ティーンズラブ編
「ティーンズラブぅ?」
病室に素っ頓狂な声が響いた。
言わずと知れた琴子だ。
年若い患者さんに何やら漫画を片手に熱弁されているようだ。
「だ、だって、こ、こんな…」
何やら顔を赤くして戸惑っているようだ。
あんた一体いくつなのよ。
そりゃもう結婚して何年も経つというのに(しかも極上の旦那捕まえておいて)、まるでバージンのような振る舞い。
ああ、だからこそ男は結構琴子のような女が好きなのよね。
あれでかわいこぶってないってんだから、旦那の教育の賜物なのか、元からの性質のせいなのか。
アタシはさりげなく近づくと、横からのぞき込んだ。
患者が持っているのは最近流行りの過激なラブコミックといったところだ。
そりゃまあ、入院中は暇でしょうし、悪戯好きな友だちの一人でもいれば見舞いにって持ってくることもあるでしょう。
ましてや漫画好きそうな女の子だしね。
でも、それを堂々とベッドの上に広げるのはちょっと慎みがなくってよ?
「あら、まあ、これだけあると壮観ねぇ」
アタシはその中の一冊を拾い上げて中をパラパラとめくってみる。
少々過激なシーンが必ず入っているというそのコミックは、琴子には刺激が強いかしらねぇ。でも、この子既婚者なんだけれど。
タイトルからして『S男子 オフィス調教』とか『そこは診察しちゃダメ』とか、こりゃまたなかなか厳選されている。
「桔梗さん、ハーレクイン・ロマンスのような結婚された看護師さんって、入江さんですよね?」
「え?…ああ、そうね」
随分と昔の話ねぇ。どこからか聞いたのかしら。
「それにしてはまるで…」
首を傾げている。
ええ、そうでしょうとも。
「そこは追及しないであげて。今からの仕事が全部できなくなっちゃうから」
「はぁい」
素直にそう返事をして、琴子は解放された。
病室を出ていきながら琴子がほっとしているのがわかる。
その後姿を眺めていたら、コミックを手にした患者がこっそりと声を潜めて言う。
「ところで、こんなマンガみたいなこと、あると思います?」
「…あるわよ。限定だけれど」
「え、やっぱりドクターとナースってそういうの?…その、当直室とか?」
「あら、場所なんて…っと、これ以上は怖くて言えないわ。言ったでしょ、限定だって」
「じゃあ、結構あるんですね」
「…だから、それほどないわよ。だいたい無人の場所なんてそうそうないんだし、それほど暇じゃないのよ。それに、ドクターだけは勘弁っていうナースは結構多いしね」
「でも、あるって」
興味津々の表情でこちらをうかがう患者に、アタシはため息をついて言った。
「そのうちわかるわよ。そうね、一週間もすれば」
アタシはそれだけを言って病室を出た。
残された患者は十代でもないけれど年若いし、こんな不祥事もどきを声高に言えるわけないでしょ。
同室の患者が笑って慰めている。
そうそう、見ていればわかるわよ。
かくして、本当に一週間でわかるかどうかアタシも賭けではあったのだけれど、見事にやってくれたわ、入江先生。
昼休みに戻ってきた琴子の首には、朝にはなかった痣があった。
ちょ、何でわざわざつけるのかしら。
アタシは常備している(悲しいことにいつも気付くのはこのアタシ。独り身のアタシによくもまあひどい仕打ちを…)コンシーラーを使ってなんとかうまく痕を消し去った。
これがDVだったら大ごとだけれど、どう見てもキスマーク。
しかも妙に満足そうだった人が一人。
涙目で戻ってきた琴子を見れば一目瞭然。
とりあえず午後の仕事ができる程度にして返してくれたことだけは感謝するわ。
オフィスラブも何も、夫婦でそれはないでしょうよ。
こんな合間を縫うようなこと、普通のカップルでもなかなかしないわよっ。
「あんた、ちゃんとお昼ご飯食べたでしょうね」
「え?うん、それは大丈夫」
「ああ、そう」
こりゃ明日の朝は足元よれよれのお肌ぴっかぴかね。
さすがに短いお昼の時間だけでは最後まで無理だった模様。ええ、最後までは、ね。
入江先生は、何を考えているのか、この嫁だけをとことんまで弄り倒す。そりゃ嫁だからいいけれども。
確かに仕事中にそういう素振りは一切見せないけれど、プライベートになると途端に豹変するというなんとも理想的な(?)野獣な一面を持っている。
ああ、それはもうティーンズラブも真っ青よね。
結婚までがハーレクイン・ロマンスなら、結婚後はティーンズラブってところかしら。
そもそもティーンズって十代なのに、どう読んでもオフィスラブとかティーンズじゃないわよね。そもそも内容からしてティーン向けじゃないわよね。そこはアタシ抗議するわ。
そんなことは置いておくとしても、職場では止めてくれないかしらねぇ。
抗議したいけれども、怖くて言えない。
ある意味牽制も含まれているから、絶対止めないわよね、あの人。
「き、桔梗さん、あたし、わかりました」
あの患者は大興奮状態でアタシを呼んだ。
「ああ、そう。真似するんじゃないわよ。あんなのコミックの中だけで十分」
「そうですね、周りはいい迷惑だっていうのがよくわかりました」
「そうでしょ。そもそもコミックじゃばれないようになってるけれど、余程周りが鈍いのか知らないふりをしてるってところよ」
「でも、一見冷たそうなのに、情熱的なんですねぇ」
うっとりとする患者に一言余計だと思いながら忠告した。
「彼女限定だから、勘違いしちゃだめよ。他の女にはとことん冷たいだけなんだから」
「それも萌える〜」
「はいはい、程々にね」
「ああ、でもその相手を見てる方が萌えるかも〜」
患者の戯言は放っておき、あたしはさっさと処置にかかる。
何が笑えるって、確かに彼女を見てる方が余計な想像を掻き立てるってところなのよ。
それをわかっていてやってるのかどうか。
きっとわかってるのよねぇ。
わかっていてあれなんだから、彼女にほのかな好意を寄せていた人全てにあの人だけにメロメロな彼女を見せつけるんだから、罪な男よねぇ。
しかもどうやってもかなわなさそうな容姿と頭脳の彼女だけに夢中の男。
ああ、うらやましい。
「も、モトちゃん、こ、これ。入江くんに見つからないうちに早く何とかして〜」
こっそり渡されたのは、『昼休みの背徳』というこれまたベタなタイトルのコミックだった。
「何であんたがこれを」
「だ、だって、あの患者さんが貸してくれるって押し付けて…」
「ああ、はい、それを入江先生に見られた、と」
「も、もう、もう、絶対借りないっ」
「で、読んだの?」
アタシの質問には答えずに、琴子はダッシュで逃げた。
ナースステーションの入口に入江先生の姿が見えたからだ。
アタシはさりげなくそれを廊下にいたあの患者に「はい、これ。看護師の入江から」と返しておくことにした。
入江先生はそれにちらりと目をやると、その鋭い眼光であたしを射抜いた。
はいはい、あたしたちが悪いですよっと。
琴子にあれこれとティーンズラブも真っ青なことをしでかしておきながら、これだもの。
それに気づいた患者もあたしとともにため息をついて言った。
「あたしはコミックみたいな恋じゃなくていいから、普通の恋がしたいです」
「同感」
ああ、どっかに落ちてないかしらね、いい男。
ま、ハーレクインでティーンズラブの琴子にはわからないでしょうけれども。
(2015/05/06)