口ごもりながら鞄の中をごそごそと探り、何かを取り出した。
一枚の紙には、なぜか清水主任の印が並んでいる。

「何、これ」

裏側に何か書いてあった。

「…琴子が新人以上に迷惑なことをしでかした場合、限界を超えたら連休はなしで…?何、これ、入江さんの字…?」
「う、うわ〜〜〜〜〜ん」

よく見れば、清水主任の印は既に5つ。
5月もあと10日はあるというのに、一日に一つ失敗したら印は限界を超えてしまう計算だ。

「…まるで小学生ね」

ご褒美にシールをもらう小学生…いや、この場合は失敗したら印が押されるので恐怖の失敗メモか。

「清水主任も真面目に押さなくってもいいじゃない」
「あんたが気合を入れて仕事をするために入江さんが考えたんでしょ」
「い、入江くんが、わざわざ清水主任に渡していったんだって。連休過ぎて仕事にミスがたくさん出るようなら使ってくださいって」
「いつもならもっと気合入れてがんばるでしょ。入江さんの奥さんにふさわしいようにって」
「だって、もう、もう、限界なんだもの〜」
「あー、はいはいはい。お願いだから店でわめかないでちょうだい」
「…ミヨちゃんに毎日一つ大きな失敗をしてもらうとか…」
「…腹黒すぎるわよ」
「印のないものをもう一つ作るとか」
「清水主任が許さないでしょ。第一休み希望を処理するのは清水主任じゃないの」
「ううっ」
「とにかく…あたしも協力はしてあげるから、あと残りをがんばりなさい」
「………うん」

その場は何とか慰めて終わり、幹は帰り道で携帯を片手にメールをせっせと打つのだった。


翌日。

「おっはようございまーす」

前日とは打って変わって元気に満ち溢れた声で琴子はナースステションに入ってきた。
呆れるほどわかりやすい娘だ、と幹は思う。
昨日帰り道で入江さんにメールを打ったのは正解だった、と幹は微笑んだ。
こんな緊急時にしかメールを打つ機会がないのは非常に残念だったが、それを条件に極秘に教えてもらったのだから仕方がない。しかも昨日の出来事は緊急時とみなしてもいい事態だろうと幹は思っていた。

「元気すぎて逆に物を落としたりしないでよ」

一言注意したくなるほどの元気さ。

「大丈夫。だって入江くんが待ってるもん」
「…あっそ」

直樹が何を言ったのか幹には想像するのもはばかられることだったが、きっと普段は言わないような甘い言葉の一つでも電話口でささやいたのだろうと思われた。
それは自分だったら身悶えして卒倒するようなセリフに違いないが、琴子にとってはまさに元気百倍になるような言葉だったに違いない。

「はあ、いいわねぇ」

元気さが眩しいくらいの琴子の様子を見て、幹は能天気の五月病ほど迷惑なものはないと確信するのだった。


(2011/04/26)