イタkiss祭りand10周年記念



あなたの後姿



「い、り、え、くん」

何故か、自分のだんなさまである入江先生の後姿をストーカーのごとくのぞいている妻、琴子。
その姿はうっとりとしていて、そりゃもうめろめろ(死語)状態。
でも、今勤務中なんだけど…。

あたしはため息をつきながらその姿を注意すべく近寄った。
いや、近寄ろうとして気付いた。
廊下の角からのぞいている琴子は、お尻をこちらに向けてフリフリしている。
その姿は病棟の若い患者さんを魅了するには十分かも。
肉感的というには少々足りない色気だし、どう見てもアヒルのお尻という感じのフリフリなんだけど。

「こ、琴子っ、す、透けてる!」

そのお尻には、くっきりと黒猫マークが…。
何それ、あんたいくつなの!
そう言いたくもなるけど、白衣にその模様はNGでしょーーーーー!
あたしは琴子に指摘しながら首根っこをつかむ。
「い、いたい、モトちゃん」
呑気に無邪気にそう言い返す琴子にお尻を指さす。
「あんたねぇ、いったい誰に見せるつもりよ、その黒猫」
そう言ったところで初めははてなマークが飛び交う顔。
ようやくあたしの指先が差しているところを見て真っ赤になる。
「な、何でわかるの」
「何でって、あんたちっとも気づかないで」
「や、やだ、見える?」
「見えるわよ。でも今更どうしようもないでしょ。もう仕事も終わりだし」
「み、見られたかな」
「見られたでしょうね」
「きゃー、いやー、恥ずかしー」
琴子があたしの後ろの若い患者と目が合ったみたい。
いや、もう、今さらだし。
そもそも何で黒猫…。
入江さんがそういう趣味…なわけないわね。
「諦めて行くわよ」
琴子を引きずるようにしてナースステーションへ向かう。
「何でもっと早く教えてくれなかったのよ」
「朝は気づかなかったわ。あんたが今お尻突き出してフリフリしたから気付いたのよ」
「もう、やだぁ」
半べそかきながら帰る支度をしようとあちこち片付けていると、なんだか寒気が…。
ま、まさか…。
あたしは恐る恐る振り返った。
振り返りたくないのに、振り返らずにはいられなかったのよっ。

「い、入江先生…」

嫌よ、もう、何で今いるのよぉ。
あたしは帰るわよ。
ええ、もう今日は一切何も見ず、何も聞かずに。
ぱきぱきなんて変な音してるし。
入江先生のその手の中のものって…。
えーと、それって…。

「わああ、入江っ!何で僕のIDカードがぐちゃぐちゃなんだよ」
「ああ、落ちてましたので拾っておきました」
「落ちてた?本当に?置いてあったの間違いじゃないのかよ」

うん、確かに先ほど処置のためにちょっと胸から垂れて邪魔だからって、西垣先生が処置カートの隅に置いてたわよね。
それを入江先生が一応下っ端だからと持ってこさせられて…(勤務交代寸前なので西垣先生の処置には誰もナースが付かなかったようね。こういう時人徳がないと辛いわねぇ)。
ふいっと入江先生は喚く西垣先生に背を向けると、そのまま琴子までまっしぐら。
猫缶もないのに、ああ、怖い。
その後姿は、凛々しくて頼もしいのに、なんだかどす黒いオーラのようなものを発していて…。
いいえ、私はついていきます、入江先生!
でも今日は琴子の無事を祈りつつ、あたしは帰らせてもらうわね。

(2014/09/27)



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いつの日にか




IDカードを入江に一握りで折り曲げられた。
そのあまりある力は別のところに生かせよと冗談で言ったのに、翌日の琴子ちゃんは生まれたての小鹿のようになっていた。
…その力は全部琴子ちゃんに行ったわけね。
ともかく、再発行してもらわないと、全てこれで斗南病院の中を行き来しているんだからたまったものじゃない。
職員食堂でのランチも、このカードをかざせば給料天引きになるという優れものなのだ。
あちこちの職員以外立ち入り禁止区域では、カードを入口のカードリーダーに読み込ませないと入室できない。
しかも日勤帯も終わりの時だったから、事務もそろそろ帰るぞというタイミングで、事務長に思いっきり嫌味を言われたんだよ。
カードの再発行まで時間がかかるから、とりあえずこれを使っていてと渡されたのは、外来者用のカードだった。
これだと専門区域に入れないんだけどなぁ。
ま、カードが新しくできるまでそこはスルーして、全部入江に任せればいいよな。だいたい入江が悪いんだし。
そう折り合いをつけたこの僕に対して、あいつは言い放った。

「とりあえず仕方がないのでやっておきますよ」

とりあえずってなんだよ、とりあえずってのは。
おまえが悪いんだろう―が!
しかも仕方がないときやがった。
やっておきますよって、なんだその恩着せがましい言い方は。
入江の一言一句に反論しながら、僕はぷりぷりしてランチに行ったんだ。

ピッ、ピーーーーーーーー。

おいおい、読み込まねぇよ。
そんな独り言を言いながらもう一度読み込ませてみたけれど、全く読み込まない。
後で事務長に突撃だなと思いながら、読み込まないので現金で払えとなった。
ところが普段院内で財布なんて持ち歩かないものだから、当然無一文だった。
「あっら〜、お金がないとこれは食べさせてあげられないわねぇ」
食堂の会計を担当していたおばちゃんはそう言った。
いや、わかるよ。
わかるけれど、食堂のおばちゃんなんて顔見知りなんだから、ちょっとくらいつけておいてくれたっていいじゃないか。食い逃げするわけじゃないし。
「ごめんなさい、ニセ医者やニセ看護婦とかいろいろうろうろして、もうつけはきかないのよぉ」
とこんな具合だ。
「お財布持ってきたら食べさせてあげるから、取りに行ってきてちょうだいね」
おばちゃんは容赦ない。
これが教授だったりしても絶対同じことを言うんだろうな!とかいう疑いの目でもっておばちゃんを睨んでみたけれどダメだった。
僕は辺りを見渡して、誰か知り合いがいないかと探した。
ところがこういう時に限って誰もいやしない。
ううと唸りながら仕方なく医局へと戻る。
医局で財布を取り出したところでポケットの中が震えた。

「…はい」
『あ、西垣先生、608号の佐藤さん、出血してます〜〜〜〜』
「…行きます」

断りも入れられないほどの容態を言われてしまっては、まだお昼を食べていないんだという僕の都合なんてどうでもよくなるよね
仕方なくそのまままた6階外科病棟へと戻ったのだった。

「というわけなんだよ、かわいそうだと思わないか」

処置がようやく終わり、日も暮れた頃、ようやく僕は昼食もどきを口にすることができた。
帰る間際の桔梗君を捕まえて、僕は愚痴りまくった。
桔梗君は「まあ、かわいそうだとは思いますけど、それもきっといつかいい思い出になりますよ」と適当に言葉を紡いだ。
絶対そう思っていないだろ、みたいな見本。
「今日は小鹿琴子のフォローをして疲れたんですよ、あたし」
「ああ、黒猫事件ね」
「ほんとにもう、勘弁してほしいわ」
「黒猫で失敗したのに小鹿とはこれいかに」
「西垣先生、怒りますよ」
「いや怒りたいのはこっちだよ」
二人してため息をついてあらぬ方を見る。
当の二人は片方の小鹿をのぞけば通常通り、いつもの通りのバカップル。
「あたし、いつの日にかあの二人を超える素晴らしい旦那様とバカップルと言われるくらいになってやるわ!」
旦那様?
そこは突っ込むべきだろうか。
まあいいや。
それこそ僕は「ああ。いつの日にかね」とやっぱりおざなりな返事をしたのだった。

(2014/09/29)



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後ろの正面だぁれ




確かおれの主治医は西垣先生だった。
ちょっと優男風な眼鏡の先生。
決して悪くもなく、年数もそれなりで、腕もまあまあといったところの。
それなりに女性にももてるらしく、あちこちの女性に声をかけてにこにこしている。
かなりの確率でふられてもいるんだけど。
まあそれはいいか。

これと言って身体が悪いわけではなかったんだけど、おれには昔から腹の下の方にでっぱりがあって、いわゆるヘルニアというやつだった。
正確には何だっけ。ああ、そうだ、そ径ヘルニアというんだっけ。
出たり引っ込んだりしているうちは良かったんだけど、さすがに女性と事に及ぶとなるとこのでっぱりはみっともない。
そろそろ手術したいなと思っていたところ、そんな悠長なことを言ってられなくなるくらいのことが起こった。
でっぱりが出たまま戻らなくなって、きゅうっと腹膜に挟まれた腸が下手をすると腐ってしまうというから緊急手術になった。
そういうわけで斗南病院で手術を受けたわけだけど、ヘルニアなんて外科医にとっては初歩中の初歩らしく、きっと麻酔で気づいていないけど、おれの身体も研修医とやらの練習台になったんだろうなと思う。
それを聞いたのは見舞いに来た悪友たちの話。
何やら一人は盲腸炎でひどい目にあったとか。
それでも剃毛してくれた看護師さんが美人だったから許せた、と。
おれの場合はどうだったのかな。
緊急だったし、きっとベテランの人が手早く済ませちゃったんだろうなとか想像。
一応緊急だったので全身麻酔だったけど、目覚めたおれを覗き込んだのは、結構かわいらしい看護師だった。
目覚めた瞬間の出来事なので、ちょっとラッキーくらいにしか思わなかった。
その後に来たのはおかまちゃんだったな。あ、ゲイというべきか。いや、ニューハーフだっけ。
外科病棟に入院していると気付いた翌日にはもう歩けと言われて、あと三日で退院予定と聞かされた。
最近の病院は厳しいな…。
まだ腹の傷も痛いうちによれよれとトイレに歩いていたら、あのかわいくてラッキーと思った看護師がお尻をふりふりしていた。
何でこんなところでこんな格好でという疑問は沸いたけど、これもまたラッキーには違いない。
だって、そのお尻には黒猫模様が白衣から透けてくっきりと浮かんでいて、黒猫パンツかぁとおれは思った。
いまどきああいうパンツをはく人も珍しいかもとか、思ったより子どもっぽいけどそれもまたいいかもとか考えていると、こちらを振り向いた看護師さんと目が合った。
どうやらあのニューハーフのような看護師さんに注意されたらしい。
真っ赤になって涙目になって恥ずかしがる姿は、ちょっと入院で弱った心にダイレクトに響く。
やっぱかわいい。
あれ、計算じゃないんだよな、あの人。
そのままよいしょとトイレへ向かう。
あと三日って抜糸もきっとまだだよな。
その時、ちょっと背中がぞくぞくした。嫌だな、手術後に熱か?
用を済ませて何とか病室に戻ると、えらくイケメンの先生がやってきた。
「主治医が替わりました」
「はぁ」
まだ一日なのに?いや、もう手術終わったからいいのか?
「主治医は今から私になりました。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそお願いします」
そう言って見上げると、本当に背が高くてイケメンだ。
しかもすごい目力だ。
えーと、何この迫力。
「何か?」
「いえ、に、西垣先生は」
やっとのことでそう答えると、淡々と答えた。
「昨日は緊急でしたので、とりあえず当直の西垣医師が受け持ちましたが、今後は私が受け持ちます」
「そうですか」
わかったようなわからないような事情を告げられ、とりあえず納得する。
「あの、さっき寒気がしたんですけど」
「どんなふうに?」
こちらをついっと見たその視線だけで背中がぞくぞくした。いや、別におれはホモじゃない。
そうじゃなくて、こう、なんか、生命の危機というか…。
「うまく説明できないんですけど、なんかぞくっと…」
そう答えながら、おれはちょっとその理由を見つけつつあった。
な、なんか、この先生、怖い。
何だろう、おれ何かやったかな。
そこへ西垣先生がやってきた。
「どうですか…と、入江、ここにいたのか」
「では、失礼いたします。寒気の件は検討しておきますので」
そう言ってイケメン先生は病室を出ていった。そう言えば名乗りもしなかったけど、入江というのか。ん?入江?
「どうかしたかい」
西垣先生はいつものペースで問いかけた。胸にぶら下がっているIDカードがぐちゃぐちゃですけど。
「いえ、主治医が替わったんですね」
「え?」
「え?って、今の先生がそう言って…」
「……う〜ん、そうか」
「そうかって、違うんですか?あの人ニセ医者ですか?」
「いや、れっきとした医師ですが。一応僕の下っ端で…。君、何かやったのかな?」
「何かって、なんですか」
「そうだな…。たとえば、琴子ちゃんにちょっかいかけたとか」
「琴子ちゃんって、誰ですか」
「そうか、気のせいかな」
「そうだ。先生、ほら、あの看護師さん、何ていう名前ですか」
ちょうど廊下を半泣きで通っていく。西垣先生も振り向いた。
「…って、琴子ちゃん…?」
「え、あれが琴子ちゃんていうんですか」
「ははあ、なるほど。知らずに何かやらかしたわけだ」
「どういうことですか」
「あれはあの心の狭い入江の愛しの奥さんで、ちょっかいかけた輩を片っ端から闇に葬るという…」
おれはさあっと青ざめた。
まだ何もしていないのにっ。
しかも手術して助かったばかりだというのに。
「思い当たることは?」
「…黒猫パンツ見ちゃいました。あ、見たと言っても白衣に透けてて、ぐ、偶然見ただけで、見ようと思ってみたわけじゃなくて、ただ通りかかっただけで…」
そんな理不尽なことがあるだろうか。
「に、西垣先生、主治医替わってください!」
闇に葬られるのは嫌です!
「いや、そう言われても、どちらにしろ振り分けようと思っていたところなんだけど」
「だ、だって、まだこれから外来で抜糸したりするんですよね?」
「そうだね」
「お願いです、替わってくださいっ。まだ死にたくないです!」
「いや、いくら何でもそこまでは、多分…」
「そんな無責任な。だってさっきそう言ったじゃないですかっ」
おれの必死のお願いに西垣先生は「検討しておくよ」とそそくさと出ていってしまった。
あと三日で退院と言われたけど、もう今すぐに退院したい衝動にかられ、様子を見に来た主任さんに無理を言って困らせたのだった。

(2014/09/30)



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遠慮会釈もない




外科病棟の主任となってからはや三年。
既に院内に残っている同期も数えるほどになってきた。
え、何で数えるほどになったかって?
それを言わせたいの?
こ、こほん。
相手によりけりではあるけれど、やはり大学病院の三交代や二交代というのは、家庭もちにはなかなか厳しいらしい。
そんな中で主任というポストについてしまうのは、あなたは今自由よね、という名札をぶら下げているようで、仕事に誇りはあるけれど少々ため息をつきたくなるのもわかっていただけるかしら。

「わああ、入江っ!何で僕のIDカードがぐちゃぐちゃなんだよ」
「ああ、落ちてましたので拾っておきました」
「落ちてた?本当に?置いてあったの間違いじゃないのかよ」

ナースステーション奥の準備室で喚く声がする。
西垣先生と入江先生だ。
二人とも優秀な外科医であるにもかかわらず、だからこそなのか、その行動には時々頭痛がするほどだ。

「…終わらせます、終わらせるからっ」

バタバタと慌ただしい様子で入江さんが駆け込んできた。
そして、一心不乱にカルテに向かいだした。
いつもそのくらいのやる気を出してくれれば仕事も早く終わるでしょうに。
ちらりとのぞくと、いつもの倍以上の速さで手を動かしている。
正直その内容はお粗末なものだけれど、意味が通じればいいわ、もう。
過大な期待はすまいと入江さんが速攻で仕事を終わらせるのを目にすると、交代前の見回りに出かけた。
日勤帯と夜勤帯が交代するこの時間は、病室が手薄になるときだ。
もちろん患者たちも夕食前ののんびりした時間でもある。
とある病室をのぞくと、昨日緊急手術を終えて今日から普通部屋に移された患者が私の姿を見て「主任さん!」と呼んだ。
「はい、どうされました」
ベッド脇に行くと、その患者はすがりつくようにして「お願いです、退院させてくださいっ」と懇願した。
思わず「えっ」と声を出して、戸惑ってしまう。
「もういいです、家で療養します」
「さすがに昨日の今日では、ちょっと許可は出ないかと。確かに日帰り手術もできる病気ではありますが、緒方さんの場合は腸壊死の状態で、腹膜炎の危険性もありましたし、もう少し様子を見たいということでしたが」
「わかってます、そんなことはわかってるんです」
「では、どうしてそんな無理を…」
緒方というこの若い患者は辺りをきょろきょろと見回してから、声を潜めて言った。
「…入江先生…」
「はい?」
「入江先生に闇に葬られるかもしれないんです」
吹き出してはならないと強く自分を戒めて、患者と向き合った。
「それは、本気でおっしゃってるんですか」
「冗談でこんなこと言えますか?」
「…理由を教えてください」
「後ろから来て、ぞくっときて…闇に…葬られるって、西垣先生が…!」
この瞬間、まだ詳しい理由がわからないまでも、に・し・が・き〜〜〜〜と心の中で叫んだのを許してほしい。
「後でもっと詳しいことを聞いておきますが、いくら入江先生でもそんなことはしませんよ」
「でも、入江先生の奥さんのパンツを見てしまったんです〜」
「…パンツ…」
「ええ、ちょっと透けてて…別に見ようと思って見たわけじゃなくて」
何となくわかった気がする。
私は痛み始めた頭を人差し指で少し支えると、言われたことを整理しながら緒方さんに向き合った。
「つまり、看護師の入江さんのパンツを不可抗力で見てしまったので、その夫である入江先生が怒って緒方さんに何かするのではないかと心配しているわけですね」
「そうです、そうです、さすが主任さんです」
「全く何もしないと保証はできませんが…」
あの入江先生だし、まさか表立って事を起こすほどではないでしょう。だから怖いとも言うのだけど。
緒方さんは「そんなっ」と青ざめた。
「あ、いえ、あれでも入江先生は優秀な医師です。もし何か、…いえ、何もないように私の方から一言注意申し上げましょう」
「お願いします、主任さん。このままでは病気を治すどころか別の病気になりそうで」
確かに、ここで胃潰瘍とか発症されても困るし。しかも一介の医師を恐れたあまりだなんて笑い話にもならない。
病室を出てナースステーションへ戻ると、既に入江さんはおらず、謀ったかのように入江先生も消えていた。
逃したとは思ったけれど、二人で消えたということは既に帰宅したということだから、今夜の緒方さんの無事は確保されたようなもの。
とりあえずホッとしてその日の勤務を終えたのだった。

翌日、腰をさすりながら、足がよれよれの入江さんがやってきた。
わかりやすすぎる…。
ため息をつきながら朝一番でやってきた入江先生を捕まえた。
「入江先生、それだけ優秀な頭脳をお持ちなら、入江さんの体力と翌日の勤務を考慮して下さい」
入江先生は悪びれもせず、片眉を上げただけだった。これは了承したということだろう。
「それから、入江さんの迂闊さで患者さんが怯えています。お心当たりはありますね」
「琴子の失敗に怯える患者なんて覚えがありすぎて」
「そう思われるなら、投書箱に不穏な手紙が投げ入れられる前にいろいろと自重してください。お願いします」
入江先生はふうっと息を吐き、「琴子にはよく言い聞かせましたので」とだけ言って去っていった。
入江先生の言い聞かせとは、入江さんをよれよれにすることですか。まったく、もう。
もちろん暗に何を言われたのかは、入江先生ならわかっているはずだ。
「さすが主任、入江にも容赦ないね」
外来者用のIDカードをぶら下げた西垣先生だった。
「だいたい西垣先生がちゃんと指導してくださったら、私が注意することなどないはずですが」
「いくら僕でもプライベートまでは…」
「まったく、そんなことだからオペ室に取り残されるんですよ」
「な、何でそれを…」
「緊急手術の後、誰もいないと思ったオペ室主任が鍵を閉めて回った後、西垣先生が残されているのに気づいたんですってね」
「そうなんだよ。更衣室にいたのに誰かが突然灯りを消してさぁ。まだ僕はシャワーを浴びていたからすぐには出られなくて」
もしや、それも入江先生が…?
…まさかね。
そう思った時、西垣先生の後ろから再び現れた入江先生が、ふっと笑った。
見る人が見ればうっとりするほどきれいな顔で。
でも騙されちゃダメよ。
訂正するわ。あれは絶対確信犯…!
指導医だろうが患者だろうが、入江さんが絡めばまさに遠慮会釈もない男に成り下がるのよ。
だからこそ私はこの外科病棟の平和を守らなければ!と決意を新たにするのだった。

(2014/10/01)



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親の心子知らず




いったい息子のどこが良かったのか、私はいまだ疑問だけれど、あんなにかわいい嫁が来たのだからもうどうでもいいわ。
自分の腹から生まれた息子は、何故だか人さまにキャーキャーと言ってもらえるくらいの容姿を持ち、誰に似たのか頭脳はIQも200だという。
でも、どこでどう育て方を間違ったのか、性格は最悪。
幼少の頃のことが原因だと言われれば仕方がないけれど、だからと言ってその後の努力を全く無にするような無愛想さはどうなのかしら。
私は息子に過大な期待を抱いていたわけではない。
どちらかというと愛想のない息子よりはかわいらしい娘が欲しかったのだと公言してはばからないし、その点については息子にも申し訳なく思っている。
だからと言って息子を冷遇した覚えはないけれど、もしかしたらものすごく不満に思っていたのかもしれないわね。

週に一度、斗南病院に出向き、噂話を収集する。
外来では時々息子の話も飛び出る。
同じようにかわいらしい嫁の噂も聞くことがある。
あの二人は斗南病院ではかなり名物夫婦らしく、私はほくそ笑みながらその噂を聞いているのだ。
何故そんなことをするのかと言うと、やはり心配なのは夫婦仲。
そんなこと放っておけと息子にはたびたび言われるけれど、あのかわいい嫁に去られたら、とてもじゃないけれど次はないと思っている。
何だかんだと言ってもあの偏屈息子は嫁以外は見向きもしない。
嫁の方が愛想をつかさなければきっと安泰だろう。
だから、あの息子の外見に騙された女たちが嫁に意地悪しないかと心配でならないのだ。

「おや、あなたも入江先生でしたか」
「若いのに優秀だとかで勧められまして」

幸い息子の悪い噂は聞こえてこないのでほっとする。

「い、入江先生…」

一人だけ青ざめた若い人が震えながら座っていた。

「ああ、どうしよう、どうしよう。どうしておれは別の病院に行かなかったんだ」

何やら不穏なことをつぶやいている。
しかもちょっと聞き捨てならない。
「あなた、顔色が悪いわよ、大丈夫?」
声をかけるとびくっとしてこちらを見た。
「入江先生と何かあったの?」
「………いえ、何も」
その微妙な間は、何かあったのね。
「今日は入江先生にかかるの?」
「…ええ、まあ…。抜糸が…」
「まあ、大変ね。そうだわ」
私はメモとペンを取り出すと、思いつく限りの言葉を並べた。
そして丁寧に折りたたむと、その若い人の手に握らせた。
「いい?これはあの入江先生をおとなしくさせる魔法の手紙よ。診察の時にこの手紙を入江先生にお渡しなさいな。ええ、大丈夫、どうせ嘘だと思うなら、思い切って渡してみてちょうだい」
若い人は半信半疑なまま、やがて呼ばれて行ってしまったけれど、その手には捨てもせず素直に手紙を握ったままだった。
普段の息子は仕事上患者さんに対して無慈悲な態度をとるほどの冷血漢ではないと思う。
ただ、そうね、嫁が関わった時だけは別よね。
弟にまで牽制かけるほど心が狭いというか、妥協しないというか、独占欲の塊というか。つまりは嫁フェチよね。
そんな息子のフォローは日々欠かせないわ。
かわいい嫁のためになるならフォローの一つや二つお任せよ。
足がよれよれになって歩きが辛いようなら車での送迎だって喜んでするわ。
そうは言っても翌日の仕事に支障ができるような無理強いはさすがに少なくなってきたけれど。少しは学習してるってことかしらね。
全くIQは高いくせに、そういうことも配慮しないなんて、最低ね。

「西垣先生ったら、あのIDカードどうしたのかしらね」
「ああ、あれ?なんでも入江先生がぐちゃぐちゃにしたって噂だけど」
「この間食堂で代わりのカードも読み込まなくてお昼諦めてたわ」
「なによぉ、たまにはおごってあげればよかったじゃないの」
「だって今月厳しいんだもの」
「やだ、西垣先生かわいそー」

…西垣先生というのは確か息子の上司。
IDカードをぐちゃぐちゃにしたのが息子なら、きっと何か気に障ることがあったのね。
全く容赦がないったら。
その後もしばらく情報収集を行った後、最後はご意見箱の前へ。

『外科病棟の入江琴子さんは素晴らしい看護師です。
ちょっと怒られてもいますが、とてもかわいらしい…』
あら、嫁って書いちゃだめね。いけない、いけない。
うっかり嫁と書きそうになって慎重に続きを書いた。
『外科の入江直樹先生にはもう少し愛想よくするように言ってください。
優秀ですが怖いです』
…とまあ、今回はこんな具合かしら。
ご意見箱にそっと入れると、私は今日の調査を終えて帰宅するのだった。

(2014/10/02)



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