花より仏像
全く惚れ惚れする。
研究室の一角に据えられた釈迦如来像。
先日入江先生お勧めの古美術商から買ったものだ。
この柔和な顔と微かに口角の上がったすっきりとした顔が、どことなく入江先生を思わせ、一目ぼれだった。まるでぼくが入江先生に惚れた時のようにね。
思えば、先生が大仏に興味があるという噂を聞いたのは、つい先日のことだ。
あのちんちくりんがうわごとのように「入江くんが念仏…」とつぶやいていたのを聞いたのがきっかけだったか。
腐っても一応入江先生の現在の伴侶だから、そういう入江先生のプライベートな情報だけは捨てがたいのだ。
そこから更に別の者によれば、入江先生は学生時代に大仏を買ったという話があった。
かなりの大仏ファンで、鎌倉なんかにも通っていたらしい。
そして、大仏が模されたシャツも持っているという噂だ。
それは、まあ、個人の趣味とはいえ、ちょっとぼくもびっくりしたけれどね。
それでも、あの入江先生ならきっとどんなTシャツも着こなして見せるのだろうと思うよ。
見せてくれたらぼくもお揃いをぜひ手に入れたいと思う。
何せコスモスの栞は再起不能なまま、ぼくの引き出しにひっそりと入れたままになっている。
こんなふうに扱われたと入江先生が知ったら悲しむからね。
そういういろいろな噂から、ぼくもにわかに大仏や仏像を勉強して、入江先生との共通の話題を手に入れたのだ。
入江先生に最近仏像に興味が出ていろいろ見ているという話を偶然話すことができた。
入江先生は少しだけ戸惑ったような様子だったけれども、「よろしければ古美術商を紹介いたしましょうか」とまで言ってくれたのだ。
入江先生ご用達!
ええ、ぜひと返答したところ、何とメモまでいただいた。
ああ、その流麗な文字で書かれたメモは、ぼくの宝物の一つとなったのだ。
そして早速電話をしてパンフレットの一つでも、と思ったわけなのだけれども、これまたいい商品に巡り合った。これはやはり運命と言えよう。
値段は少々高かったけれども、仏像の値段としてはかなり手頃な方だろう。
それに、この一目ぼれの仏像を手に入れたと思えば、少々の散財は惜しくない。
うん、見れば見るほど入江先生に見えてくる。
本当は自宅に置いておこうかと思ったのだけれども、こうして研究室に置いた方が仕事がはかどる気がするし、どんな難手術もあっという間に終了できるような気がするのだ。
え?何言ってるんだい、ぼくが失敗するわけないじゃないか。
だから成功祈願なんて必要ないんだよ。ただ願うのは、患者に負担のない短時間で美しい目立たない傷跡の手術だよ。
それに、せっかくおフランス調に整えたばかりの部屋にこの入江釈迦如来像を置いておくのも居心地が悪いかもしれないしね。
この仏像をぜひ入江先生にも見てもらいたいものだ。
「あ、入江先生、先日は古美術商を紹介していただいてありがとう。おかげでいいものが買えたよ」
「…そうですか」
「研究室に設置したら、これまた御利益のありそうな感じなんだ。何よりもあるだけで心が和む気がするよ」
「それは良かったですね」
入江先生は遠慮しているのか、ぜひ見せてほしいなどとちんちくりんのように自分から図々しいことは言わないのだ。「ぜひ、見に来てくれたまえ」
強くそう言うと、そこにひょっこりと余計な者が現れた。
「やだ、仏像なんて買ったんですか」
「やだとは何だ、やだとは!」
「ああ、すみません、大蛇森先生」
「だって、入江くんは…むごっ」
ふん、ざまあみろ。ちんちくりんは入江先生によって余計な口をふさがれた。まったく、その中身が空っぽの頭もどけてくれないだろうかね。
「琴子、おまえは今から念仏の練習をするんだったよな」
「え、だって、それは…」
「…するんだよな、今すぐ」
「…は、はぁい」
「そう言うわけなので、失礼いたします」
つまり、何がそう言うわけだったのか、ぼくにはよくわからなかったけれども、念仏に何か隠された秘密があるのだろうか。
あのちんちくりんに、入江先生直々に念仏の修業をさせるとは。
かなり頭の中身の少ないちんちくりんに念仏が唱えられるとは思えないけれどね。
うん、入江先生はさすが博識で奥が深い。
今度は念仏も少し勉強してみようと思う。
数日後、念仏を唱えると秘密の部屋が開かれるという噂が斗南を駆け巡った。
…秘密の部屋って、何だ?
(2014/11/08)
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人の噂も七十五日
飛び込みなのか、古美術商が営業にやってきた。
うちはパパの仕事柄、そういう方々とのお付き合いもご紹介も多いけれど、今度は正真正銘本当に飛び込みだったらしい。
最初はお断りしようと思ったのだけれど、ご長男さまにということだったので、あまりに珍しい指定に思わず入れてしまったわ。
どうやらお兄ちゃんの大学の方からのご紹介ということだったけれど、大仏が趣味だなんて思ってもいなかったわ。
…と思ったのも営業の人が帰るまでの話。
私の記憶にかすかに引っかかるものを感じて、アルバムをめくってみたの。
あったのよ、大仏の写真が!
そうよ、あったわね、そんなことも。
あれは琴子ちゃんと結婚した頃の話よね。そうそう、誕生日の頃だったわ。
二人で鎌倉に行って大仏を見てきたとかで…。
その後、何故かお兄ちゃんは大仏Tシャツを着ていたことがあったわね。
あれには私もパパもついでに裕樹も笑うに笑えなくて、とっても苦しい思いをしたんだったわ。
後から琴子ちゃんにこっそり聞いたら、相原さんのところで修業中の金ちゃんさんにもらったのだとか。
何故着る気になったのかは詳しく教えてくれなかったけれども、あれほど笑ったことはなかったわね。
せっかくの大仏Tシャツだったのに、何て似合わないんでしょう、と。
仮にも世間でかっこいいだのと言われていたくらいなら、どんなに突飛な服でも着こなせるのが本当にかっこいい人なのよ。
きっとノンちゃんならさらりと着こなせると思うの。
あんな模様なのに、きっといきなり話題になってちょっとないわ〜と思いつつもつい買ってしまって、いつの間にかブームになっていたりするのよ。それが売れっ子モデルの力よ。
まだまだね、お兄ちゃんも。
そして、こっそり撮った大仏Tシャツを着たお兄ちゃん。
撮るのに苦労したわ〜。
もうすっかり忘れていたけれど、これを撮るためにお兄ちゃんにばれないようにするのが一苦労だったのよ。
おかげでちょっとぼんやりとしてベストショットは狙えなかったのよね。
それでも急いで大学に行って正解だったわ。
家に帰ってきたときはすでに他のTシャツに着替えていたから。
どうあってもあのTシャツを着続けることに耐えられなかったのね。そうよね、そうじゃないと面白すぎて私のお兄ちゃんに対する価値観の根底が覆されていたところだったわ。
一度そのTシャツはもちろん洗濯したけれど、あれからどこかにしまわれていたようで。
琴子ちゃんに聞いたらちゃんとクローゼットに保管してあるって。
何故私が急にそんなことを聞いたのか不思議そうにしていたので、昼間に来た古美術商のことを言ったら琴子ちゃんは青ざめていたわね。
「やっぱり、あれは入江くんの照れ隠し?!」
琴子ちゃんの勘違いから始まったお兄ちゃんの大仏好きの誤解は、あの時に一応解けたのだという。
確かに私も大仏好きなんて聞いたことがなかったし、だからこそあのTシャツ姿に驚いたわけだけれど。
でも、あれから何年かたっているし、それに古美術商がお兄ちゃんを指定して会いに来た上に仏像を勧めるって、余程の趣味がないと無理よね。
まあ、百歩譲って大仏じゃなくて仏像には興味があって、しかも偶然今回は古美術商が訪ねてきたにしろ、何かきっかけがあることは確かよね。
「入江くんは今寝てるし…」
起こしてまで問いただすなんてこと、琴子ちゃんができるわけないわよね。
「いっそのことあの大仏Tシャツを着て、反応を確かめてみるっていうのはどうかしら」
興味があれば喜ぶだろうし、怒ってTシャツを剥ぐのもよし。←策士
「そ、そうですね」
琴子ちゃんは何事か考えながらもそう言った。
どちらにしてももう夜中。
とりあえず寝ることにしますと寝室に引き上げていった。
でもまさか、言った今からTシャツを着る気だったなんて、思わなかったのよ。
翌朝かろうじて起きだしてきた琴子ちゃんの声はかすれていて、洗濯機にはくしゃくしゃになった大仏Tシャツが。
剥ぐをほうを選んだってわけね。
その後だったかしら、あの変態医師と名高い大蛇森先生にお会いしたのは。
「先日はどうも」から始まって、最近お兄ちゃんが念仏を唱えているらしいとお聞きした。
どこで?と思ったのだけれど、何か心頭滅却したい出来事でもあったのかしらね。
少し前まではお兄ちゃんが仏像を買ったという噂で持ちきりだったらしい。
その前は…秘密の部屋で浮気、だったかしら。ありえないけれど。
仏像購入はないにしても、念仏くらいは唱えてもおかしくはないわねぇ。ほら、お兄ちゃんって変わってるから。
しかも、ただ唱えるだけじゃつまらないから、念仏を唱えることによって何かメリットがないと。
「ところで、入江先生が秘密の部屋のカギをお持ちだと伺ったのですが、ご自宅にそのような設備が?」
「あら、秘密かどうかは知りませんが、あちこち避難部屋でもあるみたいですよ」
どうかとすると書斎に始まり、ひっそりとした図書館に、どこかの研究室とか。
もしかしたらマンションでもどこか借りているんじゃないかとまで思ってしまうくらい。
ただ、琴子ちゃんがまったく知らないってのもおかしな話だけれど。
どちらかというと、琴子ちゃんに追いかけられたいんだから、自分がどこにいるかいつも手がかりを残している感じよね。
素直じゃないったら。
「避難部屋…。それはやはり、あの、念仏を唱えると開くんでしょうか」
「…念仏?あ〜、そうですわねぇ、何か合図が必要なのかもしれないですわね」
この私の発言が、斗南大病院に新たなる噂を運んだとはつゆ知らず。
大蛇森先生は「なるほど!」と手を叩いて行ってしまわれた。
相変わらず変わった先生だこと。
斗南の噂は七十五日どころじゃないとはさすがの私にもわからなかった。
(2014/11/12)
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踏んだり蹴ったり
やけに浮かれた大蛇森先生が歩いていた。
どちらかというと僕は避けてしまう方なんだけど。
それでも、何故か目が合ってしまったりするんだよね。
オペが終わると、そこに同じくらいの時間にオペが終了した大蛇森先生がいた。
今日の消化器外科のオペも結構な難手術で、僕と教授と入江と三人がかりで挑んでようやく4時間というくらい。
隣で脳外科も緊急手術だったらしいので、オペ室はきっと大変だったことだろう。
それでも隣の喧騒は蚊帳の外だったので、オペが終わって顔を合わせて初めて大変だったんだなという認識だ。
さすがにシャワー室では無言でそれぞれ身支度を整え、やけにねっとりと話しかける大蛇森先生に背筋を寒くさせながら、さっさと終える。暖かいシャワーなのに寒気がするってどうなんだろう。
入江は入江でマイペース。大蛇森先生が話しかけようがいたって関係なくいつものペース。
ある意味ツワモノだよ。
そんな中で切れ切れに聞こえたのは、最近大蛇森先生が仏像を手に入れたという話だった。
最近斗南の中ではにわかに大仏ブームだ。
ある人の話では第二次大仏ブームだというが、その第一次というのはいつだったんだ。
そんなわけのわからない斗南の噂だが、いったい噂というのはどこからどう始まるんだか不思議だ。
ともかく、にわか大仏ブームに乗っている大蛇森先生。
こういうの嫌いだと思ったんだけどな。
「その仏像の美しさに一目ぼれしましてね。今は研究室に置いて仕事の合間に眺めているんですけどね、あの仏像を手に入れてからは仕事もはかどるような気がしていますよ」
いや、気のせいだって。
僕は心の中で突っ込むが、もちろん大蛇森先生に聞こえるわけはない。
しかし、仏像の話を入江に振るとは。こいつにそんな趣味があっただろうか。
「入江先生に紹介してもらってよかった」
な、何を?女とか?…ないない。
まさか仏像を?
本当にそんな趣味が?
いやー、あいつの趣味なんて仕事か琴子ちゃんというくらい面白味のない奴だと思っていたのに、そんな愉快な趣味が。
どうしよう。すでにシャワーも終えてさっさと立ち去りたかったのに、何だか面白そうな話をしているし。
それでもいくら面白そうでもこれ以上大蛇森先生の話を聞いていると何かやばそうな感じなので、僕は更衣室を出た。
教授執刀なので、僕はいつもみたいにふらふらとさまようことなく真っ直ぐにオペ患者が戻った外科病棟へ行った。
ナースステーションでは琴子ちゃんが桔梗君と念仏がどうのと話をしている。
仏像に大仏ブームといい、どうかしてるな。
「おいおい、病院で念仏なんてぞっとするよ」
僕が冗談めかしてそう言うと、珍しく琴子ちゃんは「そうですよね」と同意した。
いつもは桔梗君が止める役で、琴子ちゃんは暴走役なんだけど。
「だいたい患者さんにしたってさ、念仏なんて縁起でもない」
「あら、でも患者さんも入江釈迦如来像にぜひお目にかかりたいって言ってますよ」
「…何だよ、その入江…釈迦如来像って」
「何でも入江先生によく似ていて、拝めば御利益があるそうなんです」
「けっ、入江に似ている釈迦如来像なんて、きっとろくでもないよ。琴子ちゃんしか御利益なんてないんじゃないの」
「えー、でも入江先生ってもともと神様みたいな人って言われてるから、気になるわ〜」
「…魔王の間違いだろ」
僕がそうこっそりつぶやいたけど、琴子ちゃんはそれには反応せずに眉をへの字にしたままだ。
「何か気になるのかい」
「い、いえ。念仏って難しいんですよね」
「どうかな。だいたいさ、念仏なら南無阿弥陀仏かもしれないけど、釈迦だと南妙法蓮華経かなんかじゃないの。いい加減なもんだよね」
「そうなんですか」
「ええ?僕も詳しくは知らないよ。だから病院で唱えることがそもそもおかしいんじゃないのかな」
「…珍しく普通のこと言ってますね」
「桔梗君…」
「でも、ほら、入江先生だから」
「入江がなんだって?」
「…ないがしろにすると、それだけで祟られそうじゃないですか?」
そりゃ一理あるかもな。
「だいたい病院に釈迦如来像を置くなんて、そのセンスも僕にはよくわからないね」
「そりゃそうでしょうけどぉ」
桔梗君は作業しながらそれでも入江似の釈迦如来像にこだわっている。
「ああ、そう言えば大蛇森先生が仏像を手に入れたとか」
「大蛇森先生も?」
「げ、大蛇森が?」
琴子ちゃん、仮にも大蛇森先生はあれでも一応優秀な外科医でね…って、聞いてないか。
「やだ、もしその釈迦如来像が入江くんに似てたらどうしよう!」
「うわ〜、それだったら見てみたいわ」
それぞれ勝手なことを言っている。
「でも病院でもマリア像があったりするところもあるから、仏像があってもいいんじゃないかしら」
じゃあ、何かい、入江似の釈迦如来像がでんと病院ホールにでも置いてあったりするのかい?そりゃ最低だな。
礼拝堂なら何となくかっこうもつくけどさ。
「考えてもみなよ。入江そっくりの釈迦如来像なんて、絶対呪われそうだろ。おまけにそれを大蛇森先生が愛でてるなんて思ったら…」
「いや――――――!やめて――――――!あたしの入江くんに!」
「うわぁ…それはちょっと…」
二人ともげんなりした顔をしている。琴子ちゃんなんてムンクも真っ青だよ。
「…琴子、うるさい」
バコンと派手な音がして、琴子ちゃんの頭をファイルが襲った。
「いたいっ」
琴子ちゃんは頭を押えて振り向くと、もちろんそこには超絶不機嫌な顔をした釈迦如来…ではなく、入江がいた。
こんなのと釈迦如来が似ているだなんて、冗談もほどほどにしてほしい。
「い、入江くん、大蛇森にあんなことやこんなことされてない?」
何だよ、そのあんなことやこんなことって。いったい何を想像しているんだか。
「くだらないこと言ってる暇があったら頭と手を動かせ」
「だって、心配じゃない。夜な夜な大蛇森が入江くん人形を撫でまくって…」
…いや、人形じゃなくて仏像だから。しかも仏像は撫でないと思うけど。
「大蛇森先生が仏像を買ったんですって?見せられました?似ているっていう噂ですけど」
さり気なく桔梗君が話を入江に振った。
途端に、それまでも超絶不機嫌な顔だったのだけど(それでもまだ機嫌が外からわかるだけましだったらしい)、すっとクールを通り越して辺りはブリザードに。
き、桔梗君、それはNGワードだったんでは。
「こ、琴子ちゃん、ほ、ほら、今日は早く帰らないと」
いつもはフォローのはずの桔梗君が固まってしまったので、代わりに僕がフォローする羽目に。
「もう念仏はいやなのに…」
そんなふうにぶつぶつつぶやいているけど、君たちいったいどんなプレイを…。
「大仏プレイ…?」
いやいや、何だよそれ。言った僕も意味不明だけど。
「…琴子、もう一度念仏覚えたいか?」
「い、いえ、結構です」
「桔梗、琴子は体調不良で早退するかもしれない」
「………はい」
「西垣先生、大変申し訳ありませんが、どうやら今日は携帯が不調なようです」
はいぃ?
そりゃ堂々と携帯には出ないって言いたいのか。
返事をする前に琴子ちゃんは首根っこをつかまれている。
おいおい、今からかよ。どこへ行くんだよ。
「秘密の部屋にでも連れ込むつもり…いでっ」
横から僕の大事な横っケツを蹴り上げやがった。
僕の手からオペの資料が吹っ飛ぶ。
その上を入江の足がどかどかと踏み散らす。
お、おまえ〜〜〜〜、大事な資料をっ!
哀れ琴子ちゃんは、僕たちが事後処理に慌てている間にナースステーションの外へと引きずられていった。
「マジで秘密の部屋か?!」
その後を追いかけたい衝動に駆られたが、これ以上関わるとろくでもないということはこの僕にだってわかる。
桔梗君はいまだ自分の身体を抱きしめて怯えている。
大蛇森先生に何を言われたのか知らないが、とりあえず入江には仏像NGということはわかった。
ちょっとした犠牲のもとにだけどね…。
(2014/11/13)
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あとがき→ブログ
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変態と呼ばないで
何という偶然だ!
今日の日の偶然にぼくは神に…いや、仏に感謝したいくらいだよ。
ああ、失礼。
ぼくは脳外科のスペシャリストにして、別名メスの魔術師だ。
くも膜下出血を起こした患者の緊急オペはなかなか難航した。もちろんオペできると判断したぼくの手にかかれば失敗はないけれどね。
緊張したオペを終えて更衣室に向かうと、そこにはほのかな色気をまとった入江先生が少し疲れた顔をして立っていた。
作者注:そばには西垣先生も教授も他の助手も大勢いたが目には入っていない。
仏像を買ってから、こういう偶然やラッキーな事柄が増えている気がする。信じる者は救われるのかもしれない。
「入江先生、お疲れでしたね」
「あ、ええ、大蛇森先生こそ、クモ膜下だったんですね。お疲れ様です」
そのまま更衣室兼シャワー室になだれ込む。
ああ、このまま一緒にシャワーを浴びてしまいたいが、さすがにそこまでの大胆さはぼくにもない。
もちろん入江先生の方を直視もできない。ああ、何てもったいないぼくの純情。
「教授と入江先生のコンビなら、さぞかし素晴らしいオペでしたでしょうに、拝見できずに残念ですね」
「…はあ、第一助手は一応西垣先生ですが」
あのエロガッパか。
「ぼくのほうもなかなか難航しましたが、オペ直後に患者の意識も戻りましたよ」
「…さすがです、大蛇森先生」
入江先生からの賞賛の言葉。もうその言葉だけでくらくらとめまいが起きそうだ。
「いや、何、今度ぜひぼくのオペの助手を務めてほしいものです」
「ええ、機会があれば」
そして、手取り足取り脳外科の技術を教え込み、二人でオペを成功させ、いつか入江先生は「今の僕があるのは大蛇森先生のお陰です」などと恩師に対する言葉を世界に向けて発信するのだ。
僕は甘んじてそれを受け入れ、恩師としてのインタビューの暁には、「いえ、極めて優秀な入江先生を一時でも教え導くことができたのは無上の喜びでありました」と答えよう。ふふふふ…。
おっといけない、せっかくの機会なのに。
「先日買った仏像ですが」
入江先生がちらりとこちらを見た。
その流し目だけでも倒れそうなほどの魅力だ。
「その仏像の美しさに一目ぼれしましてね。今は研究室に置いて仕事の合間に眺めているんですけどね、あの仏像を手に入れてからは仕事もはかどるような気がしていますよ」
先日もそう伝えはしたけれども、本当に良い仏像を手に入れたのだと入江先生にわかってほしかったのだ。
「入江先生に紹介してもらってよかった」
しみじみそう言うと、入江先生は無言のままだった。
きっとぼくの感謝に恐縮しているのかもしれない。いや、本当に入江先生には感謝しているんだ。だからこそこの御利益を入江先生と分かち合いたいと思っているのだ。
「入江先生…」
と振り向けば、そこにはすでにいなくて、入江先生と共に執刀した外科教授と僕の部下である助手が怪訝そうな顔でぼくの顔を見ていた。
「仏像とは、なかなか大蛇森先生も渋い趣味をお持ちで」
外科教授はにこやかにそう言って、「実は私もね…」と延々と自分が興味を持っている仏像についての話をされたのだった。
部下は遠慮がちに「先にオペ患のところに行っています」とそそくさと出ていった。
いや、ぼくは入江先生と二人きりなら何時間でも構わないけれども、外科教授と語り合う趣味はない。
おまけに言えば、仏像が好きなわけではなく、入江先生が仏像好きだと聞いたゆえに、またその仏像が入江先生に似ていたがゆえに手に入れたわけで。
もっと言えば、この外科教授に見せるために買ったわけではなく、自分の楽しみのために、また入江先生と仏像について語り合うために手に入れたわけで。
どうやったらこの饒舌な外科教授の口を止めることができるのだろうと思案しているうちに、ぼくの身体はとうとう冷え切ってしまった。
ぶえっくしょ、ぶえっくしょ。
どうやらぼくは風邪をひいたらしい…。
あの外科教授の話に付き合ったばかりに、どうやらオペ室の更衣室で外科教授と二人で親密に話し込んでいたという話から飛躍して、外科教授とできているという噂になってしまっていた。
とんでもない!
ぼくと噂になっていいのは、唯一入江先生だけだ。
いったいどこのどんな奴がそんな噂を流したんだ。
ぶえっくしょ、ぶえっくしょ。
このままでは入江先生に誤解されてしまう。
おまけに入江先生が秘密の部屋に籠ったという話を聞いては、ますます気になる。
いかんな、次第に目の前がゆらゆらとしてきた。
そんなぼくの目の前を通り過ぎたのは、ちんちくりんを担ぎ上げた入江先生の姿だった。
そんな重い輩を担ぎ上げては入江先生の繊細な指が…。
「い、いり、えせん、せ…」
「キャ――――、誰か!」
ぼくの記憶はここまでだった。
夢の中ではお釈迦様になった入江先生が頭の悪いちんちくりんの頭を木魚のようにポカポカしながら念仏を唱えていた。
だからちんちくりんの頭はパアなのだ。
隣でエロガッパと太い師長が何事か話している。
どこかで見たぞ、この光景。
そうか、西遊記か…。
夢の中なのにそんなことを思いついたぼくは、さしずめ三蔵法師というところか…と猿に振り回され続けて目覚めは最悪だったのだった。
(2014/11/14)
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あとがき→ブログ
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仏の顔も三度まで
第二次大仏ブームがやってきた。
事の発端はまたもや入江夫妻。
入江さんがどうやら大仏に興味があるらしい→大仏を買った→その大仏に念仏をあげている→琴子にも念仏を仕込んでいる→入江さん似の釈迦像がある…という具合にどんどん大仏趣味だけが一人歩きしている。
斗南は昔から噂が多いところだったけれど、この夫妻から発信される噂は半分は眉唾だ。
そうだとわかっていても、入江さん似の釈迦像ならちょっと見てみたいじゃない。
それに、入江さんのお母様の話だとどうやら大仏Tシャツまで持っているという。
見たいわ〜、大仏Tシャツ着た入江さんを。
その話を琴子に振ると、琴子は頭をプルプルと振ってとんでもないと言った。
「もう念仏は嫌なの〜」
そう言って涙目だ。
念仏に嫌な思い出でもあるのかしらね。
そして、入江さん似の釈迦像の噂は、誰が言い出したのやら。
入江さん似なら、ちょっとアルカイックスマイルで、凛々しいものに違いないわ。
そんな想像だけで実際に持っているという話も、どこかにあったという話も聞かない。
やっぱりこれも眉唾かしらね。
ところが、オペから戻ってきた西垣先生が意外な人物の名前を言った。
何と、大蛇森先生が手に入れたのだという。
何てこと!
入江先生似の釈迦像となれば、いったいいくらしたのかしら。
さすが外科医ね。
「考えてもみなよ。入江そっくりの釈迦如来像なんて、絶対呪われそうだろ。おまけにそれを大蛇森先生が愛でてるなんて思ったら…」
いつもと違って西垣先生が珍しくまともなことをあれこれ言うので、うっかりしていたけれど、大蛇森先生が入江先生似の釈迦像を手に入れたとなったら、なんとなく想像できてしまって嫌だわ。
毎日その釈迦像を磨きまくったり、頬ずりしたり、拝んで宝物としてそりゃもう大事にするのが目に見えるようだわね。
同じようなことを琴子も想像したのか、「いや――――――!やめて――――――!あたしの入江くんに!」と叫んだ。
うん、まあ、気持ちはわかるけれど、釈迦像であって入江さんじゃないし。
そもそもどこまで似ているのかしらね。
そんなことを考えているうちに入江さんが叫んでいる琴子を見咎めた。いつの間にか戻ってきたのだ。
あたしはどうしても知りたくなり、入江さんに聞いてみることにした。
「大蛇森先生が仏像を買ったんですって?見せられました?似ているっていう噂ですけど」
…それは、聞いちゃいけない地雷だったらしい。
ちょっと不機嫌そうな顔はしていたけれど、それは琴子の叫びを耳にしたせいもあったと解釈していたの。
ところが、それどころじゃなかったようね。
すっと表情が一切なくなって、冷たいを通り越してこちらを見ただけで芯まで凍るブリザード状態となった。
…しまった。
しまったどころか、ものすごく不覚。
ちらりと入江さんがこちらを見た。
やばい、やばいわ、ものすごくやばいわ。
まるで某芸人の決まり文句のようにあたしの頭の中にはそのセリフしか浮かんでこなくなった。今なら物真似もできそうよ…。
錯乱したあたしに入江さんが言った。
「桔梗、琴子は体調不良で早退するかもしれない」
「………はい」
はいと返事する以外、あたしに何ができたというの?!
早退ってことは、これからどこかへしけこむってことですか。
屋上ですか当直室ですか資料室ですか、もしかして秘密の部屋…?
そちらも気になるけど、体も動かないし頭もこれ以上回らないわ。
固まったままのあたしの代わりに西垣先生がポロリとこぼす。
「秘密の部屋にでも連れ込むつもり…いでっ」
バカね、ホントバカよ、西垣先生。
何で今口にするの。
入江先生は当たり前のように西垣先生を蹴り上げ、手から落ちて舞った資料の上を踏み荒らし、琴子の首根っこをつかんでナースステーションを出ていった。
間一髪で清水主任が戻ってきた。
でも琴子と入江さんの姿はどこにもない。
あたしの足元では西垣先生が資料をせっせと拾っている。
ナースステーションはいつもより静かだ。
主任が首を傾げている。
もちろんあたしのセリフは決まっている。
「し、清水主任、琴子が体調不良で少し抜けるそうです、だめなら今日の業務は全てあたしが代わりに…」
「…ああ、そうですか。また後で様子見てきてあげて。ダメならそのまま帰っていいわ、と」
「はい…」
主任は気づいているのかいないのか、どちらでもいいけど、あたしは自分の命があっただけでも儲けものだと胸をなでおろした。
仏の顔も三度までと言うけれど、入江さんの心は多分ものすごく容赦がない。
三度まで持つのかどうか。
入江先生に仏像話はNG、と。
もう、ホント勘弁してほしいわ。
いったい何があったのか知らないけれど、きっとものすごーく嫌なことがあったのね。
「桔梗君、今度誰かが仏像話をしていたら、全速力で逃げるか、全力で止めるかどちらかだよね」
「…ええ、肝に銘じましたわ…」
珍しく意見の合ったあたしと西垣先生は、片っ端から仏像話をつぶしていこうと心に誓ったのだった。
(2014/11/15)
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あとがき→ブログ
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