b 六月の雨の女神7;雪月野原



六月の雨の女神




「おなかいっぱ〜い」

ふうっと息を吐いて、満足したらしい琴子がお腹をさすった。
行きと同じく途中までは地上を歩きながら駅まで戻ることにした。
あちこちほのかにネオンが点灯し、夜の繁華街の雰囲気が伝わってくるが、東京よりもややおとなしめな感じだ。
人の出はそこそこ。
運のいいことに雨は小降りだったが、早足で誰もが地下の駅へと向かう。
琴子と直樹も適当なところで地下に下り、駅を目指す。
ところが地下の店はそろそろ店じまいなのか、賑わいはあるものの、店先に出している商品や看板などを片付け始めている。

「…早くない?」
「そうだな」

駅に近づくにつれて人は多いが店の活気は薄れていく。
地下の夜は店じまいが早い。
21時には店が閉まり、22時になると地下通路も一部は閉ざされるのだ。
不夜城の都心中心部と比べると、随分と早く感じるのも当然かもしれない。
もちろん開いている店はあるが、とりあえず今回は飲み食いしただけで帰るつもりだったので、乗り換えの駅まで一直線で向かう。
雨はしとしと降り続ける。
バスでマンションのあるバス停へ向かう間、琴子は暗く路面が光る外を見ながらあの雨の日を思い出していた。
いつも雨が降ると思い出す。
降り続けて水が溜まった夜道を直樹とともに歩く時などは特に。

「入江くん、あの雨の日、何を考えてた?」

バスから降りて歩き出したとき、琴子が言った。
駅で琴子を待っていたであろう時間。
家にたどり着くまでの時間。

「…さあ、何も覚えてない」
「何も?入江くんが?」

何でも記憶してしまう直樹が何も覚えていないなどと、あるわけがなかった。
そのはずだったが、直樹の記憶は学校を訪れて家に帰り、そして駅で琴子を見つけたあの瞬間からの記憶しか残っていなかった。

「強いて言うなら…イライラしてた」
「雨が降っていたから?」
「いや…どちらかというと…」

直樹はふと思い出す。
琴子が現れなくて、いったい何をやっているのかと思ったことだけは覚えている。
雨だからこそ、このまま琴子が帰ってこないんじゃないかとすら思った。
他の誰かの家に泊まり、琴子が自分以外の誰かと一緒になる。
自分以外の誰かを好きになれるはずもないから、好き嫌いも考えずに周りに流されるままに結婚してしまうのではないかと思った。
あれほどわがままなのに、いざとなるとそのわがままさを引っ込めて、他の誰かのために自分を犠牲にしてしまうのではないかと。
何故もっと強く自分を求めないのかといらだっていた。
今となってはその矛盾さに笑うばかりだが、結果的には何も考えずに駅に向かったことで今があるのだから、時には何も考えずに琴子のように突っ走るのも悪くはないかもしれないと思うのだった。

傘を回して、琴子が直樹を見つめた。
「あたし、あの日、雨が降っていてよかったと思ってる。
雨が降っていたから入江くんが迎えに来てくれて、入江くんの気持ちを知ることができて、結婚することだってできたんだもの」
「ああ、そうだな」
「だから、雨の神様に感謝してるの」
ふふふと笑う琴子の手を取り、直樹は少しおどけたように言った。
「何であんなに焦って家に帰ったんだろうな」
「あたしはてっきり雨に濡れるのが嫌なんだって思ってた」
琴子はそう言ってにっこり笑った。
もう誰にも取られたくないと思う気持ちが、足を速めたのか。
あの時、雨に濡れた琴子を抱きしめ、確かに感謝したのだ。
誰にも取られずに済んだという想い。
こうして今も隣にいる琴子は、多分女神にも等しい大切な存在なのだと。
マンションの部屋のドアを開けると、琴子が声を上げた。
「いやーん、結構べたべたにぬれてる〜」
歩き方が悪いのか、かなりスカートの裾を汚した粗忽者の女神だが。

「全部脱いじゃえばいいだろ」

直樹がそう言って意地悪く笑えば、「…もう、入江くんてば」と琴子が小さく言って頬を染めた。
明日、琴子が帰るまで、雨は降っているだろうか。
そんなことを思いながら、直樹はまだぐずぐずしている琴子のスカートを脱がせにかかったのだった。

(2012/04/29)−Fin−