迷子
その日琴子は、両親に連れられて、父の知人宅へ訪れていた。
お気に入りの服を着せてもらい、お気に入りのリボンで髪を束ねてもらった。
うきうきしながら来たものの、直ぐに飽きてしまった。
その家には子どもがおらず、したがっておもちゃも遊具も何一つない。
ただ広い庭があるだけで、しかもその庭の大半は趣味のよい庭木で占められていた。
特にお気に入りの服を着ていたので、汚すこともできず、ただぼんやりと庭を眺めていた。
そのうちぼんやりすることにも飽き、家の敷地内を探検し始めた。
いつもならもっと狭いところも通り抜けているのだが、一応他人様の家。
行き当たった家の門を抜け出すくらいにとどめた。
そこは来た時に入ってきた表門ではなく、裏門だった。
それでも使用人がしょっちゅう出入りするらしく、鍵はかかっていない。
そっと木戸を開けて家の敷地から出てみる。
大きな家の立ち並ぶ住宅街は、それぞれの家が塀に囲まれ、驚くほど静かだった。
琴子は好奇心の任せるままに歩き出す。
この際自分がどんなに方向音痴だろうと関係がない。
その自覚がないからだ。
何度目かの角を曲がると、自分が来た方向がわからなくなった。
それでも気にしなかった。
目の前に小さな公園を見つけたからだ。
公園には二、三人の子どもが遊んでいた。
琴子を見ると、かたまって何か話し始めた。
「おまえ、この辺のやつじゃないよな」
一人が威張って言う。
琴子と同じ年頃の男の子だった。
「あたしのおうちはここじゃないもん」
「じゃあ、ここで遊んでいいと誰か言ったか?」
「なんで?」
「ここはおれたちのなわばりだぞ」
「なわばりって何?なわとびのこと?」
「おまえ、バカだろう」
「あたし、バカじゃないもん」
「じゃあ、50たす50はいくつだ」
「……」
「ほうらみろ、バカじゃないか」
「バーカ、バーカ」
琴子をからかうように他の子どももはやし立てる。
だって、1から10までしか数えられないもん。
そう言いたかったが、また何か言われそうで黙っていた。
涙をこらえて男の子たちをにらんだ。
「…じゃあ、150たす150を答えてみろよ」
不機嫌そうな声でトンネル状の遊具の中から、一人の男の子が出てきた。
「答えられないなら、おまえたちもバカってことだよな」
「おい、あいつだぜ…」
こそこそとささやきながら、はやし立てた男の子たちは後ずさる。
「程度の低いことで争うなよ。せっかく本を読んでいたのに、うるさいんだよ」
そういった男の子の手には、およそ似つかわしくない厚い本があった。
どうやら漢字も混じっているようである。
琴子は依然として不機嫌そうな男の子を見ていた。
同じ年頃の子どもにしてはやけに大人びた口調。
その毅然とした態度に、琴子をからかっていた男の子たちは気まずそうに公園を出て行った。
琴子はひとまず意地悪な子どもたちがいなくなってほっとした。
そして、改めて本を抱えた男の子を見る。
今まで見た中で一番かっこいいかも。それに、助けてくれたような気がする。これこそ王子様かもしれない。
琴子がそう思っていると、不意に琴子を振り向いて見据えた。
「あいつらが戻ってこないうちに帰れよ」
「う、うん。でも…」
「しかたがねぇなぁ」
そうつぶやくとポケットから何かを取り出した。
「ほら、これやるよ」
「あ、しゅりけん」
「これで悪者やっつければいいだろ」
「うん、ありがとう。あたしこれ作れないんだ」
「あ、そう」
興味なさそうに本を抱え直す。
「ありがとう、じゃあね」
「おい、わかってるだろうけど…」
そう言いかけて視線を女の子のほうに向けると、すでに公園の外に走り去った後だった。
「まさか本当にあいつらに手裏剣投げたりしないよな。…バカだったから、本当にやるかな…。
ま、いいか。僕には関係ない」
そう言ってため息をつくと、そのまま同じように公園を出て行った。
そしてその数十分後、またもや半泣きで公園に琴子は戻ってきた。
元の知人宅にやはり戻れなかったのだ。
公園に入ると先ほどの男の子を捜した。
あの頭のいい子なら帰るところを知っているかもしれないと。
「いない…」
う、うわ〜ん、と琴子は泣き出した。
大泣きしたのはしばらくの間。
泣き疲れて少し下を向いたままうとうとする。
再び顔を上げたとき、少しずつ暮れていく公園で一人きりなのを感じた。
どうにも状況が変わっていないことにまた涙が出てくる。
しゃがみこんで顔を覆い、鼻をすすって少し周りをうかがうと、公園の隅のベンチに誰かがいるのに気づいた。
しかし、その人影は動く気配がない。
より一層声を張り上げて泣いた。
なかなか動かなかったが、やっと顔を上げてこちらを見た。
「…どうしたんだ、迷子か?」
そして声をかけてくれた。
「違うの」
反射的にそう答えた。
迷子と言うのは家に帰れなくなったときのことで、琴子の場合は知人宅に帰れなくなっただけだから、これは迷子じゃないとそう思い込んでいた。
ちょっと考えて、こうなったわけを話すことにした。
「うんとね、お母さんがね、今日はお友だちの家に行くから、ちゃんとおりこうさんにしてなさいって言ったの」
「おりこうさんにしてなかったのか」
「ううん。あのね、お友だちの家にはおりこうさんに行ったの」
「で?」
「それでね、お母さんがちゃんと食べなきゃダメよ〜って言ったの」
うれしいことに、この人は琴子の話を聞いてくれる。
そう思うとにっこり笑った。
いつも自分の話がよくわからないと、お父さんに言われる。
唯一理解してくれるのはお母さんで、他の人は琴子がつたない言葉なりに機関銃のように話すのをあまり真剣には聞いてくれない。
「緑のお野菜、苦いのがあるの。それを残したら、連れてってくれないって」
「どこへ?」
「公園」
「…だから一人で来たのか」
「ここに来たら、お友だちに会えるかなと思って」
「会えなかったのか?」
「うんとね、お友だちの家に帰れなくなっちゃったの」
それを言うと、その人は目を見開いた。
家に帰れないと、黙って出てきたことがばれてしまう。
「だから、だから、お母さん怒ってる〜〜〜」
事実関係としては逆だが、少々パニックを起こしている琴子には関係がない。
「家を探してやるよ。名前は?」
「ことこ」
その人は名前を言うとおかしそうに吹き出した。
そして琴子と目線を合わせてくれる。
「家はどこだ」
背が高くてまともに顔を見られなかったが、目線を合わせてくれてようやく気がついた。
優しげに見つめる男の人が、テレビの中の人のようなことだったこと。
琴子はその人に小さいながらも見とれていた。
そして、いつかの紙芝居で見た王子様に似ている!
「お兄ちゃん、王子様?」
そう聞くと、なぜか苦笑いになった。
「いや、違うよ。家の近くには何がある?」
「うんとね、あたしの家はまあちゃんちの隣」
「まあちゃんちというのは、どの辺りだかわかるか?」
「うん。あたしの家の隣」
答えながら、そうか、王子様じゃないのかぁと残念に思った。
「いや、だから。家の前には何があるんだ?」
「えーとね、大きな木」
「どんな木だ?」
「ごろうくんが登って落ちた」
皆でその木に登ろうとしたけど、結局登ることができたのはごろうくんだけだった。
そのごろうくんもあと少しというところで、一番下の枝から手を滑らせて落ちたのだ。
「花は咲くのか?」
「咲かないよ」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、琴子は考えた。
もしかしてその木に登りたいのかな、と。
それともその木の花が見たいのかな、と。
もしかしたら怖い犬に追いかけられているのかもしれない、と。
すでに自分が迷子であったことさえ忘れかけていた。
「ことこ〜」
遠く琴子を呼ぶ声がした。
それが母の声だと気づいた琴子は、
「お母さん、来た」
と言って、瞬間的に母の方へ走っていこうとした。
しかし、ふと思い出す。
王子様なようなお兄ちゃんが、困らないように、と。
「お兄ちゃん、ありがとう。これあげる」
そう言うと、先ほど男の子からもらった手裏剣のうちの一つを手渡した。
「これで悪者やっつけるのよ」
そう言うのも忘れずに。
「ありがとう」
琴子から手裏剣を受け取り、驚いたように微笑む。
これでお兄ちゃんも大丈夫。
そう満足して琴子は安心して母の元へ駆け寄っていた。
公園の外に母の姿を見つけると、怒られるかもしれないのを忘れて、うれしそうに言った。
「おかあさ〜ん、あたしね、王子様に会った〜」
今日は王子様のように助けてくれた人が二人もいた。
なんて自分は幸せなんだろうと、そう母に伝えたかった。
それなのに、心配して探し回っていた母は、琴子の顔を見るとまず説教した。
「ことこ!勝手に行っちゃだめでしょ!」
しまった、と足がすくむ。
そして次の瞬間、母の胸に抱かれた。
「心配したのよ。こんなに遅くなるまで見つからなくて…」
心なしか震えている母に抱かれ、琴子は素直に反省した。
「ごめんなさい…」
それから手をつなぎ、隣にいる母の顔が落ちかけた夕日に照らされているのを見ながら言う。
「王子様って本当にいるのかな」
「うーん、どこかにいるかもね」
「そうか、いるのかぁ」
琴子は母の手をしっかり握り締め、あんな人が王子さまだったらいいなと思っていた。
後ろに長く伸びた影を振り返ってから、もう一度公園の入り口を眺めた。
もう一度、会えるかなぁ。
淡い期待を胸に、母と帰り道を急いだ秋の夕暮れ。
迷子−Fin−(2006/10/05)