If〜もしも花粉症だったら〜



直樹編


今年もこの季節がやってきた。
隣で鼻をずるずるとすすっているのは、指導医西垣だ。

「この僕が花粉症だなんて、世も末だ」

そう言ってごそごそとハンカチを鼻に当てている。
彼はそんな季節の恒例行事には関わりたくもないし、当然関わることはないだろうと思っていた。
そう、その日までは。

 * * *

とある朝、彼は盛大なくしゃみで隣に眠る妻を起こした。
一人で先に起きようと思った朝の出来事である。
昨夜も服を着るのも忘れて寝入ったのがいけなかったかと少々反省もした。

「…おはよう。どうしたの、入江くん。
ハッ、まさか風邪?!」

がばっと起き出した妻に額に手を置かれたが、もちろん風邪などひいていない、と優秀である医師の彼は思っていた。
それよりも目の前で揺れるささやかなる胸が彼を誘惑する。
いつもなら恥ずかしがって朝の陽の下でさらすことなどないその肢体を、彼の身体を心配するあまりに惜しげもなく披露されているのだ。
もうベッドから離れなければいけない時間ではあるが、ちらりと時計を見てあと少し戯れても許されるかと彼は計算していた。
その胸に口づけようとした瞬間だった。

へくしっ。

またもや彼はくしゃみをする羽目になった。

はくしょん。

文字通りそのままくしゃみをしたところで、彼はベッド脇のティッシュペーパーに手を伸ばした。
尋常ではないほどの鼻水が彼を襲う。
鼻をかみたいわけではない。
何もしないうちからたらたらと流れ出る鼻水に、彼はその優秀なる頭で即座に診断を下した。

…スギ花粉症…?

今年は例年の10倍といわれている当たり年だった。
だからと言ってこんなにも急に発症しなくてもいいだろうと彼は鼻水を拭きながら思った。

「入江くん、やっぱり風邪?」
「…いや、花粉症かもしれない」
「花粉症?あの西垣先生みたいな?」
「いや、あの人の話はどうでもいいが」
「だって、西垣先生がやたらと花粉症が辛くてとか、ナースステーションで言ってるんだもん。でも薬飲めば治まるんでしょう?」
「…まあそうだな」
「じゃあ、大丈夫よね。だって入江くんだもん」

最後は妻の何やらわからない自信と根拠で締めくくられたが、彼はまだ花粉症を甘く見ていた。
いや、今まで経験がなかったのだから仕方がない。
知識は豊富にあるものの、やはり経験に勝るものはないと彼はあの嫉妬事件で学んだはずだった。


あの指導医にだけは知られたくないと彼は思っていたが、口の軽い妻によってあっさり彼の花粉症は知れ渡った。まあ、口止めしていなかったのだからそれもいたしかたがない。
それよりも、ことさら花粉症を大げさに話す指導医とは違ってスマートだと、彼の評判はますます上がった。
彼は抗アレルギー剤を迷わず飲んだ。
こういうものはぐずぐずしていると症状がどんどんひどくなるだけだと多数の患者から学んだのだ。
ところが…。

ここ数日、けだるいような眠気とともに、彼は己の薬の選択を誤ったことを感じていた。
薬にはいろいろ相性があり、どれが眠気がくるのかは飲んでみないとわからない。
もちろん眠気が少ない製品というのはあり、それをうたい文句に新製品を勧める薬品会社すらあるほどだ。
彼が飲んだ薬は比較的眠気は少ないとされていたが、彼にとってはその効果も薄かったようだ。
まあ、こういうこともありうると、彼は種類を変えることにした。
薬を変更し、一時はこれでよくなったと思った。
ところが花粉の量がますます増加したシーズン半ば、とうとう飲んでいる薬の効果すら怪しくなってきていた。
一剤では効かないのか、所構わず鼻水が垂れる。
仕方がないので彼のポケットには常にティッシュペーパーが突っ込まれることになった。
それも鼻の下を傷めるので「鼻セ○ブ」という非常にデリケートな製品だ。
家にも職場にも常備することとなった。
当然買い置きは必須だ。
それから、ぴったりと顔にフィットするマスク。
今までも時々使っていたが、今回はかなり実用的に必要となった。

家に帰ると、いつもの鼻セ○ブがなくなっていた。
俺しか使わないはずなのに、と彼は訝しげに辺りを見回した。
そばのゴミ箱には案の定使い終わった残骸が…。

「…琴子」
「なあに、入江くん?」
「おまえ、使っただろ」
「あ。このティシュ?すっごく気持ちいいよね」
「これは俺専用だって言わなかったか?」
「え、でも、ちょっと手元になかったから使ってみたら、使い心地いいの」
「ほう、気持ちいい…使い心地、ねぇ」
「う、うん…あの、ごめんね、使っちゃって…」

なんとなく危険なオーラを発し始めたのを察したのか、妻は後ずさりを始めた。

「…いますぐ、気持ちよくして、使い心地を試してみるか」
「え、でも、もう使っ…」
「まだ試していない場所もあるだろ」
「う、うーん、そ、そうかな、もう、いいよ…え、やっ、入江く…」

こうして彼の夜は更けていった…。


翌日、昨日の無理がたたったのか彼はうとうとと居眠りをしていた。
もちろん人前で居眠りをするような彼ではないが、妻の前では例外である。
人が遠慮した人気の絶えた病棟の片隅で、楽しい昼食を終えた後のことであった。
マスクは放置され、その寝顔を楽しげに見ていた妻はついイタズラ心を起こした。
放置されたマスクを手に取ると、持っていた油性ペン(点滴に名前を書いたりするので常に一本常備)で落書きを始めた。
いつも仏頂面の多い彼は、笑顔を見せたとしても静かな微笑をたたえていることが多かったが、マスクをすることによってますます笑顔とはわかりにくくなったのだ。
そのマスクに妻は大きな笑い口を書いてみた。
若干ゆがんだが、それも味なうちだと一人満足。
それをそっと彼の口にはめてみた。耳にマスクをかける段階で彼は気がついたが、どうせ妻のやることだと彼は少し目を開けただけだった。
白いマスクに書かれた大きな口。
端正な彼の顔に妙なミスマッチで、妻は笑いをこらえるのに苦労した。
このまま吹きだしてはせっかくのイタズラが台無しだと、そのまま「もう時間だから行くね」と声をかけて立ち去ることにした。
その声を聞いた彼は疑うこともなく、目を開けて伸びをし、白衣を整えるとまずは医局へ向かうことにした。
彼の鼻が正常ならば、思ったよりも何か微妙な油性ペンの匂いがするマスクを不審に思っただろうが、残念ながらいつもより精度は落ちている。
医局に入った途端に彼の顔を見た同僚が、何事か吹きだしているのに首をかしげた。
そういえばここ来るまでに同じような光景はなかっただろうか。

「ぶっふふっ…」
「…なんですか」
「入江、おまえそれでここまで来たのか」

静かに指された場所を見ると、口元だった。
何か弁当のかけらでもついているのかと口元をぬぐう。

「…ま、いいや」

そのまま笑う同僚は去っていく。
彼はマスクを疑うこともなくそのまま準備をして病棟へ向かうことにした。
見る者が全て彼から目をそらす。
何かいけないものを見てしまったような顔だ。
ナースステーションでは、ナースたちがざわついた。
誰もが真っ赤な顔をして息をつめてこちらを見ている。

「…入江先生、大変ユニークで入江先生らしからぬ…いえ、遊び心があってそれもいいかと思いますけれど」

清水主任が言葉を選びつつ、マスクを指差した。

「あ、主任…」

背後から他のナースの残念そうな声がする。
彼はマスクをはずして見た。

「………こーとーこーっ!!」
「はいっ」

どうやらナースステーションの机の陰に隠れていたらしい妻が、彼のあまりに剣幕に驚きながら立ち上がった。
妻をひと睨みして、彼はマスクをゴミ箱に投げ捨てた。
妻へのお仕置きはさておき、こうして彼のマスク生活は終わりを告げた。
そのマスクをぜひとも手に入れたいマニアもいたとか言われるが、はばかられる話なので今回は割愛する。


マスクを手放した彼は、それからの日々を若干の鼻水とともに過ごすこととなった。
朝から手術の日は、かなり念入りに準備をする。
薬を飲み(眠くならないものを試行錯誤の上見つけ出した)、鼻をかみ、点鼻薬を使い、目薬をさす。
ところが、それでも長時間に及ぶ手術になると非常に厳しい。
手術室は無菌になるように空気も清浄されているはずなのだが、完璧に花粉を防ぐのは難しい。常に人の出入りはあるし、人の髪にまでつく花粉は防ぎようがない。
それでもかなりましなほうだったが、ついに彼に限界がやってきた。

「失礼しまぁす」

そう言ってどやどやと入ってきたのは、言うまでもなくポリクリ(実習医大生)集団であった。
この時間は手術室には来ないはずでは?と彼が思う間もなく、教授までもがやってきた。

「いや、少しだけ失礼するよ。すぐ出て行くから遠慮なく続けてくれたまえ」

仕方がないので手術に再び集中することに。とは言うものの、彼は第一執刀者ではなく助手の立場なのでどの道文句など言えるはずがない。
あれこれ今使っている機材の説明をした後、「ではここいいると繊細な手術の邪魔をしてしまうので、モニターで見学することにしよう」と一斉に立ち去っていった。
手術室の中は再びほっとしたが、彼らのざわついた空気はなかなか一掃されるものではない。
しかも、彼らは何も身に着けず、マスクのみで入ってくるので不潔極まりないのである。
機材に触ることもなければ何事か話すこともなく、ただ入って出て行くだけの存在であれば仕方がないとも言えるだろうが、彼にとってはそうではなかった。
集団で入ってきた彼らには、大量の花粉がついていたのだ。
たちまち彼の鼻は刺激される。
マスクをしているのだが、手術用のマスクは紐で縛るタイプなので、完璧とは言えない。正直、患者からの細菌を防ぐものではなく(一応その目的もないわけではないが)、手術者からの吐息や唾液を防ぐのが主な目的だからだ。
こんなことならマスクを二枚重ねしておくんだったと彼は後悔した。
たちまち彼の鼻は刺激に敏感になり、鼻の奥からそれはやってきた。
このままでは鼻を通り抜け、マスクにもすぐに伝わるだろう。
もう一刻の猶予もならない。
だが、助手の立場で「失礼」と言って手を放し、手を不潔にして最初から手洗いをするのは許されるのだろうか。
目と手は完璧に手術野に費やされているが、意識は鼻を通り抜けるもので占められている。
葛藤の末、彼はぼそりと言った。

「…洟」

そばにいた手術室看護師は我が耳を疑った。

…は、ハナ?

ハナ…花…鼻…洟水?!

ここのところ彼が花粉症で苦しんでいるらしいとの噂は聞き及んでおり、そんな大役を自分が務めてもいいのだろうか震える手でティッシュを手にした。
この際鼻セ○ブでなくともいいだろう。

手術室における新しい伝説の始まりであった…。


 * * *

がばっと彼は飛び起きた。

夢か…。

その彼の鼻に不吉な胸騒ぎならぬ鼻騒ぎがあった。

…まさかな。

隣には裸で眠りこけた妻の姿がある。
まだ肌寒い2月の頃の話であった。


(2011/03/24)