肝心要の記憶力
…怪しげな人に怪しげな紙を渡された。
先日、そ径ヘルニア嵌頓《かんとん》とかいう腹膜の穴に腸が挟まって抜けないというちょっと予想外の症状に緊急手術をする羽目になった。
それを友人たちに説明すると笑われるのが悩みと言えば悩みだ。何がおかしいんだよ、こちとら死にそうだったのに。助かったから笑えるんだ。
運ばれた斗南病院では、今までに見たことのないほどのイケメン先生に会った。
ただ、そのイケメン先生は嫁ラブな人で、嫁のパンツを不可抗力で見てしまったおれは、日々闇に葬られる危険と隣り合わせで三日という短くも濃い入院生活を送り、自宅療養をしていた。
まだ抜糸は済んでいなかったので、あくまで自宅療養。
で、今日は予定の抜糸の日だった。
いきなり主治医が執刀医からあのイケメン先生に替えられたので、外来受診もあのイケメン先生に会わなければならないのだ。
正直言えば、ものすごく嫌だった。
抜糸はどこかでしなければならず、執刀してもらった病院以外に念のため問い合わせてみたが、当然のごとくお断りだった。
そうして外来の待合の椅子で震えていたら、隣に座った怪しげな女の人…サングラスに帽子、この暑いのにコートを着ていた…その女の人にイケメン先生に見せなさいと何やらまじないのように紙を渡されたのだった。
やがて順番になって呼ばれたおれは、処置室へ行くとあのイケメン先生と共に看護師さんもいて、イケメン先生と一対一で向き合うことがなくてほっとしたのだった。
その途端に手に握っていた紙がくしゃりと存在を主張した。
握りしめていたので若干よれよれになったこの紙をどうしようかと思ったけど、イケメン先生がこちらを見たので反射的に渡してしまった。
「これが何か」
「渡してくださいと頼まれました」
嘘は言っていない。正確には渡してみてだったっけ。
そのメモを開いたイケメン先生の額に徐々に青筋が立つのを見てしまった。
ますます機嫌が悪くなったじゃないかっ。
「緒方さん」
「はいっ」
「これはもしやサングラスに派手ないでたちの中年女性に渡されましたか」
「…ええ、まあ、そのような方でしたが」
ふうっとイケメン先生はため息をついた。
そして、そのメモを一握りでぐしゃりと丸めると、そばのごみ箱にぽんと景気よく放り込んだ。
「こんなものがなくてもきちんと処置を行いますから安心してください」
その迫力たるや、安心できなくてもぶんぶんと思いっきり首を縦に振った。
結果から言えば、イケメン先生は確かに優秀だった。
抜糸自体もすぐに終わり、傷口もかなりきれいだった。
抜糸とは言っても今回はまともに糸で縫ってあるわけではなくホッチキスの針のようなものだった。つまり、抜糸ではなく抜鈎《ばっこう》ですと言われた。
そんなことどうでもいいんだよ、ちゃんとやってくれさえすれば。
これさえ済めばおれはもう斗南病院と関わらずに生きていけるんだ。
思わず喜びをかみしめていると、イケメン先生が振り返って言った。
「これで終わりですが、少しずつ様子を見ながら動いていってください。力仕事や激しい運動は二、三週間控えてください。よろしいですね」
「はい」
何だ、普通の先生じゃないか、誰だよ、闇に葬るとか言ったやつ。←西垣先生
「ところで、あなたは記憶力はいい方ですか」
「は?」
突然何の質問だろうと思いつつ、おれは答えた。
「それほどよくはありませんが、今言われたくらいのことなら覚えていられますよ」
「………そうですか。では、もう病棟であったこともすっかり記憶のかなたですね」
「え」
おれは思わず先生の端正な顔を見つめてしまった。本当にイケメンだ。いや、それはどうでもいい。
その長い沈黙の後に言われた言葉を考えた。
その結果、血の気が引く思いで頭をぶんぶんと思い切りうなずくようにして振った。
「もちろんです。もう、入院中のことなんか忘れちゃったな〜。ははは…」
「そうですか。それは良かったです。どうか二度と入院する羽目にならないように御注意ください」
それは、二度とうちに来るんじゃねぇというよりも、何か余計なことを言えばもう一度入院する羽目になるぞという脅しなんでしょうか。
どちらにしてもおれは「もちろんです。ありがとうございました」とだけ答えて処置室を後にした。
イケメン先生…やっぱりただ者じゃない。
おれは脱力感いっぱいで会計に向かった。
その途中、外来の廊下の隅にあるご意見コーナーで、あの派手な女性が何やらを書いていた。
そう言えば、あのメモにはいったい何が書いてあったのだろう。
それを知りたかったが、ここで関わったらろくなことにならないという勘がした。
ここはもう見て見ぬふりがいい。
入院中のことはもう忘れた。もう二度と思いださない。そんな決心をして病院を出た。
それなのに、目の前をこれ見よがしにあの宅配の車が通っていく。
意外にしぶとい自分の記憶に頭を抱えたくなったのだった。
(2014/10/03)
* * *
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* * *
記憶のかなた
入院中、琴子の迂闊さでとあるものを目にした患者がやってきた。
退院後、外来での抜鈎《ばっこう》の日なので来なければならないのは当然だ。
入院中この患者は俺が近づくたびにびくびくしていて、患者とはいえうっとおしかったが、指導医にくだらない話を耳に入れられたこともわかって、逆に指導医に対してちょっとした殺意がわいたとしても不思議ではない。
その患者が何やら紙切れを渡してきた。
患者は自分の症状を全部伝えようと紙に書いてくることも多いので、その類かと紙を広げてみたら、どこかで見たことのある筆跡に加え、よく知っている文章だった。
『患者さんを怯えさせるほどのその顔、その口調、もう少し改めたらどうかしら。
受け持った患者さんがあなたに会いたくないほど嫌われているとあなたの妻が知ったらとても悲しむわよ。
この患者さんの処置をきちんと行ってあげなさい。
そうでなければ、秘蔵のアルバムを病院中にばらまくわよ。』
サインもなければ誰に当てたというわけでもないこのメモは、どこからどう見てもこの俺を生んだ人間にしか思えない。いや、こんな人間が二人もいたらたまったものじゃない。
それでも念のため患者に確認してみる。
「緒方さん」
「はいっ」
「これはもしやサングラスに派手ないでたちの中年女性に渡されましたか」
「…ええ、まあ、そのような方でしたが」
思い出しながら患者はそう答えた。
…間違いなくおふくろだ。
相変わらずあの人は院内すらもうろうろとして何事かたくらんでいるのかもしれない。
もういまさらだが、数々の企みにしてやられたことも一度や二度ではない。
今のところ俺の知る中で最強の人間だ。
ため息をついてメモを一握りでぐしゃりと丸めると、そばのごみ箱にぽんと景気よく放り込んだ。
「こんなものがなくてもきちんと処置を行いますから安心してください」
患者を見やって力を込めてそう言うと、患者は首がもげるくらい頭を縦に振った。
もともと鈎を器具を使って取るだけの処置も終わって、傷口にも問題ないことが見てとれると、患者はみるみるうちににこにことして開放感いっぱいの笑顔を向けた。
抜糸後の注意点はと聞くので、抜鈎ですと説明すると無邪気にへぇという顔をした。先ほどまでのあの怯えは何だったんだよ。
「これで終わりですが、少しずつ様子を見ながら動いていってください。力仕事や激しい運動は二、三週間控えてください。よろしいですね」
「はい」
能天気なのでこのままこの患者も病院には用がなくなるだろう。
それはそれで問題ないはずだが、俺は少しだけこの患者を試してみることにした。
「ところで、あなたは記憶力はいい方ですか」
「は?」
戸惑いながら患者答えた。まだ気づいた様子はない。
「それほどよくはありませんが、今言われたくらいのことなら覚えていられますよ」
それでもこの患者はあの記憶をふとした瞬間に思い出すだろう。何となくため息をつきたくなる。
「………そうですか。では、もう病棟であったこともすっかり記憶のかなたですね」
「え」
そう言ったまま患者の顔が固まった。
そもそもあのおふくろの言いなりにメモを渡したそのお人よしぶりを反省してもらおうか。
そして、不可抗力とはいえ、夢に見るほど(注:外科病棟主任情報)刻み込まれた入院中の記憶を消してもらおうか。←どこかの主治医のせいとは思っていない
そんな俺の意図に気付いたのか、患者は青ざめながらうなずいた。
「もちろんです。もう、入院中のことなんか忘れちゃったな〜。ははは…」
それが嘘でも本当でも、口にしようものなら記憶のかなたに葬り去ってやろうかと思っていた。
「そうですか。それは良かったです。どうか二度と入院する羽目にならないように御注意ください」
それは純粋なる言葉通りの意味だったにもかかわらず、「もちろんです、ありがとうございました」と裏返った声で患者は言って出ていった。
この分なら嫌でも外科病棟に近づかないだろうと思うと、少しばかり苦笑した。
どちらにしても憶えていてもらっては困る記憶であることには違いない。
琴子には教育的指導を行ったが、その指導もいつまでもつやら。
やれやれと思ったのもつかの間、外来ナースが次の患者を呼び入れますよと声をかけてきた。
今度この病院のナース服を変更するという案に一票入れようと思った。
(2014/10/04)
* * *
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* * *
苦労なんて買ってまでもいらない
そろそろ時間ですね。
お気に入りの時計で時間を確かめると、ぼくは医局の椅子から立ち上がって会議室に向かった。
最近買ったこのブランド時計は、繊細なフォルムで美しい。金銀キラキラでもないシックなデザインが気に入って買ったものだ。
会議室は大学棟へ向かう途中にあるのだが、そこに行く途中で麗しき後姿を見た。
その颯爽と歩く美丈夫ぶりは、他の誰の追随も許さない。
そんな後姿に声をかけようと思ったが、つい見とれて時間が過ぎてしまうとそれもこのぼくの汚点になりかねないことなので、後姿を目に焼き付けるだけにして仕方なく会議室に入ったのだった。
会議室にはそこそこ院内で名を馳せた医師たちが次々にやってきた。
月に一度の会議は、既に顔見知りになった医師たちが隣り合わせで小声であいさつを交わしていたりする。
「どうですか、脳外科の方は」
そう声をかけられたのは、消化器外科の教授だった。どうやら今回は出席されるようだ。
「そうですねぇ、配属された者たちはまだまだ未知数ですが、一人や二人は医局に残ってくれるものと思いますよ」
「ほほう。やはり今年も外科系は厳しいですな」
「あの入江先生のような突出した傑物はなかなかいるものじゃないですよ。今からでも脳外科に引き抜きたいくらいなのに。彼なら今からでも十分活躍できる器を持っていますからね」
「そうですか。それはえらく高い評価ですね。確かに彼は今でも技術的には申し分ないものを持っていますからね」
「心底うらやましいですよ」
そう言うと、消化器外科の教授は少し後ろに下がったように感じたのだが、きっと気のせいだろう。
やがて会議が始まった。
「そこで、院内安全対策委員会といたしましては、感染症対策委員会からの要望を受け入れることにし、セーフティマネージメントの…」
あれこれ対策案が決議されていく中、最後の議題になった。
配布されたプリントには、御意見箱の意見統括に見る院内安全対策とかなんとか書いてあるが、要は御意見箱に寄せられた患者からの苦情をどうするか、ということだ。
ただの苦情ならば、そこは苦情対策として事務方との兼ね合いも考慮されるが、御意見箱の一年間の御意見統計はなかなか壮観だった。
中でも個人名を出した苦情に褒め言葉、ただの罵倒とこれまた生々しい。
『外科の入江直樹先生は…』
『外科病棟の入江看護師さんは…』
これは不思議なことではない。
一方は外科きっての腕自慢。
もう一方は院内一とんでもないちんちくりんだ。
『外科病棟の看護師の入江琴子さんは、素晴らしい看護師さんです』?
『脳外科の大蛇森先生は、男の患者と女の患者の扱い方が違う』…って?
なんだ、これは。
「大蛇森先生、落ち着いてください」
隣から内科の医局長が気弱そうな物腰でこちらをうかがっている。
いや、落ち着いているとも。
いったいこれのどこが安全対策に関係があると言うのだ。
まだ『病院の食事が貧乏くさいので出前をしてもらったら、ナースに勝手に断られた』とかの方がよほどわかる気がする。
「えー、つまり、年々患者の要求はより細かくなっており、これは院全体の…」
委員長が話を進めていくが、話の半分も頭に入らなかった、このぼくが。
そもそもあのちんちくりんがほめられて、このぼくの苦情が入るなど嫌がらせに決まっている。
きっと自分の評判があまりにも悪いので、自分で自分の擁護を御意見箱に投入して、このぼくの評判を貶めるためにでっちあげを投入したのかもしれない。
あの野蛮で考えなしのちんちくりんならありうる。
「一つ、お伺いしたいのですが」
手を上げて委員長のつまらない話を遮った。
「どうしました、大蛇森先生」
「この個人名を特定した御意見は、自らの行いを反省する材料にもなりますが、逆に個人への中傷にもなるデリケートな問題でもあります」
もっともらしく話を進めると、委員長は「それはそうですね」と同じようにもっともらしくうなずいている。
「しかも、こう同じような内容を繰り返し投入されるということは、その個人に対して並々ならぬ恨みを抱いているとも思われます」
だいたいあの入江先生に向かって『愛想がなくて怖い』などと書く人間は、あのクールで素晴らしい人柄すらも知らないに違いない。とんだ侮辱だ。
「そして、この同じような文面は同一人物と思われ、この人物の真意を問いただすことが重要なのではないでしょうか」
おお!という感嘆の声とともに拍手まで起きる。
「…で?」
委員長の控えめな言葉に「で?とは?」と返すと、委員長はわざとらしく咳ばらいをした。
「その人物が誰であるか、先生は御存じで?」
「知るわけないだろう。そもそもそういう輩との付き合いはありません」
「それなら、どうやって真意を問いただすんですか」
「それはそちらで考えていただくことでは?」
しばらく委員長が黙ったが、「それでは」と重々しく言って会議室の中を見渡した。
「その人物を知ることが重要だと思われますので、その人物探しを大蛇森先生に一任するというのはどうでしょうか」
「賛成!」との声に拍手が鳴り響く。
「ちょ」
ちょっと待ってくださいという言葉は拍手にかき消された。
「それはぼくの仕事ではない。いや、ぼくも忙しい身なので遠慮申し上げる」
「それでは、その人物を探すのは部下に命じても構いませんよ。要はその人物がどういう意図でもってこの投書を行っているのかを知るのが大事だと思いますので」
「それは大事かもしれないが、その投入者のプライバシーは」
「個人的に偶然お会いして接触するだけなら、プライバシーの侵害とまでは言えないのではないのでしょうか。若い者にやらせるのもいいのでは?ほら、若い時の苦労は買ってでもせよというではないですか」
「そんな無茶な」
だいたいそんな調査など医師の仕事ではない。
ぼくのつぶやきにそれはもっともだと隣から声がする。気弱な医局長はぼくに同情的だ。きっと医局では医局長という名のもとにいろいろ押し付けられているに違いない。ぼくも多少覚えはある。
「では、これで会議を終わります」と無理矢理押し付けたように会議は速攻で終わりを告げた。
ぼくは呆然と会議室に取り残され、隣の内科医局長が気の毒そうにこちらを見て会釈をした。
今度脳外科の医局長には少しばかり優しくしても罰は当たらないなとも思う…が。
「これもそれも全部ちんちくりんのせいだ!」
ぼくの叫び声は誰もいない会議室に響くだけで、誰の返答もなかった。
(2014/10/05)
* * *
あとがき→ブログ
* * *
犬猿の仲
患者さんの外来受診のために車いすを押しながら外来棟を歩いていると、目の前にはだんなさまの後姿。
「い、り…」
患者さんの存在も忘れて、入江くんに声をかけようとしたら横から現れた姿にあたしはむっとする。
思わず速度を上げてずんずんと歩いていき、あいつに連れ去られる前に入江くんの白衣をつかんだ。
「入江くん!」
「…おまえ、患者さんに何してるんだ」
「はい?」
入江くんの青ざめた目線をたどると、あたしの真下で患者さんがもっとさらに青ざめて「ひぃ〜〜」と声にならない悲鳴を上げていた。
「ご、ごめんなさい、忘れてた」
それでもあの場に患者さんを放置しなかったのが救いというべきかも。
無意識のうちに車いすを押しながら猛スピードで入江くんの元へ突進したようだった。
一応ぶつからないように人を避けたようだし、外来カウンターにもぶつかる寸前でピタリと止められていた。無意識に気を使うことができるようになったなんて成長したものよね、あたしも。
「バカか!ぶつからなければいいなんて考えてんじゃないぞ」
入江くんに怒鳴られて、あたしは首をすくめた。一緒に患者さんも首をすくめている。
何も患者さんの前で怒らなくたって。
そんなんだから入江くんってば腕はいいのにちょっと怖いって言われるのよ、もう。
あ、もちろん入江くんは怖いって言われても急にやさしくするような軟弱な人じゃなくって、ちゃあんと自分を持ってて、ちょっとした優しさがわかる人にはわかるのよ。
「まったく、どうしてこんな何もできないあなたのようなのが、彼のような優秀な人と結婚できたのか人生最大の謎ですね」
そう言ってあの妙なもみあげをくりっと丁寧になでつけて現れたのは、脳外科の大蛇森だった!
「入江くんは、だからこそあたしと結婚したんです」
「ああ、ボランティア精神もここまで来ると極まれり。その素晴らしい精神に敬意を表して、さっさと患者を連れて行ったらどうだね」
「言われなくても行きますよっ」
あたしはふんとばかりに大蛇森に背を向けて「じゃあね、入江くん、また後で」と声をかけて目的の外来まで車いすを押したのだった。
「本当に大蛇森ってば、嫌味ばっかりで、入江くんに色目使って、さいてーね」
患者さんを外来に連れて行った後、ナースステーションで愚痴っていると、そこにモトちゃんが現れた。
「でも入江先生は老若男女を惹きつける人なのよねぇ」
「そうだけど、あんな変なのまで惹きつけなくてもいい!」
「あんたと大蛇森先生は犬猿の仲よね」
「どっちが猿よ」
「あーはいはい、あんたは入江先生の犬よね。しっぽ振って後付け回す犬」
「何かその言い方うれしくない」
「じゃあ猿で」
「ひどーい」
あたしはぷりぷりしながらまた仕事を再開した。
だいたいあの髪型何よ。
あんな髪型でどや顔してるなんてあいつだけよ。
あの髪型やめてくださいって御意見箱にでも入れてみようかしら。
幾つか仕事をこなした後、再び外来に呼ばれた。先ほどの患者さんのお迎えだ。
外来に行くと、片隅にある御意見箱を見つめるようにして妙な人影があった。
先ほど入江くんにちょっかいかけただけでは飽き足らず、ここで誰かイケメンでもゲットする気だろうか。
「…大蛇森先生、何してるんですか」
その背後に近寄って見つめている先を見ながら声をかけた。
「ひゃあ」
軽い叫び声とともに振り向いた大蛇森は、あたしを認めると指差しして「な、何をしてるんだ、ここで」と顔を真っ赤にして言った。
「何してるはこっちのセリフですよ。そんな外来で誰かを見つめてる暇があったら仕事したらどうですか」
「あなたに言われたくないですね。ぼくには大事な用事が…」
「こんなところでストーカーのように?」
「どきたまえ。あ…行ってしまったではないか」
「やだわ〜。医者がストーカーじゃ世も末ね」
「ストーカーじゃない!君だってどうせ入江先生にストーカーして、根負けした入江先生が結婚してくれたんじゃないのかね」
…くっ。
悔しいことに半分くらい合ってる…。
大蛇森はほうらみろと言わんばかりに得意気だ。
「でも、あたしと入江くんには愛があるわっ」
「愛!あなたのようなちんちくりんに崇高な愛を語ってほしくないですね」
「何ですって!先生こそその妙な髪型で愛なんて言葉を語ってほしくないわよ。どうせ愛なんて一つもゲットできていないんじゃないですか」
「髪型は関係ないっ」
「いい加減にしてください!」
仁王立ちした人物から発せられたその声に、大蛇森とあたしははっとして周りを見渡した。
外来とロビーをつなぐ廊下での言い合いは、残っていた患者と職員の注目の的になっていた。
「入江さん、遅いと思って来てみれば、患者さんのお迎えはどうしたんです」
「は、はいっ」
「大蛇森先生。こんな衆人環視の中で、プライベートな言い争いはお控えください。先生の品位まで疑われます」
「ふむ…」
あたしたちが黙ったものだから、遠巻きに見ていた人たちもそれぞれ散っていった。
仁王立ちしていた人、清水主任に怒られ、あたしは慌てて患者さんをお迎えに行き、今度は無事に病棟まで連れ帰った。
病棟ではすでに外来で大蛇森とストーカーぶりを自慢しあったと噂され、散々だった。
後から病棟に来た入江くんには「ストーカー?ある意味間違っちゃいねぇな」と真顔で言われた。
「ですよねー」
モトちゃんがあたしを見て笑う。
「本当に相性が悪いと言うか、犬猿の仲って言ってたんですよぉ」
「犬猿の…」
入江くんは眉を上げてあたしを見た後、ぷっと吹き出した。
「ちょっと、入江くん、それどういう…」
あたしが入江くんに抗議する前に、入江くんはそっと耳元で言ったのだった。
「黒猫になったり、犬になったり、猿になったり、大変だな、おまえも」
その瞬間、あたしは身に覚えのありすぎる出来事を思い出して、それ以上反論もできないままだった。
モトちゃんはあたしの様子を見ても何も言わず、遠い目をしていた。
それにしても大蛇森のやつ、誰をストーカーしていたのかしら。
今度ストーカーのストーカーでもしてみようかと思ったのだった。
(2014/10/07)
* * *
あとがき→ブログ
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恋は下心、愛は真心
「先生はストーカーなんですか」
どストレートに聞いてきた脳外科の教授。
「いったい誰がそんなこと言ったのか知りませんが、ぼくがストーカーなら、あいつはストーカーを追い越して犯罪者Aだ」
息巻いてそんなふうに言ったところ、教授は「いったい誰をストーカーしていたんですか」ともうストーカー認識だ。
「教授、ですから私はストーカーではありません」
「そうか、そうか」
あまりの軽い返事にきっと話を聞いていないのだろうと見当をつける。
「つまり、教授もストーカーと呼ばれればきっと私の気持ちがわかりますよ」
そうぼそりと言えば、「呼ばれたことなどない!」と結構本気で返してきた。
あ、聞いていたんじゃないか。やだなあ、もう。
「安全委員会で頼まれたんですよ」
「あ、そっちのほう」
教授はなんだかあっさり納得して、この話題にはもう興味がなくなったようだった。
これ幸いとぼくはその場を退いて、病棟回りをすることにした。
午前中に自分の担当オペも外来もないので、そろそろ来るだろうと言われていた例の御意見箱に頻繁に御意見を入れてくる人を観察していたのだ。このぼく自らが!
下っ端があまり役に立たなかったのもあり、直接自分で行くつもりだった。
残念ながら今日はあのちんちくりんに邪魔をされて逃してしまった。
次に来るのはおそらく一週間後だろう。
あのとき、ちんちくりんが声さえかけなければ!
ちんちくりんのせいでストーカー呼ばわりまでされ、あろうことか外科病棟の一主任にまで注意を受けることになった。何たる不覚。
それもこれも全部ちんちくりんのせいだ。
この斗南大病院は噂話が好きな割に、噂話が過ぎ去るのも非常に早い。
次々と新しい噂話が出てくることも一つの原因だろう。
その噂話の根源は、麗しの入江先生だとか、あのちんちくりんのことだとか、いったい誰が流すのか不思議なくらいだ。
ぼくのストーカー話すらすでに過去の話だ
今は入江先生の密会話が一番新しい噂か。
とうとうあのちんちくりんと別れる決心をしたのかと、ぼくなんかは喜んで噂を拡散する方に回るがね。
そして、いろいろとあったが、ようやく例の御意見箱の主が来るだろう日となった。
今度はあらかじめちんちくりんに邪魔をされないように下っ端に先に見張らせておき、来たところですかさずぼくが出ていくことになった。
医局では遠いので、すぐそばにある喫茶店で時間をつぶした。
そこでもひと悶着あったのだが、まあ今回それはいいとして、連絡が来てすぐにぼくは駆け付けた。
帽子にサングラスという見るからに怪しい女性だ。
しかし、誰かをほうふつとさせるその物腰は、女性なのにプチセレブの趣さえある。
これは一筋縄ではいかないだろうと目算した。
「もしもし、そこのあなた」
「はい」
悪びれず御意見箱に御意見とやらを入れ終わったところで声をかけた。
「毎週熱心にこちらに御意見を下さる方は、もしやあなたですか」
「まあ!なんでわかったのかしら」
何でって…そのいでたちは非常に目立ちますよ、奥さん。
「そういうあなたはここのお医者様でいらっしゃるのね」
「ええ、そうです」
「私に何か用でしょうか」
「用というか、ずばりお聞きいたしますが、熱心に御意見箱を利用してくださる方がいるようなので、直接御意見をこの際伺ってこい、という院長の意向なんですよ。そこで、あなただけ特別に御意見をお伺いしたいのですが」
「そうですか。でもできればお兄ちゃんにはばれたくないのよね」
お兄ちゃん?
「では、よろしければあちらで…」
「お義母さん!」
その声にぎょっとして振り向いた。
またもやちんちくりん!
しかもこの大事な場面で!
どこまで邪魔をすれば気が済むのだ。
「お義母さん、だめですよ、こんなトカゲのような変態医者についていっては」
「まあ!琴子ちゃん!」
へ、変態?
おかあさん?
いや、似ていない。
「邪魔をしないでいてもらおうか」
「大事なお義母さんを連れていかせるわけないでしょ。入江くんだけじゃ飽き足らず、お義母さんまで」
「何言ってるんだ。ぼくの入江先生への愛はそんな下心など到底及ばない、尊い真実の愛なんだ」
「…愛」
女性の目がきらりと光った気がした。
「そんなのが真実の愛なら、あたしは永遠の愛よ!」
「さすがよ、琴子ちゃん。お兄ちゃんにはもったいないくらいだわ」
「いいえ、入江くんをこの邪な変態医師から守るのは、あたしの役目ですから」
くだらないちんちくりんの言い分を聞いている場合ではなかった。
違和感を感じて女性を見た。
「このち…入江看護師の身内でしょうか」
女性は大きくうなずいて言った。
「ええ。琴子ちゃんは大事なうちの嫁です」
「…嫁」
「あら、申し遅れました。私、こちらに勤務している入江直樹の母でございます」
「い、入江先生の!」
迂闊だった。
「できればお兄ちゃんには知られたくなかったから、黙っていたんですよ」
入江先生の御母堂とは…。
そう言えば、この雰囲気はどちらかというとちんちくりんよりも入江先生に近い。
しかし、よりによって入江先生の御母堂とは。
ならば、あの意見の数々も謎が解ける気がした。
「直樹は愛想なしで、皆様にご迷惑をかけていらっしゃるようで」
「いえ、とんでもない」
「お義母さん、大蛇森先生はいつも入江くんを追いかけ回す変態なんですよ」
…こっそりのつもりか、聞こえてるぞ、ちんちくりん。
「まあ。それは困ったわね。琴子ちゃんというそれはもう大事な嫁がいるんですから」
「いえ、ぼくの入江先生への愛は、崇高なものですから」
「…そうですか。まあ、あんな直樹にこんな上司の方がいらっしゃったなんて」
よし、これで親公認だ。
「それじゃ、お兄ちゃんにばれないうちに帰るわね」
「はい」
「それでは、直樹の御指導、よろしくお願いいたします」
そう言って微笑んだ入江先生の御母堂の迫力は、入江先生に勝るとも劣らないものだった。
さすが御母堂。
「お任せください、手取り足取り…うっ、何するんだ、このちんちくりん」
「何どさくさに言ってるんですか」
「うるさい、結局あの御意見の数々は身内びいきだったじゃないか」
「あー、今からあたしも書いちゃおう。変態医師がいますって」
「それならぼくも外科病棟にとんでもないちんちくりんの看護師がいるって書いておこう」
「ならあたしは院内不倫反対よ」
「ほう、不倫されたのか、当然だな」
「されてないわよっ」
「いい加減にしてください!またあなたたちですか!」
偶然通りかかったのだろう、そこには毎度おなじみの外科病棟主任が仁王立ちしていた。
「医師と看護師が騒いでいるようだと来てみれば」
「…すみません、清水主任」
確かにこんな低レベルの看護師と言い争ってしまった。
「その御意見箱の用紙に何を書こうが自由かもしれませんが、職員なら人を批判する前にまずは自らの行いを振り返ってからにしてください」
「…はい」
「う…その通りだな」
「わかっていただけたなら、はい、解散!」
パン!と小気味良い手打ちをして、きびきびと外科病棟主任は戻っていった。
女でもあれくらい仕事ができれば問題ないのだが。
しかし、やはり入江先生くらいの男でないとこのぼくに釣り合うまい。
散乱した御意見用紙を黙ってちんちくりんと片付けたが、目が合うと互いに「ふん」と鼻を鳴らしてその場を立ち去った。
手の中に御意見用紙を一枚握りしめて。
いつかあのちんちくりんを追い出してやる。
下心満載のちんちくりんよりも、このぼくの真心がいつか入江先生に通じる日が来るまで!
そんな決心をした午後だった。
(2014/10/11)
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あとがき→ブログ
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