琴子編
それはある春まだ浅い日、彼女は毛布の下からごそごそと這い出していた。
「…また服着ないで寝ちゃった」
そのつぶやきは誰もいない寝室で響いたが、丸裸の身体をベッドから引きずるようにしてだる気に出すと、実にタイミングよくその原因の一端である男が現れた。
「早くしないと遅れるぞ」
声はかけるが彼女を起こしに来たわけではない。
自分の荷物だけ持つと、さっさと部屋を出て行こうとする。この辺りは昨夜の行為からすれば実に冷淡極まりない。
「うわっ、入江くん」
突然現れた男に驚いて、再び毛布を巻きつけたが、男が部屋を出て行く前にくしゃみを一つ。
そのくしゃみを聞きつけて、出て行こうとした身体を彼女に向けた。
「…風邪か?」
「え、大丈夫、ちょっと寒かっただけ」
念のため、とつかつかと近寄り、彼女の顔をのぞき込んだ。
「…ま、バカは風邪ひかないというからな」
「ひどいっ。元はといえば入江くんが…」
「俺が、何だって?」
「…入江くんがあたしが気絶するまで…だって…その…」
男はにやりと笑って言った。
「ふーん、それなら今度から服を着せといてやるよ」
「そうじゃなくって…!」
抗議する彼女の頭をぽんと叩いて「早くしろ」と言って部屋を出て行く。
夫である男には、全く彼女の抗議など通じない。
再び一人になった彼女は、くしゃみしたせいか流れ出る鼻水の存在を感じ取り、慌ててティッシュペーパーを取りに起き上がったのだった。
次に彼女が夫に会ったとき、彼女は盛大なるくしゃみと鼻水に襲われていた。
「…どうしたんだ」
病棟へのエレベータが開いた瞬間から聞こえていた盛大なくしゃみは、まさか彼女だったとは、という思いだ。
「い゛ーり゛ーえ゛ぐーん」
くしゃみとともに出てきた鼻水はとどまることを知らず、鼻の周りがたちまち赤く擦れるくらい鼻をぬぐい続けている。
幸い彼女の夫は優秀なる医師だった。
そして彼女は優秀とはいえないが一応看護師である。自分の病くらい見当がついているであろう。
しかし、鼻水がひどいので、あえてしゃべらずに同僚を見た。
「花粉症みたいなの」
彼女の代わりにそばで気の毒そうに言った同僚看護師の言葉を聞いて、即座に彼女の診断はついた。
風邪はひかないかもしれないが、花粉症は万人に共通する現代病である。彼女がかかってもおかしくはない。
もっと言うと、職場では彼女がくしゃみをするたびに物をぶちまけるので、非常に迷惑だったらしい。これでもし注射の最中にでも…と思うと想像するだに恐ろしいことになりそうだった。
ただでさえたとえ花粉症でなくとも失敗は数知れずなのに、これ以上被害を広げないためにも早急に処置が必要だった。
彼女は(花粉症で)潤んだ目で夫を見上げた。
もしかしたら花粉症もこの優秀なる夫の手にかかれば一発で治るかもしれない、と。
「…後で薬もらっておけよ」
予想に反して、一言そう言って無常にも夫は去っていった。
入江くんに花粉症は治せないの?!(…治せません)
このあたしの苦しみなんてわからないんだわ!
もはや悲しいためなのか、花粉症のためなのかわからない涙をぬぐいながら、彼女は薬をもらおうと手続きをするのだった。
その日の夜、彼女の鼻水は少し落ち着きを取り戻していた。
そこへ帰ってきた夫は、彼女の顔をのぞき込んだ。
「薬効いたか」
「うん、効いてるみたい。まだちょっとおかしいけど」
そういって彼女は夫に抱きつこうとしたが、外から帰ってきた夫の服には花粉がたっぷりついていたらしい。
途端に涙が出てきた。
「あ、えーと、これは違うの」
突然涙を溜めて見つめる彼女の様子に、夫は眉根を寄せた。
「だから、その、多分、花粉症で」
それでも目を潤ませて見上げる彼女が言い訳を続けていると、夫は顔を寄せて唇を合わせた。
「んっ」
有無を言わさず繰り返される甘い口づけはやがて深くなる。
ところが。
完全に口をふさがれても鼻で息をするのが常識というものである。もちろんそこで鼻息が荒くならないように隙を見て口から呼吸するのも普通のことであろうが、今の彼女の鼻は機能していなかったうえに、口から呼吸する暇もないほど夫の口づけは激しかった。
「ちょ」
求めてくる唇を離そうと夫の胸をどんどんと力強く叩いた。そりゃもうロマンの欠片もなく、ムードのムの字も解さないほどに。
夫は不快そうにしぶしぶ唇を離した。
「あー。苦しかった…」
胸をなでおろした彼女は、はっとして自分の夫を振り返った。
「あ、あの、ごめんね。その、鼻が、ね」
「…ああ、そう」
不機嫌さを隠そうともしない声音と顔で夫は答えた。
「だ、だって、息ができなかったんだもん、死んじゃうかと思ったのよっ」
「…明日、もっと効く薬を処方してもらうように言っておけ」
「は、はい」
息は苦しかったが、帰宅するなりの口づけを途中でやめる羽目になり、彼女は惜しいことをしたと内心思っていた。
それなのに、ばさっと夫が上着を放った瞬間「ぶえっくっしょん」と百年の恋も冷めるようなくしゃみを繰り返し、先ほどの熱烈な口づけもどこへやら。
しかも油断して鼻水まで垂れ、彼女は今度こそ本当に半泣きでティッシュを取りに走るのだった。
翌日、彼女は再び耳鼻科の外来にいた。
「今度は超強力な薬をお願いしますっ」
「それではもう少し効き目の強い薬にしますね。人によっては眠気の出ることもありますから、気をつけてください。もしも眠気が強いようなら変更しましょう」
「ありがとうございます!これで今日はきっと…キッスをしても苦しくないわね」
彼女が密かにつぶやいた言葉は、幸いなことに耳鼻科医の耳には入らなかったようだ。
浮かれ気味で帰る道すがら、彼女は立ち寄ったショップで『いいもの』を見つけた。
そこで彼女はそれを土産に浮かれ足で家に帰りついたのだった。
「ただい……」
「おっかえりなさ〜い」
浮かれ気味で出てきた彼女の顔は、ゾウの鼻型マスクで覆われていた。
「なんだ、それは」
毎度のことながらと思いながら、夫は彼女の口元から伸びているゾウの鼻に目が奪われていた。
ぷらぷらとぶら揺れるそれは、あまりにも奇妙。いや、それどころか色が水色だから許されるが、あまりにも怪しげで淫靡だった。
「あ、これ、かわいーでしょ」
なんにでも可愛いと称するその風潮が気にいらなかったが、とりあえずそれは今どうでもいい。
「それからね、ほら、これも〜」
後ろ手からじゃじゃ〜んと声付きで出してみせ、付け替えたそれはアヒルのくちばし型がマスクについていた。
他には豚の鼻型など、いったいどれだけ買ったんだと突っ込みたかったが、それも今はとりあえずどうでもいい。
「おまえ、まさかそれで外を歩いていないだろうな」
「うん、まだ今日買ったばかりで、今初めて入江くんにお披露目なの」
ほっと胸をなでおろしながら、そのゾウの鼻型マスクを奪い取った。
「少なくともこれは却下」
「え〜〜〜〜、可愛いと思ったのに」
「おまえは一体どういう趣味をしてるんだ。センス悪い」
「そんなことないもん。今大人気って書いてあったし」
「どこに」
「お店に」
「じゃあ、その店の店員も買ったやつも趣味が悪いんだろ」
「ひっどーーーーい」
「うるさいっ。だいたいおまえ、それ見て何とも思わないのか」
「何ともって、だから可愛いって」
ぶちっと夫の何かが切れた音がした。
彼女は息を呑んで夫を見上げる。
「絶対、二度と、金輪際、使う気が起きないようにしてやる」
「へ?」
「来いっ」
引きずるようにして彼女は寝室へ連れられていった。
バタンと閉じられた寝室で、彼女はベッドに放り投げられた。
ふんわりしたベッドに横たわると、彼女は途端にあくびが出てきた。
実は夫が帰ってくる前から非常に眠かった。
眠かったが、夫にあのマスクを見せるまではとがんばって起きていたのだ。
ベッドの傍らで夫がネクタイを解いている音がする。帰りに教授に付き合って出かけていた名残で、いつもよりかなりピシッとした服で出かけていたためだ。
そのネクタイのしゅるりとした滑らかな音を聞いていると、まるで子守唄のようだった。
先ほどまであれほど夫の剣幕に怯えていた彼女だったが、これからどうせ叱られるのだと思えば、このまま眠ってしまえばいいかもしれないと思い始めていた。
「琴子」
「ん…」
やけに生返事になるのを避けられなかった。
「…琴子」
「うん、うん」
彼女のパジャマに手をかけようとして夫だったが、気がつくと彼女は寝息を立て始めていた。
「…あれ、おかしいな、すっごく…ねむ…い」
途切れ途切れにそう言ったが最後、裸にしようがキスをしようが全く起きる気配がなかった。
どうしたことだ、これは、と夫が思い始めたとき、ベッドの傍らに置いてある薬に目が留まった。
「…これか」
まるで睡眠薬がごとく彼女の眠気を誘った薬の正体を見て、夫は落胆のため息をついた。
猛り狂った夫を慰めてくれる彼女は完全に夢の中だ。
まさか全く反応も示さない彼女をどうこうする趣味は夫にはない。ひとつひとつに泣いたりよがったりする彼女の反応を見る楽しみがなくてはならないのだから。
夫は薬を握り締め、連日楽しみを奪い続けた耳鼻科医を明日どうしてくれようと思うのだった。
気に恐ろしきは逆恨みなり…。
恨むなら花粉症を恨め、という耳鼻科医の悲鳴はもはや夫の耳には届くまい。
その夫の耳を検査したほうがいいのではないかと耳鼻科医は満身創痍でつぶやいたというが、本当かどうかは定かではない。
そして、あのマスクは斗南病院の一部で大流行したという。
もちろん彼女がゾウの鼻型マスクをつけることは二度となかったという。
(2011/04/17)