イタkiss祭り2014and10周年記念





迷子の黒猫




入江くんが大仏好きだと思っていたあの頃、何故か斗南に大仏ブームがやってきていた。
多分入江くんが興味があるって言ったから、それにつられた女の子とか、その女の子を誘いたい男の子とか、あれこれ皆の思惑がにわかブームを作り出したというのが真相だったらしい。
というのは、後で入江くんに聞いたからで、あたしはそんなに大仏がブームになっていたなんてちっとも知らなかった。
誕生日のお祝い代わりに入江くんに鎌倉に連れて行ってもらったことだけでしばらく幸せな気分でいたからだ。
そもそも入江くんが『大仏買った』というあたしの誤解も、もとをただせば『だいぶ使った』というただの勘違いで。字だけなら『ダイブツカッタ』なんだけどね。
あれから数年、もう忘れていたというのに、斗南に第二次大仏ブームがやってきていた。

「ねえ、琴子、入江先生似の…」
「風子!清水主任が!」

「あ、入江先生ってだいぶ…」
「だいぶお疲れのようよね」

「大蛇森先生の…」
「患者さんが呼んでいたわよ」

皆があたしに話しかけようとすると、横からモトちゃんが全部話題をさらう。
いったいどうしたんだろう。
モトちゃんがいないところでは西垣先生が同じことをする。
あたしには何の話だかさっぱりわからないまま、大仏ブームも少しずつ下火になったようだった。
あたしとしてはほっとしている。
だって、大仏とか仏像の話題になると入江くんの機嫌が悪くなるし、その入江くんに付き合うのはあたしだし。
もちろんどんな入江くんでも構わないけれど、なんだか大仏の話題の後はその…少し…ベッドで…そ、そういうわけなのよ。
あ、そうか、モトちゃんはそれを心配してくれてるってわけね。
ああ、そっかそっか、モトちゃんに感謝しないと。
「モトちゃん、いつもありがとう」
「な、なに、突然、どうしたのかしら」
「だって、いつもお世話になっちゃって」
「あ、ああ、そ、そう」
素直にお礼を言ったのに、なんだかモトちゃんは戸惑ったように返事を返すのみ。
「い、いいのよ、あたしの健康と平和のためだから」
「え、何か病気なの」
「あー、病気じゃないから気にしないで」
そう言ってモトちゃんは手をひらひらと振った。
なんだかさみしい。

あたしは仕事の終わりに担当の病室を一通り見回ることにした。
とある個室の患者さんは、何やら出入口のドアに向かって拝んでいた。
「どうされたんですか」
そう声をかけると、その患者さんは「ありがた〜い、お釈迦様にお会いしたんですよぉ」と拝みながら頭を下げている。
「それは良かったですねぇ」
当たり障りのない返事をして、その場は取り繕った。
あの方、ちょっと呆けちゃったかしら?いえ、そんなはずは…と思いながら次の病室へ。
ここでは患者さんが皆固まっていた。
「…皆さん、どうされたんですか」
「あ、ああ、琴子ちゃん…」
「ああ、解凍された〜」
「ああ、春が来た〜」
「命は助かった」
次々とあたしを見て涙する。
えっと、本当にどうしたんだろう。
「桔梗さんの忠告を聞くべきだったな」
「ああ、本当に」
「禁句だな、あれは」
「態度はいたって普通なのに、どうして俺たち固まったんだろうな」
「さすがだな」
「ああ、さすがだ」
そう言ってうん、うん、とうなずいている。
「あの…?」
「琴子ちゃん、あんたも大変なんだね」
「え?は、はぁ…」
わけがわからない。
ナースステーションへ戻ると、モトちゃんがはあと大きなため息をついた。
「入江先生のブリザード攻撃にも困ったものよね」
「入江先生?」
入江くんが何かしたのだろうか。
そう言えば、先ほどの病室で妙な言動の患者さんは全て入江くんの担当だった。
「今病室回ったらね、入江先生の担当患者さんが皆変だったわ」
「それは気の毒だったわねぇ、ちゃんと忠告しておいたのに」
どうやらまたあたしの知らない計画が進行していたらしい。
「…あたしだけ仲間はずれなんて…」
ちょっと寂しくなってそうつぶやいたら、モトちゃんは困ったように言った。
「これはね、琴子のためでもあるのよ。知ってるでしょ、入江さんが仏像話嫌いなのを」
「…それ?その話?」
…なるほど。
あたしは納得してうなずいた。
そもそもこの話を再び持ち出したのは誰なんだろう。
だいたい大蛇森が仏像なんか買うからいけないのよ!
そうよ、大蛇森のせいよね。

「誰ですか、この車椅子をこんなところに放置したのは!」

覚えのあるあたしは、それまで考えていたことも吹っ飛ぶほど驚いて「ごめんなさい、あたしです!」と声を上げた。
「ちゃんと元の位置に戻しておいてください。廊下に放置しないように!」
「はいっ」
あたしは急いで車いすを押して置き場に戻そうとした。
ところが、ストッパーがかかっていたのを忘れて、無理に押したものだから、勢い込んであたしの方が車いすを飛び越してしまった。
このままでは頭から廊下に突っ込んでしまう!と思ったその時、目の前にあったものに必死でしがみついた。
それなのに、しがみついたそれはあっさりとあたしを裏切って、つかんだそれごと結局廊下にダイブしたのだった。

「きゃーーーー」

野太い悲鳴が響いた。
あたしがとっさにつかんだのは、誰かのズボンだったらしい。
「いたたたた…」
車いすにぶつかった身体も痛かったけど、それよりもやはりダイブして打った頭の方が痛かった。
ふと見上げると、白衣に黒い何かが透けていた。
「何、これ」
まじまじと見ると、どう見ても黒猫だった。
何で黒猫、と思う間もなく、手からズボンが引っ手繰られた。
「全く、風呂場をのぞいただけでなく、ズボンまで脱がせるとは!とんだ痴女だな」
「何で黒猫…」
黒猫と言えば、ちょっと前にひどい目に…。
「こんな変態を入江先生はよくもまあ我慢できるものだ」
「ちょっと!何で大蛇森先生が黒猫パンツなんてはいてるんですかっ」
「これはぼくの手製アップリケだ!」
辺りはシーンと静まった。
何せ大蛇森はズボンを脱いだままだし、ちらりと見えるパンツは黒猫アップリケ付きだし、何と言ってもここは病棟の廊下で。
「何でよりによって黒猫なんですか」
「そんなのは君の知ったことではない」
「しかも何で仏像なんて買うんですか」
「それも君には関係ない」
「関係あるから言ってるんじゃないですか」

「言い合ってる場合ですか!」

いつものごとく清水主任だった。
そりゃ外科病棟の廊下だし。
「大蛇森先生もいつまでも下着をご披露していないで履いてください」
いそいそと大蛇森はズボンを履きだした。
「入江さんは車椅子をさっさと移動させて。ちゃんとストッパーを外さないと動きませんからね」
先ほどの失敗を教訓に、あたしは車いすを移動させた。
「はいはい、見世物じゃありませんからね!」
清水主任の言葉に周りで固まっていた通りがかった人、騒ぎを聞きつけてきた人はようやく動き出した。
あたしはため息をついてから、もう帰る支度をしようと振り向いた。
…い、入江くん…。

次の日の仕事が休みで良かったと思ったあたしだった。

(2014/11/19)



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見ざる聞かざる言わざる




出来ることなら、見ずに済ませたかった。
オペ後の更衣室で脳外科チームと一緒になった。
こちらは予定の消化器オペ。事前に見たよりも癌が進行していて、少し手間取った。
脳外科チームはどうやら緊急オペだったようだ。
ざわつくオペ室だったが、どちらも無事にオペを終えて、ホッとした空気も流れていた。
大蛇森医師は脳外科に関してはかなりの手練れだ。その腕は見学するに値するとは思う。
指導医も同じだが、オペの腕と性癖は必ずしもリンクしないようだ。
大蛇森医師のオペは、本人の気性もあるだろうが、やや緊張感に満ちている。
指導医の西垣医師はどんなに緊張した場面でも、看護師や麻酔科の女医に対するナンパな態度を改めない。ある意味それも才能と言えるかもしれない。
着替え始めたら、突然目の前に目を疑うものが飛び込んできた。
あの大蛇森医師からちらちらと見えるのは、俺の視力が落ちていなければ黒猫だと思う。
どこに見えるかって?…下着だ。
人の下着は見ないが、ここは更衣室。
しかもシャワーを浴びたりとオペ後は何かと薄着になっている。
嫌でも目に入るのだ。
何か話しかけられているが、どうでもいい。
琴子の黒猫はまだ許せるが、妙齢も大幅に過ぎた性癖の怪しい男の先輩医師の下着に、しかも何だか見るからにお手製っぽい黒猫マークを見つけたら、誰でも言葉など出ないんじゃないだろうか。
しかもあの琴子の黒猫を全て覆すかのようなインパクトのある下着だ。
嫁の黒猫パンツなら、笑って記憶に留めておいても損はないだろう。
いったい誰が男の下着など記憶に留めたいだろうか。
残念なことに、俺は一度見たものであっても正確に記憶してしまう。もちろん意図的に忘れることもできないわけではないが、それまではこの映像が頭のどこか片隅にいつでも思い出せる引き出しにしまわれるのだ。
もちろん後で強制的に排除するとしても、とりあえずこの場は何とかうまく辞したい。
こんな人でも一応先輩医師だし。

「その仏像の美しさに一目ぼれしましてね。今は研究室に置いて仕事の合間に眺めているんですけどね、あの仏像を手に入れてからは仕事もはかどるような気がしていますよ」

もともと仏像だの大仏だの、毛嫌いしていたわけではなかった。どちらかと言うと興味はある方だった。その時代の背景や宗教的な意味合いから政治的な意味合いまで絡む諸々の歴史を知るのは悪くない。
それなのに、琴子の勘違いから始まった大仏話は、いつの間にかありとあらゆる噂に巻き込まれ、琴子までがあれこれと言うようになった。
おまけに大仏Tシャツときた。これもあれこれ思うことはあったが、二度と着るつもりはないのでとりあえずよしとしていた。
まさか琴子が数年ぶりに着るとは思わなかったが。
琴子の騒動はいつものことだし、それはどうとでもなる。
しかし、この先輩医師から広まった俺に似ているという仏像の噂は甚だ迷惑だった。
それすらも、もうどうでもいい。
俺はあえて聞かないふりで更衣室をさっさと出ることにした。
病棟では桔梗が余計な質問をし、西垣医師がくだらない噂をつぶやく。
さらにその後、大蛇森医師が風邪で倒れたと騒ぎになったが、ちょっと琴子へのお仕置きに忙しくてそれどころではなかった。
お仕置きの後の琴子は使い物にならなかったが、後は桔梗がフォローしてくれたから問題ない。琴子がいない方が正直仕事もはかどるだろうしな。

それに反して大仏と仏像の話はなかなか収まらなかった。
念仏を唱えれば秘密の部屋が開くとまで噂が回っている。
もちろん誰にでも開くわけがない。そんなことはあえて言わないが。
それよりも、個室に行けば何故かお釈迦様だと拝まれ、大部屋に行けばくだらない噂を聞かされる。
それに応えずに淡々と回っていると、そのうち誰もしゃべらなくなった。
一通り回った後で、急に病棟の廊下が騒がしくなった。
外科病棟は一度回復してくると退院も間近な元気な患者が多いせいか、騒動が起きると野次馬も多い。

「全く、風呂場をのぞいただけでなく、ズボンまで脱がせるとは!とんだ痴女だな」
「何で黒猫…」

…琴子と大蛇森医師だった。
人垣の間からのぞけば、大蛇森医師はあの黒猫パンツをお手製アップリケだと自慢げに披露していた。残念ながらまだ最初に見てから数日のせいか記憶に残っている。しかもお手製ということまでインプットされてしまった。
そこからあれこれ言い合いは続き、口を挟もうにも挟む暇もない。
妻の目の前に他人のパンツ(しかも男)がある状況は、夫としては面白くないだろう。いや、全然面白くない。それどころか腹立たしい。
看護師と言う職業なら仕事上で他人のパンツを触る機会もその中身さえ見る機会もあるだろう。
俺だって女性患者の裸なんて山ほど見る機会があるし、触る機会だってあるのだからお互い様だ。
それはあくまで職務上だ。
これは職務上かプライベートか。
俺の頭の中では、プライベートおよびセクハラに分類された。
セクハラしたのは、この場合どちらかと言うと琴子の方だろう。
どちらにしても必要以上に他人のパンツを眺めている場合ではない。
そう思った人物がもう一人いたらしい。

「言い合ってる場合ですか!」

外科病棟の良識、清水主任だった。
あっという間に野次馬は蹴散らされ、大蛇森医師はくしゃみをしながら立ち去った。もう一度熱でも出した方が落ち着くんじゃないだろうか。そんな不謹慎なことを思う。
琴子は何かを察したのか、不意に振り向いた。当然俺と目が合う。
こちらを見た琴子の顔は途端に青ざめて、生唾を飲み込んでいる。
しかし、何度同じことを繰り返せば学習するんだろうか。
ああ、バカだから仕方がないか。すぐに忘れるからな。
バカなりに今夜どうなるかくらいは察することができるようになったらしい。明日は琴子の仕事は休みだしな。
多分俺はその時、釈迦像もかくやというくらいアルカイックスマイルをしていただろう。
桔梗はちらりとこちらを見た瞬間に小声で「うわぁ…」とつぶやいた。
相変わらず桔梗は察しがいい。
どちらにしてもまだ仕事は終わらないし、いくらなんでも続けざまに琴子を体調不良にすることもできない。

「今回は桔梗の手を煩わせることもないよ」

そう言えば、琴子はは目をつぶり、耳をふさいで黙り込んだ。

(2014/11/21)



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無自覚な愛




僕の信条は、万人に愛を、だ。
女性は特に、老若の区別なく愛を与えるべきだと思う。
ちなみに男性に対しては、とりあえず、そこそこ、といった具合だ。
基本的にこいつ嫌い!と心底思ったやつはまだいない…と思う。
え?後輩に対していつも愚痴を言ってるって?
あんなのかわいいもんじゃないか。
愚痴を言うだけであれこれいつも通り接する寛大な先輩なんてそうそういないだろ?

何がいけないって、今日の男連中は、揃いも揃って機嫌が悪かった。
それ僕のせい?と聞きたくなるほどだ。
教授は何やらぶつぶつ僕につぶやいた。
先日、あのオペ後の更衣室で大蛇森先生と仏像について語り合ったらしい。
聞かなくてよかったよ。
「大蛇森先生の仏像、どんなのか見たことあるかね?」
「…いえ」
「大事な品だとかで見せてくれんのだよ。研究室に安置してるという噂なんだが」
「はあ、そうらしいですね」
「お気に入りの入江先生にでも頼んでみるか」
「いや、それはやめた方が…」
一応忠告はした。
忠告したけど、教授というのはあまり聞く耳を持たない人種だ。天上天下唯我独尊を地で行く人なのだ。
人のいい者はたいてい教授になんかなれっこない。
人当たりのいい人、というのはたいてい開業してしまうからね。

そんな会話をした数時間後、今度は大蛇森先生だ。
下着の黒猫アップリケをよりによってあのちんちくりんに見られたと鼻をぐずぐずさせながら喚いた。オペ後に盛大なる風邪をひいて熱でぶっ倒れたと聞いたのに、また風邪ひいたのか。
ちんちくりんというのは、どうやら琴子ちゃんのことらしい。
まあ、大蛇森先生にとってはお気に入りの入江を占有する憎っき嫁だから、陰でそう呼んでいたとしても仕方ないか。何せ犬猿の仲というくらいの相性の悪さ。
どちらかというと似た者同士だと思うんだけどね。
ああ、これは両人には内緒ね。
しかし、何で黒猫アップリケなんだろう。
飼っている黒猫でもいるのか。いや、確か犬を飼っているとは聞いたことが…。
…もしや、以前の黒猫騒動に関係があるんじゃ…。
まさかね。
そもそも犬猿の仲である大蛇森先生に、下着が見えるようにジャストミートする琴子ちゃんがすごいと思うよ。
何の因果か、という感じだ。

更に数時間後、今度は入江だ。
まあこれは想定内。
琴子ちゃんがあれだし、教授があれで、大蛇森先生があれではね。
それにしても、何で僕は入江にいいようにこき使われてるんだろうね。
確か後輩だよなあいつ。
しかも琴子ちゃんに普段冷たくしているくせに、陰でいちゃこらと…。
そして、同じように苦労しているのが桔梗君だよな。
琴子ちゃんの同僚にして入江ファンクラブの会長だっけ。
何であんなやつがいいんだろうねぇ。
結局琴子ちゃんを選んだってことは、案外普通のやつかと思いきや、その執着ぶりは度を越している。
それを世間一般は良く知らない。知っているのは尻拭いをさせられる同僚と家族位のものだろう。
琴子ちゃんを選んだというよりも、琴子ちゃんしかダメなんだよ、やつは。絶対あれは琴子ちゃんでしか勃たないね。
あーやだやだ、きっと家ではあれこれ甘えてるんだよ。
おバカですぐ忘れちゃうからいつでも新鮮琴子ちゃん、という感じでさ。
琴子ちゃんも入江バカだからなー。
一生やってろという感じだね。

「西垣先生、入江先生は今日も最恐な笑顔で楽しそうでしたね…」
ロビーで偶然一緒になった桔梗君が疲れ果てたような顔で言った。
「お、遅いね、今まで残業してたの?」
「ええ。もう、あの後の琴子が、もう最悪で」
「えーと、大蛇森先生の…」
「それはおまけですよ」
おまけなの?それがメインじゃなくて?
「入江先生のあの笑顔で動転したせいか、その後の仕事も失敗しまくり。結局あたしが全部フォローして…」
琴子ちゃん…、それって看護師としてどうなの。
「それはお疲れだったね」
「西垣先生だけですよ、わかってくれるのは」
いやぁ、わかりたくないけどね。
「西垣先生って優しいんですけどねぇ」
「けどねぇ…って、どこにつながるの」
「でも冷たくてひどい入江先生って…ステキ」
ああ、そうかいっ。
その冷たいやつは、仕事が終わってから速攻で帰っていったけどね。
そりゃもう家でお楽しみが待っているとなったら、楽しいだろうよ。
僕は結局ぷんぷんと怒りながら帰宅したのだった。

その背中で桔梗君が
「でもそういう西垣先生も入江先生のこと、結構好きですよねぇ」
とつぶやいたとか。
そんなの、僕は知らない。

(2014/11/25)



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目は口程に物を言う




風邪をひいたのは、あの教授のせいだ。
オペ後の更衣室で着替え途中のぼくを捕まえて、あれこれ根掘り葉掘り聞くものだから、すっかり体を冷やしてしまったのだ。
身体を冷やすというのはやはりよくない。
おかげですっかり風邪をひいたぼくは、オペ後の病棟で倒れてしまったのだ。
気付けば病棟のベッドに寝かされ、点滴までされていた。
倒れていく意識の中で、あのちんちくりんを抱き上げた入江先生を見たのは幻だったろうか。
まさかあのちんちくりんをわざわざ抱き上げるなんて。
でももしもそれが本当のことだったとしても、きっとあの図々しいちんちくりんのことだから「足を挫いちゃったわ」「仕方がないなぁ」などと優しい入江先生の心を利用するようなことをしたに違いない。それで、いざ治療しようとすると「さっきのあれは嘘だったの」とかなんとか女の媚びを使って入江先生を呆れさせたに違いない。
それでも入江先生は、あのちんちくりんを見捨てずにいるのだ。
なんという深い愛。たとえ仮面夫婦でも優しく手を伸べるそのボランティア精神。
僕は感動で前が見えないよ。
え?目をつぶっていたら見えるわけないって?

ぼくは今、研究室の奥、デスクの後ろに大事な直樹釈迦如来像(勝手に密かに命名)を安置している。
最近は何やらこの仏像を見ようと人が研究室に押し掛ける。
もちろんぼくはむやみやたらに人に見せたりはしない。そんなことをしたら御利益どころか仏像が汚されそうな気がするからね。
こっそり見ようとする輩を排除するために、今じゃ研究室にいる院生が出張るくらいだ。
そんな日々を過ごしているぼくは、ようやく風邪から回復して仕事に励むことにしたのだが…。

外科病棟にいる患者のところへ向かった時だった。
廊下はいつも物を置かないという原則だったはずだが、その日はナースステーション前の廊下に車椅子が放置してあった。
これから使うのか使い終わったのか知らないが、ここに置くというのはいかがなものだろうか。
その時、ちょうど戻ってきたらしい清水主任がそれを見咎めた。

「誰ですか、この車椅子をこんなところに放置したのは!」

さすが清水主任だ。
外科病棟で唯一まともで有能だと思えるナースだ。

「ごめんなさい、あたしです!」

聞こえてきた声は、何とやはりちんちくりんだった!
車椅子一つ片付けられないとは。
きっと家の中もぐちゃぐちゃにしてしまうのだろう。
それを苦々しく思いながら家に帰る日々。
いつしか家に帰るのを拒む入江先生。(作者注:妄想です)
ああ、ぼくの部屋に来れば至上のリラックスタイムを味わってもらうのに。

「ちゃんと元の位置に戻しておいてください。廊下に放置しないように!」
「はいっ」

料理教室に行ったぼくの料理の腕前を披露し、一緒に舌を唸らせよう。
そして、究極のリラックスタイム、バスでの癒しのひと時を経て、ぼくの選んだワインを一緒に飲むのはどうだろう。
そして、有意義な医学談義を繰り広げ…。

急にズボンが軽くなった。
ブチっという音と共にものすごい勢いで下げられたのだ。
足元はスース―として、顔に血が上った。

「きゃーーーー」

思わず叫んだ。
叫ばずにいられようか。
何と言うことだ!
ぼくのズボンをしっかりと握っているのは、足元に無様に転がったちんちくりんだったのだ。
「全く、風呂場をのぞいただけでなく、ズボンまで脱がせるとは!とんだ痴女だな」
「何で黒猫…」
「こんな変態を入江先生はよくもまあ我慢できるものだ」
ちんちくりんは風呂場まで侵入して、このぼくの白い素肌をのぞいた痴女だ。
こんな変態だから、あの入江先生をつかんで離そうとしないんだな。
「ちょっと!何で大蛇森先生が黒猫パンツなんてはいてるんですかっ」
ぼくの黒猫をいったい何だと思っているんだ。
「これはぼくの手製アップリケだ!」
そうだ、ぼくが入江先生のために心を込めてアップリケを施した黒猫マークだ。
黒猫をお好みだという入江先生のために一針一針愛情を込めて縫い付けた代物だ。
ああ、そうか、ぼくがこんな黒猫アップリケを縫ったと知ったちんちくりんは、妬んでいるんだな。
全く馬鹿に加えて妬みまで。
「何でよりによって黒猫なんですか」
「そんなのは君の知ったことではない」
そこまでちんちくりんに説明する義務はない。
ましてや入江先生の好みだなんて、もったいなくて教えたくもない。
「しかも何で仏像なんて買うんですか」
「それも君には関係ない」
仏像も入江先生に合わせるために買ったものだが、今ではぼくの癒しの元なんだから、ちんちくりんに文句を言われる筋合いはない。
「関係あるから言ってるんじゃないですか」
自分には買えないから、それも妬みか。

「言い合ってる場合ですか!」

先ほどの清水主任が再び怒鳴った。
…相変わらず優秀な人だがなかなかに短気で困る。
「大蛇森先生もいつまでも下着をご披露していないで履いてください」
はっとして下を見た。まだズボンを履いていなかった。それと言うのもちんちくりんがしっかりとズボンをつかんでいたからだ。
いつまで握ってるんだ、放せっ。
「入江さんは車椅子をさっさと移動させて。ちゃんとストッパーを外さないと動きませんからね」
ようやく手を放したちんちくりんからズボンを引き上げ、取れてしまったボタンを拾い上げる。白衣で前を隠して、仕方なく研究室へ戻ることを選択した。

「はいはい、見世物じゃありませんからね!」

野次馬とかしていた患者たちは散っていき、ぼくは病棟を後にすることにした。
その時、不意に視線を感じて振り向くと、入江先生が熱い瞳でこちらを見ていた。
ああ、ぼくの白い足と黒猫アップリケを見られたのだろうか。
いや、黒猫アップリケは見せるつもりだったからいいのだけどね、それをちんちくりんに見られたのは失敗だった。
入江先生の情熱的な視線はぼくの心も焼けそうだ。
ズボンが脱げて少し肌寒さに震えたぼくだったけど、これなら風邪もどこかへ飛んでいきそうな気がするよ。
『大蛇森先生の黒猫アップリケ、目に焼き付けました』
「何を言うんだい。焼き付けなくても間近で何度でも見せてあげるのに」
『そんなもったいないことを…』
「これは君のために心を込めて縫ったのだから、当たり前だよ」
『僕もお揃いを作ろかと…』
「そんな気遣いは無用だよ。ぼくのをとくと眺めるがいいよ」
『先生…』(作者注:もちろん妄想です)
入江先生の心、しかと受け取ったよ。
ぼくは入江先生へ熱い視線を送り返すのだった。

(2014/11/29)



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物は試し




物は試しと言うけど、いくらなんでも結婚するのに試しはないだろうとあたしでもわかる。
付き合うくらいなら試しもありかと思う。
それゆえに、以前からしつこく誘いをかけてくる男には、一度くらいなら食事に付き合ったりもする。
そして、それが少々失敗だった、なんて思うこともたまにはある。

「あ〜、ホント失敗したわ〜」
そんなふうに嘆いたあたしにモトちゃんが突っ込む。
「いったい誰のこと?」
「んー、船津さん」
「何で?今更じゃない」
「だからよ」
先日、青山のレストランに食事に行った。
食事位なら今までだって何度か行ったこともある。
それこそ琴子のために犠牲になったりもしたわね。
船津さんは嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、ものすごく好きかと言えば微妙。
悪い人ではない。でも時々ついていけない。
入江さんほどかっこよくはないけど、眼鏡を取ればそれなり。これは意外だったわ。
頭も悪くはないけど、いつも二番。まあ、入江さんがいる限り無理よね。
だいたいあたしの気持ちも微妙。
もっと他にいい人がいたら、申し訳ないけどそちらに行ってしまうくらいの微妙さ。
船津さんが他に人を選んだなら、ちょっと惜しいことしたと思っても、多分祝福できるかも。
「だからって、物は試しに結婚できないでしょ」
「えーーーーー!真理奈、あんたプロポーズされたの?」
「ええ。もう都合三度目かしらね」
「…三度もプロポーズされて断るなんて、贅沢よ」
「そうは言ってもね、モトちゃんだって、好かれましたからはい結婚って、踏み切れるの?」
「…うーん、まあ、そうよねぇ」
「ほうらごらんなさい」
あたしはナースステーションの片隅で唸り続ける。
そうよ、そうなのよ。
あたしは、打算で医者と結婚したかったはずなの。
そこそこ収入があって、そこそこ腕があって、家が資産家ならなお良し。
いざというときのためにこれでも実は家庭料理を含めてそこそこ家事も鍛えてある。
もちろんお手伝いさんがいるならもっと良しだけど、家事ができないから振られましたなんてもったいないことしたくなかったし。
それはひた隠しにしていて、表向きはビッチと罵られようとそんなのどうでもよかったの。
だって、いい男なら迷わずゲットしたいし?
それなのに、性格も合わなさそうな船津さんに押せ押せとされ続けてすでに四年余り。
琴子は入江さんに押せ押せで六年と言っていたから、船津さんはまだまだ頑張る気でいる。
ああ、もう、あたしにどうしろって?
打算だけで行くなら船津さんでもいいわけでしょ。でもあたしの本能がそれはやばいと言っている。
だから、三度目のプロポーズを断った。
船津さんも船津さんよね。
一度目は普通のプロポーズ。断ったら、次はサプライズで行きますと宣言した。それのどこがサプライズなの?というか、それ必要なの?
二度目は宣言通り、サプライズという名のいきなりプロポーズだった。いや、もうそれサプライズじゃないし。それも断ったら、次はロマンチックに行きますときた。それ普通じゃないの?
三度目は、青山のレストランで食事をした後、夜景の見える公園でのプロポーズだった。悪くはないわよ。悪くはないけど、寒いのよ。船津さんだって唇紫だったし。恋人同士ならそれもありでしょうけど、あたしたちって、恋人未満じゃなくて?
何だかなーと、あたしはこれ以上船津さんに付き合って食事をするのはやめにしようかと思っている。
この分だと、四度目もありそう。
なので、ここははっきり断っておかねばと、あたしははっきりきっぱり船津さんと結婚する気はない、と言った。
そのうち気が変わることもあるかもしれないけど、少なくとも今はない。
期待を持たせて待たせるよりはいいかとそう言ったのに。

「絶対振り向かせてみせますから任せてください!」

いや、もう、これ以上どう言えばいいの。
ストーカーよね、ある意味これはストーカーよね。
でも、悔しいことに、ストーカー認定するにはかわいそうだと思ってしまうのよ、これが。
そして、あたしは今、次の四度目が来る前に、せめてもう少し対策を考えておかねばと思っている。
食事にもショッピングにも付き合わなければそれでいい。
でもあたし、船津さんを突き放せなかったのよね。
ああ、あたしってバカ。
何で最初の食事に付き合っちゃったのかしら。
それでもって、何でデートまでしちゃったのかしら。
そんなに楽しくなかったのに、何でまた誘われて行っちゃったのかしら。
頼りなくて、いつも二番で、ちょっと変わってて…。

「あ〜あ、失敗、したなぁ」

情が勝つのか理性が勝つのか。
真面目に付き合ってみるのも物は試し、かしらねぇ?

(2014/11/30)



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