受難
卒業してから何年が経ったろう。
かの調子のいい先輩は、相も変わらず彼女の周りに現れる。
彼女がデート中だろうと、休日を過ごす一日だろうと。
犬の散歩と称して何キロも自転車でやってきたこともあった。
彼女にとってはどうでもいい相手。
決してかっこいいわけでもなく、頭がいいでもなく、何よりもその調子のいい性格がどうにも好きになれなかった。
そして彼女はため息をつく。
「…いい加減にしてくれませんか、須藤さん」
彼女は振り向いて怒った。
往来の真ん中である。
その先輩はいきなり振り返った麗しき彼女に、喜び勇んで近づいていく。
「やあ、偶然だね、松本」
偶然も何も、後ろからつけてきていたのはあなたでしょ。
そう大声で怒りたいのも山々だが、ここは一つぐっと我慢してこらえる。
一年前から営業職に配属されて、ようやく慣れてきたこのごろ。
同じく万年営業職の先輩は、それを知って偶然を装い追いかけてくる。
これではまるっきりストーカーである。
最初は不快を表しながら付いてきていた上司も、先輩のあまりのドジ振りとしつこさに、ストーカーまがいであるにもかかわらず笑って言う。
「今日も来てるね。君の先輩」
「無視、してください。相手をすると付け上がりますから」
振り返りもせずその高いヒールでどんどん歩いていく。
それが彼女の日常だった。
もちろん毎日…ではなく、思い出したように現れるので、ストーカーとして届けたらどうだと言う上司のアドバイスにも目をつぶってきた。
しかも自分が姿を見せないと心配してくれているんじゃないかと、会った途端に自分の苦労話をするところがうっとおしい。
先輩のいない間は仕事にも集中できて、心配どころか解放されたような気分になると言うのに。
とにかく、そんな調子がもう何年になるだろう。
往来で怒鳴ったあと、気分を入れ替えて、彼女は再び歩き出した。
この先輩にはどんなに言っても通じない。
めげないし、あきらめると言うことを知らない。
営業職にはぴったりの性格だとも思うのに、あまりの調子のよさと仕事の手際の悪さで、成果は上がらないらしい。
いっそのことストーカーとして訴えたらどうだろう。
そんなこともチラッと考える。
能天気な顔を見ていると、
元先輩としてあまりにも忍びない。
毎回デートを断られては肩を落として去っていく姿を見れば、そこまでの打撃を加える必要もないだろう。
多分彼女が結婚すれば終わる。
なんだかんだと言っても彼女の幸せを一番願っている人なのだから。
でもそれまでは…。
彼女は深いため息を落とした。
* * *
能天気に今日も彼女に会えたと喜んで営業所に帰る須藤。
万年営業職ではあるが、その情けなさぶりにあちこち営業所を飛ばされ、
今や埼玉の隅。
そういうわけで、営業中に彼女に会えるのはいまや月に二度ほど。
勝手に営業中と称して東京都内まで時間をかけて通うのをいつもとがめられる。
何せ須藤に電話しても、すぐには帰ってこない。
息を切らせて必死で帰ってくるのを見れば、注意もしがたいが、サボっていたのは一目瞭然。
そういうわけで、いつもはのんびりした営業所所長もあとどれ位したら飛ばしてやろうかとまで考える。
能天気な須藤は決して客受けが悪いとは言えない。
言えないが、役には立たない。
まめに通うのは美人のオーナーのところばかり。
もっぱらそういう評判であったから。
「須藤さ〜ん、お茶はいりましたよ〜」
入社一年目の女の子、中沢は機嫌よく須藤にお茶を勧める。
その堂々たる体格、自分では最高にセクシーと思っている厚い唇を武器に、何故か須藤に迫っている。
迫っているのにいっこうに須藤は気づかない。
身体をくねらせ、須藤にアピールしてみた。
須藤は短く「ありがとう」とだけ言ってお茶を飲んでいる。
そのぐびぐびと飲むさまを見て、中沢は、もう、つれないんだから〜と指先でつつく。
須藤はやや引きつった顔で後ずさりした。
今気づいたが、これはどうやら何かアピールをされているらしい。
まあ、俺の魅力を持ってすれば女の子の一人や二人…。
それなのにどうして松本はあんなにつれないのだろう。
いやいや、松本もそろそろぐらっと来る頃だ。
そうに違いない。
今日は振り向いて恥ずかしげに俺を怒鳴ったじゃないか。
あれはきっと照れ隠しに違いない。
うん、今度の日曜こそデートに誘ってみよう。
「須藤さぁ〜ん、今度の日曜って、何か用事あります?確か久々に日曜休み入ってましたよね?」
「え?」
「ワタシもぉ、今度の日曜休みなんですぅ。どこも行く予定がなければ、ワタシと一緒にどこかへ行きませんか?」
須藤はその言葉に固まった。
何ゆえ君と出かけねばならないのだろう。
貴重な日曜休みは、もちろん松本の家まで誘いに行くつもりだった。
松本は花が好きだからな。
花束を持って誘いに行けばきっとめろめろだ。
いや、待てよ。
ここは一つ松本に俺ももてるということをアピールするのもいいんじゃないだろうか。
松本の前でわざとデートをしてみたりすれば、松本も自分の本当の気持ちに気づくかもしれない。
やっぱり須藤さんがいないとダメ、なんてな。
この作戦は使い古された感じはあるが、何よりもあの相原があの入江を落とした作戦でもある。
いや、今は入江だったか。
まあ、そんなことはどうでもいいか。
懐かしく学生時代を思い返す。
そうだ、俺はあいつらのキューピッド的なものだな。
あの二人を組ませたダブルスといい、バイト先を紹介したり、清里にも誘ってやったな。
うん、うん、俺っていい先輩だな。
清里と言えば…。
何やら実家から言ってきていたな。
親戚のペンションを手伝えとか何とか。
またあの清里にこもってペンション経営だなんて、俺には向いていない気がするぞ。
俺はいまや都会の男。
松本に似合う営業一筋の男だ。
おお、そうだ。
今年の夏は松本を誘おう。
またきっと喜んでくるに違いない。
勝手に脚色しながら都合のよい思い出を作り上げていく。
しかし、それ以上にうわてな人間がいた。
「もう、須藤さんたら、恥ずかしがりやさんなんだから〜」
勝手に解釈して勝手に須藤像を作り上げている。
誰もその点に関しては突っ込まない、見ないふり。
同じ営業所の皆は、どうか自分に矛先が向きませんようにと祈るしかない。
「それじゃあ、中沢君。ここで待ち合わせね」
詳細な地図を渡された中沢は、その場所を見て首を傾げるばかり。
住宅街のど真ん中。
しかも高級な通り。
でも須藤が誘ってくれたので、素直にうなずいた。
この点はほめられるべきだろう。
* * *
そしてやってきた日曜日、須藤は朝早くから高級住宅街に現れた。
中沢のとの待ち合わせ時間まで、まだだいぶ…いや、かなり時間がある。
手に持ってきた花束は電柱の陰に隠す。
そしていつもの日課の犬の散歩に彼女が現れるのを待つ。
出てきた彼女を前にして、さりげなさを装い彼女の行く手に現れた。
「や、やあ、松本、ぐ、偶然だなぁ」
少々緊張してどもってしまった。
彼女は思いっきり眉をひそめた。
偶然であるわけがない。
何せ須藤の家は埼玉である。
「やあ、クラリス」
犬のクラリスは敵意むき出しに須藤を追い払おうとする。
しかし、あからさまに歯をむき出しにせず、あくまで威嚇。
ご主人様が相手にしないとわかっているからこそ、自分も相手にしないというスタンスを取る。
しかし、それ以上ご主人様に近づいたら容赦しないぞという威嚇である。
と、そこへ現れたもう一人の人物が…。
「すっどうさ〜ん!!」
どすどすと音を立てるようにして走って現れた影、それはあの中沢であった。
「な、何で君がここに」
何でって、自分が取り付けた約束である。
しかし、約束の時間までまだ4時間ほどあるが。
「ワタシ〜、待ちきれなくって〜」
ある意味素晴らしい。
ここまで思われてナンボである。
「あら、須藤さん、待ち合わせなの、よかったわね」
彼女は何の関心もなく犬の散歩に出かける。
思わず松本嫉妬作戦をすっかり忘れてしまった須藤は、彼女の背中に向かって叫んだ。
「ああ、待ってくれ、松本〜〜〜」
後姿に叫んでみても、腕にしがみついた身体は離してくれない。
「さ、須藤さん、行きましょう」
「は、離せっ」
まだ嫉妬作戦は途中である。
とりあえずここは帰ってくるのを見計らって、松本にアピールするのが大事である、と計画を練り直す。
「どこか行きます?」
中沢の話にも耳を貸さず、電柱の影でじっと松本の帰りを待つ須藤。
立派なストーカーである…。
しばらく後に彼女が帰ってきた。
まさかまだ電柱の影に須藤が控えているとは知らない。
彼女はそのまま家の門の中に入って行こうとする。
そこで須藤は聞こえるように大きな声で言った。
「いやー、困っちゃうなー。好きな人がいるんだよねー。そうそう、この花束も彼女のために…」
と、先ほど隠していた花束を取り出して、彼女の方へ駆け寄ろうとした。
…が、たくましい腕にがしっと捕まり、気絶せんばかりに締め上げられた。
「う、うれしい、須藤さん!!」
その悲鳴のような声に彼女はチラッと須藤を見た。
だが、見ただけでそのまま門の中へ。
「ま、まつもとおぉ〜〜〜〜〜」
滂沱の涙を流しながら、たくましい腕の中で哀しく叫ぶ須藤の声が、高級住宅街に響き渡った。
しかしその声も防音効果抜群の住宅においては、ただむなしく響くだけであった…。
* * *
時々何でこんなことになったのだろうと、須藤は自問自答する。
やはりあの一件が悪かったのだ。
あの時、あの女とデートの約束などしなければ。
彼女はキャリアウーマンへの道を着実に歩いていく。
須藤は何故か、清里の両親がいるペンションに。
そこで目にしているのは、にこやかに挨拶をしている中沢。
おかしい。
別に招待したわけでも何でもない。
連休を利用してうるさく言う両親を説得するため、清里へとやってきた須藤だったが、何故かそこに中沢の姿を見つけて驚愕する。
いったい、なぜ、どうして、そこに、中沢が!
しかも、何やら話は須藤の知らないうちに嫁とりの話に。
おーまいがっ!!
頭を抱えて叫びだしそうだった。
テニスのラケットを握っていないときの彼は、かなり小心者で謙虚なのだ。
将来は中沢とペンションを夫婦仲良く経営する、と言う話にまで発展している。
ちょっと、待て。
あの女とは何も関係がない。
ないはずなのだが…。
なぜだろう、逃げられない気がするのは。
もしかして、これが入江の言っていた運命と言うやつなのだろうか。
ぶるるっと震えて、須藤はそこから逃げ出した。
冗談じゃない。
俺はまだ松本をあきらめていないぞ。
松本〜〜〜〜〜!!
そしてまだまだ、須藤の受難は続く…かもしれない。
受難−Fin−(2006/11/19)