逢う魔が時




琴子が泣いている。
いや、あれは子ども?
俺たちの子ども?
いや、まだ子どもはいないはずだ。


直樹はまどろんでいた目を開けて、声の主を探した。

目の前に、大泣きしている女の子がいた。
年の頃は4歳くらい。
髪を二つに縛って揺らしている。
公園には人気がなくなってきており、直樹は周りを見渡して親を探した。
時計を見る。
時刻はすでに5時を過ぎ、秋の夕暮れは徐々に迫り、太陽は沈みかけ。
こんな小さな子が公園にいていい時間ではなくなってきている。

待ち合わせをしている琴子はまだ来ない。
ふぐ吉へ行くから待っていろと言ったくせに、時間に遅れやがって。
こんなことなら家に帰ればよかったと直樹は一人愚痴る。

目の前の女の子は飽きもせず泣いている。
声をかけるべきかどうか迷っていた。
親切で声をかけても、不審人物に間違われる可能性は大いにある。
いつまでたっても誰も来ないので、直樹は思い切って声をかけることにした。

「…どうしたんだ、迷子か?」

女の子はやっと声をかけてくれたとばかりに直樹を見た。
あ、似ている。
直樹は瞬間的にそう思って微笑んだ。

「違うの」

女の子は涙を拭いて話し始める。

「うんとね、お母さんがね、今日はお友だちの家に行くから、ちゃんとおりこうさんにしてなさいって言ったの」
「おりこうさんにしてなかったのか」
「ううん。あのね、お友だちの家にはおりこうさんに行ったの」 
「で?」
「それでね、お母さんがちゃんと食べなきゃダメよ〜って言ったの」

直樹は要領を得ない話に辛抱強く付き合った。

「緑のお野菜、苦いのがあるの。それを残したら、連れてってくれないって」
「どこへ?」
「公園」
「…だから一人で来たのか」
「ここに来たら、またお友達に会えるかなと思って」
「会えなかったのか?」
「うんとね、お家に帰れなくなっちゃったの」

…結局迷子じゃねぇかっ。

直樹はやっと理解した。
何で子どもっていうのは回りくどい話をするんだ。

「だから、だから、お母さん怒ってる〜〜〜」

いや、それよりも心配してるだろ。

そう突っ込まずにいたが、これは厄介だと思い直した。
それにこの要領の悪さ、ますます似ている。

「家を探してやるよ。名前は?」
「ことこ」

ぷっと直樹は吹き出した。
名前まで一緒だな。
とにかくどこから来たのか確認しないと。
直樹は女の子に合わせて視線を低くしてみる。

「家はどこだ」

直樹の顔をまともに見つめて、女の子は惚けている。

「お兄ちゃん、王子様?」

ガクッと力が抜けた。

「いや、違うよ。家の近くには何がある?」
「うんとね、あたしの家はまあちゃんちの隣」
「まあちゃんちというのは、どの辺りだかわかるか?」
「うん。あたしの家の隣」

4歳児というのはこんなにもわけがわからない生き物だったろうか。

「いや、だから。家の前には何があるんだ?」
「えーとね、大きな木」
「どんな木だ?」
「ごろうくんが登って落ちた」

…この際ごろうくんは関係ないんだよと言って通じるだろうか。

「花は咲くのか?」
「咲かないよ」

埒が明かない。
日が暮れてしまっては、探すに探せない。
交番にでも連れて行こう。
直樹はそう決心した。

そのときだった。

「ことこ〜」

女の子を呼ぶ声。
直樹はほっとして公園の入り口のほうを向く。
陽が落ちてきたせいか、女の子の母の顔は見えない。

「お母さん、来た」

女の子の顔がぱっと輝く。
母の方へ走り出そうとして、思い出したように直樹のほうを振り向いた。

「お兄ちゃん、ありがとう。これあげる」

女の子が渡したのは、折り紙で折った手裏剣。

「これで悪者やっつけるのよ」

女の子の真剣な顔に微笑みながら受け取る。

「ありがとう」

直樹が受け取ったのを満足そうに見て、女の子は母の元へ駆けていった。

「おかあさ〜ん、あたしね、王子様に会った〜」

そんな風に叫びながら公園を出て行く。

「ことこ!勝手に行っちゃだめでしょ!」

少し安心したような怒鳴り声が公園の外から響いてきた。

直樹はもう見えなくなった親子の会話を聞いて、もう一度ベンチに座った。
待ち人はまだ来ない。
もう夕闇は直樹のすぐそこまで迫り、公園の入り口に再び目を凝らした。
今日は夜勤明けで手術の助手もこなしていたため、こんな風にぼんやりとした風景の中では自然と眠気が来る。
医師になってから、いつでもどこでも眠れるようになった。
それこそ琴子のいびきも寝言も気にならないくらい。

「入江くん?」

声をかけられて、またうとうとしていたことに気づいた。
しかも今度は間違いなく待ち人のようだった。

「ごめんね、待たせちゃって」
「遅い」

そうにらんで見せたところで、すくむような琴子ではない。

「あ、入江くん、珍しいもの持ってる」

そう言われて手の中のものを見た。

「ああ、これか」

女の子にもらった折り紙の手裏剣だった。

「あたし、昔、男の子にもらったのよね。悪者はこれでやっつければいいって」
「へぇ」

同じセリフを女の子から聞いた。
そして、そのセリフはどこかで聞いた覚えがあった。

「でも、それからどこにやっちゃったのかなぁ」

覚えてないのよね…と琴子はつぶやいている。

まさか…な。

直樹は手裏剣を見つめ、少しだけ考える。
同じように幼い頃、手裏剣を作った記憶。
それからどうしたんだっけ。

「入江くん、行こう」

先ほどのことも忘れて琴子が言った。
思い出せない記憶はどうでもいいらしい。
確かに俺たちには未来が待っている。
それでも少しだけ、こんな夕暮れ時には不思議なこともあるのかもしれない。
直樹は頭を振って目を覚ました。

記憶の中に沈みゆく逢う魔が時の出来事…。


逢う魔が時−Fin−(2006/10/04)