…ったく、あいつは…。
思わずそんな独り言が出た。
動かない琴子。
どうやら眠っているらしい。
なんでこんなところで居眠りしてるんだ。
ゆらゆらと木の葉の影が身体の上を揺れている。
光はちょうど遮られ、琴子の顔ははっきりとは見えない。
傍に放られた雑誌は、かすかな風にはびくともしない。
ちょっとした意地悪で俺は琴子に近寄った。
今ここで急に起こしてやったらどんなに驚くだろうか。
ゆっくり近寄った俺に見えたのは、幸せそうに眠る琴子の寝顔だった。
そんな寝顔なんて、別に見るのは初めてじゃない。
リビングのソファでうたた寝することもあるくらいだ。
…それなのに。
俺の気配を感じないのか、琴子は起きない。
規則的に上下する胸の動き。
よく眠っているらしい。
木陰なのに妙に白く見える首筋。
身体の中を駆け巡る血の流れはわからない。
…いや、それは俺の中の鼓動か。
少し開かれた唇から漏れる寝息。
かすかに動くまつげ。
自分でも知らないうちにかなり顔を近づけていた。
なぜだか、吸い寄せられるようにそのまま琴子の顔に見入った。
多分、そんなつもりはなかったと、後でなら言っただろう。
無意識のうちに触れた唇。
柔らかい感触。
いつかのときのようなあんな強引さではなく。
ただ触れてみたい衝動を抑え切れなくて。
自分で自分の行動が理解できないなんて、琴子に会ってからたびたび感じてはいた。
そんな自分にイラついて、時には琴子に当たったり。
今日の行動はどうだろう。
イラついたわけでもなく、もっと簡単に琴子が好きだと思うなら、悩むことはないだろう。
俺は琴子が好きなのか?
嫌いではない。
そう琴子にも答えた。
ただ、今の気持ちは俺にもわからない。
…わからないのに。
琴子が起きないように、そっと口づけたとき、後ろで物音がした。
誰かに見られることより、琴子に気づかれるほうがきっとあせっただろう。
自分でも信じがたい行動をうまく説明できるとは思えなかった。
そんな気持ちのまま琴子に期待させるのは嫌だった。
物音に俺は、ゆっくりと振り向く。
どうやら一部始終を見ていたらしい裕樹。
ああ、裕樹なら…。
俺は人差し指を唇に当てて片目をつぶった。
それは、内緒にしろよ、とそのまま静かにしてろよという意味を裕樹は無言で理解した。
裕樹は心得たようにうなずいた。
顔は真っ赤だ。
無理もない。
苦手なはずの琴子にキスする俺を見た後では。
俺ですら、この気持ちを理解できないでいる。
ただ、嫌な気分ではなかった。
逆に高揚する気持ちを俺はゆっくりと静める必要があった。
そのまま荷物を抱え、届け先へ向かう。
今の気持ちがなんであれ、俺はもう一度確かめてみたかったのかもしれない。
あの卒業式の夜、からかうつもりで口づけたあの感触を。
唇が触れることがそんなに重要でもないと思ってした感触が、
意外なほど柔らかく甘く感じてしまった自分にとまどったあの日。
こんなものなんだ、と俺は納得した。
木立の中を歩くうち、俺は徐々に落ち着きを取り戻した。
あんなことをしたと知ったら、さぞかし琴子は驚くだろう。
おふくろはうるさく言うかもしれない。
そんなことは問題じゃない。
そう、たかがキス、だ。
琴子に色気はないかもしれないが、俺もただの男だったということかもしれない。
多分、もうこんなことはないだろう。
俺はそう結論付けて歩き続けた。
清里にて〜直樹〜(2004.11)−Fin−