泣く子も黙る
久しぶりに琴子と会うことになった。
外でランチにしたかったけど、あいにく夕希を預けることができなくて、ランチを取りやめにしようと電話をしたら、夕希を連れて入江家にいらっしゃいとなった。
あちこち歩き始めて目が離せないんだけどと断ったのだけど、琴子と入江くんの子ども部屋用に確保してる部屋もあるから遠慮せずと琴子からじゃなくてお義母様からの誘いもあり、それじゃあ遠慮なくと出かけていったのだった。
入江家はあたしごときが遠慮も不要なほど広い。
そりゃ有名なおもちゃメーカーの社長宅だからそういうものかもしれないけど、琴子が同居してからなお一層建て増ししたのだ。
しかも入江家のお義母様は琴子を娘のように思っていて、早く孫が欲しくて、生まれてもいない孫のための部屋もすでに用意してあるというから、うらやましいを通り越して少々プレッシャーかしらね。
結局豪華そうなリビングに数ある高そうなものに恐れをなしたあたしは、決して壊すものもない何もない子ども部屋(となる予定)の部屋でのびのびと夕希を遊ばせながら話をすることにした。
もちろん今日の日のためにラグを敷いてくれて、ゆったりとあたしたちもおしゃべりができる。
時々は入江家のお義母さんが話を聞きに来たり、おやつの差し入れをいただいたり、至れり尽くせり。
これだけフレンドリーな姑なら、あたしだって何回結婚してもいいと思えるくらい。
確かに今じゃ良のお義母様ともうまくやってるわよ。あれこれ喧嘩をしながらだけどね。
じんこはじんこでナラサキくんの母親はあまり干渉しないいい姑っぽい(まだ結婚していないけど)と言ってるけど、実際結婚してみないとこれはわからないわよね。
そのじんこは都合がつかなくて、結局お邪魔したのはあたしだけ。日を変えればよかったかと思ったのだけど、琴子の勤務の都合もあるから、あたしだけお邪魔させていただいたのだ。
「琴子は看護師になったばかりだし、いきなり妊娠は無理よねぇ」
「まあね。理美も二人目を〜とか言われない?」
「言われる、言われる。やっぱり最初が女の子でしょ。ぜひ男の子をってうるさいわよ」
「うちは逆で女の子をって言われるからな〜」
「でもあのお義母様なら、どちらでもかわいがってくれるでしょ」
「うん、そう思う」
そう言って子ども用のおもちゃ(まだ生まれてもいないのにどうしてあるんだろう)でご機嫌に遊んでいる夕希を二人で見る。
日当たりも良好、風通しもよさそう。空調もばっちりなこの部屋は、将来の琴子たちの子どものための部屋だ。
「でも本当に看護師になって、ちゃんと働いてるなんてねぇ」
あたしはしみじみする。
そりゃ看護学部に受かった時も驚いたけど、琴子曰く入江くんの愛の力で受かったらしいから、国家試験に受かるのも愛の力で強引に合格を引き寄せたのだろう。
入江くんのためならどこまでも努力する琴子を、あたしは心底すごいと思う。
あれだけ罵られて冷たくされてしまうと、普通は諦めるものね。
落第した時だって家出して大変だったし。
あの完璧超人の入江くんは、だからこそ努力しても半分もできればいい方の琴子が気になってはまってしまったのよね、きっと。
あたしの友人たちの中でも一番強烈だもの。一緒にいると迷惑なときも、呆れるときも多々ある。
でも、一番素直で純粋で、かわいらしいのも確か。
「ところで最近入江くん見ていないけど、やっぱり仕事忙しいの?」
「うーん、手術の件数も結構多いしね」
「えー、そんなに手術するの?研修医で?」
「あ、違う違う、えっとね、執刀医の先生が入江くんを助手にって指名するんだよ」
「…さすが天才ね」
「でしょう、もう入江くんって本当にすごいんだから」
「へー、で、琴子は?」
「それなりに頑張ってるよ」
それなりにね。きっとたくさん怒られながら頑張ってるんだろうな。
「あのね、この間、入江くんが手術の後に手術室ナースと逢引きしてるって噂が…」
「逢引き?入江くんが?」
「えっと、でも、噂だけっていうか、なんだか秘密の部屋が関係してるみたいで」
「…秘密の部屋…」
なんか推理物かファンタジーものみたいな話ね。(作者注:理美は某ファンタジー原作を知りません)
「斗南の噂ってろくなものがないわよね」
「みんな暇だよねー」
その噂の半分くらいは琴子が貢献してる気がするけど。
「その秘密の部屋って、本当にあるの?」
「あるかどうか探しに行ったら、教授の愛人が出てきた」
「何それ」
琴子が怪しげな扉を思い切って開けたら、院長が慌てて駆け付けたんだって。
後で他の先生にあの場所は教授の私設秘書の部屋だから開けちゃだめだって教えられたって。
そこでちゃんと愛人って変換できたなら、昔よりは琴子も大人になったってことよね。
だから余計に入江くんの愛人探しなんかしちゃうのかしら。どう聞いても入江くんに愛人なんかいなさそうだけど。
あ、でも病院の先生ってばかなりの確率で不倫してるっていう噂もあるわね。
「ねえ、どう思う〜?」
「どう思うって、入江くんが浮気なんて考えられないなぁ」
だいたい琴子を嫁にしただけですごいと思ったけど、その後の無自覚ラブラブっぷりを聞くと、ねぇ?
「でも、手術後に確かに消えるのよ」
「どこかの部屋に行くためでしょ」
「だから、それが秘密の部屋でしょ」
「ああ、そうつながるのね」
そもそも手術後って、そんなに余裕あるのかしら。何もわざわざ手術後に浮気相手と逢引きなんて、時間もないし面倒じゃない。それにあの入江くんならもっとうまくやるでしょ。
でもそれは口に出す暇もなく、本人の出現によって遮られた。
「あ、入江くんだ〜」
耳聡い琴子の言葉で、入江くんが帰ってきたことを知った。
そうなると妙にドギマギしてしまう。
随分とお早いお帰りで、と思ったけど、本当は休みのところを患者への対応でちょっと病院に出かけていただけだと琴子が言った。
お医者さんは大変よね〜。
ちょっとごめんね、とぱたぱた走って行ってしまった。
ドアを開けっ放しにしていくものだから、階下の会話がよく聞こえる。
理美が来てるんだよー、ふーんという素っ気ない返事も。
開いたドアに嬉々として駆け付けるわが娘。
あ、いけない。
慌ててドアと夕希に駆け寄ると、逃げる夕希。勢い余ってドアにぶつかった。
それほどひどくぶつかったわけではないけど、おでこはごんと言ったわね。
途端に大泣きしながら、それでもドアの向こうへと行こうとする。
「ちょ、ちょっと…」
廊下に出たところでちょうど琴子と入江くんが二階に上がってきた。
「捕まえて〜」
あたしの要請に素早く応えてくれたのは、意外にも入江くんだった。
涙と鼻水でぐずぐず、おでこはぶつけてちょっと赤くなっている夕希は、抱き上げてくれた人を見て、急に泣き止んだ。あれほど大泣きだったくせに。
よく見れば、まだまだ赤ちゃんのくせに、ぽ〜っと見とれている。
う、そういえば裕樹君もお気に入りだったっけ。
わが娘ながらイケメン好きだわ。
「ありがとう」
そう言って夕希を受け取ろうとすると、夕希はしっかりと入江くんにしがみついている。
「今何歳だっけ」
「もうすぐ二歳よ」
さすがに迷惑だろうと、しっかりとしがみついている夕希をはがすようにして入江くんから引き取った。
改めて見ると、確かにイケメンよねぇ。昔よりもむしろ今の方がいいかもしれない。
「入江くんは子どもにも人気あるのよ〜」
琴子がそう自慢した。相変わらず入江くんを自分のことのように自慢している。
うん、でもこれは小児科に行ったならば親子ともども見とれちゃうかもね。
「ごゆっくり」
「え、う、うん」
あたしはびっくりして声も出なかった。
あの入江くんがあたしの娘の年を聞いたり、ごゆっくりなんて言うなんて。
昔押しかけた時にはうるさくするな、早く帰れっていう態度だったわよ。まあ、あれは宿題の答え聞いたり、ヤマかけを頼んだりと入江くんにとって煩わしかっただろうけど。
「いやー、びっくりだわ」
寝室へと消えていく背中を見ながらあたしは言った。
「何が?」
「人間らしくなった」
あたしの言葉に琴子は首を傾げるのみ。
やっぱり琴子の影響よね。
結婚してからも結構変わらないその態度に何度冷たい男!と怒ったことか。
それでも、確実に変わった部分もあったのだ。
人を寄せ付けなかった仮面をはぎ取られ、人と関わる医者という職業を選び、迷惑だと言い放った女と結婚した。
変わらなきゃ嘘よね。
あたしの腕の中でイケメンを求めてもがく娘を抱き直しながら、昔を思い出して笑うのだった。
(2014/10/29)
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あとがき→ブログ
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憎まれっ子世に憚る
□ 何だか散々な目にあったその日、全く無表情で淡々と仕事をこなしている奴を見ると、邪魔をしたくならないか?
□ しかもそいつがこちらを、ああ、また何かやらかしたんですね、みたいな視線を向けるのを見ると、大声で叫びたくならないか?
□ 捜すといないのに、いなくていい時はいつも現れる奴を見ると、文句の一つも言いたくならないか?
□ しかもそいつが気配を感じさせないで背後から近づいた時なんて、命の危険を感じたりしないか?
□ したくもない約束をさせられた時に、ちょっとだけ人に八つ当たりしたいなんて思ったことはないか?
□ 自分より立場の弱いものをいたぶる趣味はないけど、嫌味なくらいに何でも完璧にこなされると、もっと用事を言いつけてしまおうとか思ったりしないか?
□ しかもそいつがその用事をまたまた完璧にこなしてしまうのを知った時、絶望した気分にならないか?
おおっと、僕のチェックを見たいのかい?それはちょっと内緒だよ。
この質問のチェック具合を分かち合えるのは、おそらく船津君だけだろう。
いや、別にだからと言って特定の誰かを思い浮かべたりなんて、してない、してない。
それに、僕はそこまで卑屈になっていないと思うけどな。
もっと言えば、用事を言いつけて完璧にこなしてくれるなら、絶望するなんておかしいだろ。用事を片付けてくれてラッキーだと思わなきゃ。
そんな卑屈にならなくてもさ、もっと楽しくいかなきゃ。
僕は雑誌を放り投げ、医局の汚いソファから立ち上がった。このソファも年季が入っているんだが、誰も汚いと言いつつ新しくする気は全くなさそうだ。いつか、もしかしたら明日にでも異動が決まるかもしれない医局に何で自腹で揃えなきゃいけないんだというわけだ。
当然医局に使えるお金ではソファなんて買えない。
あと十年後もこのソファは存在し続けるんじゃないかと思ってしまう。
今日も今日とて僕は一通りの業務を終えて、あとは急変でもない限り合コンに向かう予定だった。
荷物を持って医局を出ようとした僕の目の前に、悠然とした態度で奴が現れた。
僕の姿と持っている荷物を見ただけで、興味なさそうに目をそらせた。
「お疲れ様でした」
無表情の顔からは何も読み取れないが、一応労いの言葉をかけるあたりはまだましかもしれない。
ひどいときはすれ違いざまに脛を蹴られることだってあるのだ。
それでも意気揚々と合コンに出かけた僕は、途中でやはりというか当然のように呼び出しを受けたのだった。
ナースステーションにいた夜勤ナースに恨みつらみで愚痴っておく。
「何でこれで僕を呼び出す羽目に?」
「当直の先生が忙しいからです」
「入江は何してるって?」
「連絡はつきましたが、現在救急で手が離せないとのことで」
「あ〜、今日は第三外科の当番だっけ」
「そうですよぉ。当直の尾崎先生なんて手術室で、救急の外科担当は入江先生一人でやってるんですって」
「フーン、ま、あいつなら大丈夫だろ」
「ですから、病棟は西垣先生に全部任せるようにって」
「はあ?何で他の研修医じゃなくて僕なんだよ」
「さあ、私たちは知りませ〜ん」
「ちぇ、皆冷たいな〜」
呼び出された患者の件に関しては大事に至らず、僕はそのまま帰ることにした。どうせ合コンも二次会だから三次会だかに流れていっちゃっただろうし。
「じゃあ、帰るよ」
そう言って帰ろうとした僕の前にふらりと現れたのは、僕に仕事を押し付けた当の入江だった。
「おまえなぁ、先輩を呼び出すとはどういうつもりだ」
「患者の病状から見て、西垣先生が一番適任だと思ったからです」
それは褒めてんのか、何なのか。
「確かにこの僕が診たから、あの患者は大事に至らなかったかもしれないが、まずは主治医じゃないのか」
「主治医の片瀬先生は、一旦家に帰るとなかなか来ませんよ」
いや、それもどうかと思うんだがな。
まあ僕よりもずっと年上でいらっしゃるし、しかも実力も僕の方が上だし。
そして、おそらく回り回って結局僕が呼び出された気もするな、うん。
でももっと言えば何で当直の入江が責任を持たないんだという追及もしたいところなんだけど。
「どうせ今日は合コンでしたよね。それも人数合わせ的な」
何で知ってるんだ。
そりゃ確かに今日はちょっと僕よりも若いメンバーで、ちょっと話を合わせるのに苦労したというか…いや、そんなことはどうでもいいんだよ。
「おまえも来たことだし、もう帰るよ」
「いえ、また救急から呼び出されましたが、そろそろオペ室から尾崎先生が戻ってくるはずですが、おそらく今度は西垣先生も駆り出されるオペになる気がします」
何だよ、その怖い予言は。
だから帰るなってか?
帰るぞ、僕は帰るぞ。
何が何でも帰るぞ!
そう言って急いで病棟を走り出て、今からタクシーにでも乗ろうかと思ったその時、無情にも僕の携帯が鳴り出した。
その携帯の向こうで奴が、ほうら見ろと偉そうにこちらを見ている気がした。
ちっくしょう、あいつはなんであんなに偉そうなんだ。
しかも嫌なことに奴の予想はあまり外れたことがない。
忙しくなると言った時には、滅茶苦茶忙しくなることが多い。
いいんだよ、そんな予言は。
もっと楽しい予言をくれよ。
それなのに(だからこそ)奴は教授の覚えもめでたかったりするのだ。
僕はその足で結局再び病院内への道を戻り始めた。
ちなみにちゃんと電話に出たのに「先生今さっきまでいたのに出るのが遅い!」とナースに怒られたのだった。
(2014/11/01)
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あとがき→ブログ
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ぬか喜びのベイビーブルース
うちの嫁はかわいい。
夫である自分の息子は、正直かわいい時期を三歳で終わり、下の裕樹が生まれるまでは何だかつまらなかった。
自慢の息子ではあるけれど、私はもっと可愛がりたかったの。
あれこれ口出しすればため息を吐かれ、挙句の果てにはだんまりで。
嫁である琴子ちゃんが来てからの日々はもう天国ね。
そうよ、私は忘れていたのだわ、と。
娘がだめなら、嫁に来てもらえば私の娘も同然。血のつながりなんて目じゃないわ。
しかも姑である私のおせっかいを快く受け止めてくれる娘じゃないと。
それなのに、息子は何をどう間違ったのか、もてるくせして女の子には興味ないのか、高校生になっても彼女の一人も連れてこなかった。
こういう母親だから、外でこっそり会っているのかと思えば、部活以外はほとんど真っ直ぐ帰ってくる趣味なし友だちなしのような毎日。
もしかしていじめられ…るわけないわよね。あの鋼鉄の性格じゃ。
そうこうしているうちに、うちでお世話することになったパパの親友とその娘。
もうその琴子ちゃんがかわいくて、かわいくて!
母親が早くに亡くなっているのに、そんなこと感じさせない明るい性格と父親想いの優しい子。
もう一目で気に入ってしまったの。
それにね、後で判明したのだけれど、何とうちのあの鉄仮面息子をずっと好きだったのだと。
他にもきっと息子を好きと言う娘なんてたくさんいたのでしょうが、琴子ちゃんの場合は何だかちょっと違う気がしたのよね。
それに、何だかんだと面倒を見ている息子を見ていると、これはなかなかいいんじゃないかということに気が付いた。
そもそも息子のあの天邪鬼な性格は、一色家の血よね。
そして一色家の血を良くも悪くも受け継いでいるあたしが琴子ちゃんを気に入ったのだから、息子が気に入らないわけないのよ。
そりゃ罵詈雑言、あれこれとうるさいけれど、そのうち、きっと、ってね。
途中、あの息子が会社のために好きでもない娘と結婚しようとしたときはどうしようかと思ったけれど、結局は直前にちゃんと気付いて琴子ちゃんを引き留めたってわけ。
ああ、これぞ我が息子。よくやったわ。
そして、琴子ちゃんは正真正銘私の娘になったのよ。
次は孫よね。琴子ちゃんみたいな孫がいいわ。
琴子ちゃんだから孫だって楽しみに待てるの。
そう思っていろいろ画策してみたけれど、大学生だった二人はそこまでまだ考えてもいなくて。まあ当然かもしれないわね。ただね、できても全然私は構わないのよって言う意思表示だけはしておいたの。
いつまでも初々しい恋人同士のような二人…と言うにはちょっと語弊があるかもしれないけれど、少なくとも琴子ちゃんはいつまでもかわいらしくて、こんな娘のような赤ちゃんがぜひ見たいわって望んでるの。
一度は本当に妊娠したかと思ってうれしくて仕方がなかったのに、それが勘違いだったときは、そりゃもう鬼のように息子が怒ったわね。
そりゃ優秀であるらしい息子ならば、琴子ちゃんの体調くらいしっかり把握しているのかもしれないけれど。
そして、今後二度と妊娠で騒ぐなとクギを刺されてしまった。
私もこれでも反省したのよ。少し大騒ぎしすぎて、琴子ちゃんが今後赤ちゃんができないことで悩んだらどうしようって。
世間の姑の嫌われる行動の一つだってことくらい、私だって学んだわよ。
でも、でも、でも、それでも、かわいらしい琴子ちゃんが、かわいらしい赤ちゃんを抱く姿を見たいって思うのは、私の夢なのよ。
あれだけいたしているくせに、ちっとも子どもを作る気にならない息子も、ある意味琴子ちゃんバカってことよね。
勉強のこともそうかもしれないけれど、結局二人でもう少しいたいって気持ちがあるんでしょ。
医者にまでなった頭のいい息子のことだもの。きっちり管理してるんだわ、絶対。
もちろんいつまでも待つわよ。
ええ、そりゃもう、お仕事に入ったばかりじゃまだ無理だろうってことも承知よ。
それも含めて、私は待っていますからね。
そして時々、琴子ちゃんが食欲がないとか顔色が悪いとかいうときにも、確信が持てるまで何も言わずに待つことにしているの。
まさか私が毎月毎月一喜一憂しているなんて、息子は知っているのかしらね。はあ。
(2014/11/03)
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あとがき→ブログ
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念仏を唱えろ
ある日家に古美術商がやってきた。
噂が噂を呼び、何故か俺が大仏を買ったということになっていて、ぜひいい仏像が手に入ったからということだった。
いったいどこから聞いたんだか。
しかもいつの話だ。
そしてその噂を否定しようにも、今さらその噂を取り消す要素はどこにもなくて、噂だけがひっそりと歩き回っている感じだ。
更に残念なことには、家業が上場企業ということだろう。
少なくとも小さい仏像やら大仏なんか位は買ってしまえるかもしれないという期待感を無駄に抱かせる家に見られることだろう。
早々にお引き取り願ったが、それを聞きつけたおふくろは、「あらお兄ちゃんが大仏に興味があるなんて知らなかったわ」と嬉しそうに言った。
何故嬉しそうなんだ。
何か嫌な予感がしたが、とりあえず見なかったことにしたい。
もちろんこういう時には後で大変な目に合うこともわかっていたのだが、その時はどうにも当直明けの眠たい身体をベッドに預けてしまいたかったのだ。
当直明けと言えど、そのまま昼の勤務について、一通り仕事を済ませてからでないと帰れない。
さすがに手術場に入ることはないが、あまりほめられた勤務体制でもないだろう。
残念なことにその日の琴子は夜勤入りでいなかった。
まあその方が心安らかに眠れるかもしれないと、夕食も後回しにして寝室に入ったのだった。
疲れて布団をめくると、そこに大仏な琴子がいた。
いったい何が大仏なのか、そこは説明しがたいが、大仏なのに琴子だった。
…ダメだ、頭が回らない。
そのまま俺は大仏な琴子を抱くようにして眠りについたのだった。
大仏な琴子が俺に念仏を唱えろと迫る。
琴子自慢のロングヘアーが大仏ヘアーになっている。
大仏なのにじっとしていられないらしい。
あまりにうるさいので「そこで座禅でもしてろ」と怒鳴ったところで目覚めた。
ふと目が覚めると、どこからどこまでが夢だったのか。
何ともシュールな夢だった。いや、夢じゃなかったらむしろ困る。
…疲れていたんだなと解釈して横を見ると、いつの間にか帰ってきたらしいロングヘアーの琴子が眠っていた。大仏ヘアーじゃなかった。
しかし、何か違和感が。
何故か大仏柄のTシャツを着ていた。
何故こんなものを着ているんだ。
ふつふつと怒りが沸き上がり、そのまま琴子のTシャツを剥いだ。
「うう…ん」
脱がされた琴子は、それでも眠っている。
大仏Tシャツを床に放り投げ、「琴子」と呼びかけると「入江くん、念仏唱えてよ〜」と寝呆けて言う。
…おまえのせいか。
時計をふと見る。
時間はすでに夜中を過ぎ、朝方に近い。
それでもTシャツを剥いで上半身裸になった琴子をそのままにはしておけない。
「念仏を唱えるのは、おまえだ。覚悟しろ」
「んん?入江くん…?」
琴子がようやく目覚めた時、そこには大仏のだの字もなかったが、それでも琴子は「念仏って難しいよ…」とかすれ声で答えた。
後日、なぜか再び大仏を買って念仏を唱えているらしいとの噂が立った。
いい加減にしろっ。
(2014/11/05)
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あとがき→ブログ
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ノルマ達成
先日は惜しかった。
営業マンの私は、店主から言い渡されたリストを手に、ある会社社長宅へと営業に行ったのだった。
取り扱う品物は主に古美術。
これはマニアにはたまらない品物だが、正直私の目ではいいもの悪いものの区別は難しい。まだまだ修行が足りないと言わざるを得ないだろう。
その会社社長宅の御子息が大仏マニアだという噂を聞きつけたのはただの偶然だった。後輩と会って飲んだ時に大仏を買った男の話を聞いたのが最初だったか。
もう何年か前になるが、と後輩は一応そう断っていたので、それでもいいと言ったのは私だ。何せこういう職業についてしまったのだから、多少のリスクとコネは背中合わせ。
そしてその噂が本当かどうかはともかく、その社長宅に営業に行ってみたのが先週のことだった。
最初に応対したご婦人は社長夫人ということになるのだろうか。
インターフォン越しに断られるかと思いきや、気さくに話を聞いてくれた。
一度その御子息にパンフレットだけでもご覧いただければと言ったところ、ちょうどその御子息が帰宅していたようだった。
直接お渡しできるならそれに越したことはないといそいそとパンフレットをお渡しすると、それをそのまま押し返された。これもよくあることだ。こんなことではめげていられない。
何せ玄関まで行くことができるのは、なかなか珍しいことなのだ。
恐ろしく無愛想だったが、これまた恐ろしく美形な御子息だった。
「興味ありませんでしたか」
そう聞いてみれば、「ありません」と返された。
それでもかつては大仏を買った男と言われたくらいだ。それに大仏ラブな故に大仏Tシャツを着ていたという噂も入手している。
以前買った大仏はどうしているのだろう。
そう思って「もしも大仏の管理修理にお困りなことがございましたら、ご用命くださいませ」と言えば、眉をひそめて「必要ない」と答えた。
もしかして今は大仏以外のものに興味が移ってしまったのだろうか。
それはそれで仕方がない。
何にせよ、これほどお若い方が大仏、仏像趣味というのは大変珍しいのだ。
いずれ年を取り、余裕が出てきたら、再び趣味にすることもあるだろう。
それまで私が営業マンをしてればの話だが、その時私を思い出してくださればいい。
それに社長宅ならいろんな知り合いがいるだろうし、そういうところから当店の評判も出てくるかもしれない。コネとはそういうものだ。
「それでは、お時間をいただきありがとうございました。何かありましたらこちらまでどうぞ」
そう言って名刺だけは受け取ってもらうことができた。
ドアを閉める寸前の御子息は目がうつろだった気がするが、きっと疲れていたのだろう。申し訳ないことをした。怒鳴られないだけでもよかったかもしれない。
そう思い、その家を辞去したのだった。
それから数日後のことだった。
思いがけないところからご用命をいただいた。
どうやら先日の社長宅の訪問も無駄ではなかったようだ。そちらの知り合いから聞いたのだが、と電話では言っていたからだ。
すぐに伺いますと返事をして出かけると、そこは斗南病院だった。その喫茶室に呼ばれたのだ。
目の前には白衣を着た医師が一人。うん、個性的なもみあげだ。
「大変なお仕事の最中に、ありがとうございます」
「いや、何、その、入江先生から聞いてね」
「ああ、あの社長御子息の入江様ですね。…先生ということは、こちらのお医者様でいらっしゃったんですね。それでは、御同僚の方でいらっしゃいましたか」
「ええ、入江先生はかわいい後輩で。加えて優秀で、素晴らしい容姿まで」
うっとりと思い出しているようだ。確かに稀に見る美男子ではあった。
「それでは、こちらがパンフレットになります。
値段はその時の時価によっても変わることがありますが、概ね表示されている値段を基準に販売させていただいております。店舗情報もそちらに記載してございますので、お手にとってご覧になりたいときは改めてご連絡いただければ、ご用意させていただきます」
そんなふうに説明したところで、目の前の医師ははっとしたようにパンフレットを凝視している。
「こ、これ、この仏像…」
何やら急に興奮してパンフレットの一部を指さした。
「はい、何か」
「これをぜひ手に入れたいのだが」
「これ、でございますか」
それは、アルカイックスマイルをした仏像だったが、あまりにも小奇麗な感じで、重厚さはない。値段も手ごろだが、由来ははっきりしない。
「この顔…この菩薩のような顔は、そっくりだ」
…菩薩じゃなくて多分釈迦如来だと思うが。
「この微笑み…素晴らしい!トレビア〜ン」
何故フランス語。そのもみあげのせいだろうか。
「それでは、早速店主に連絡を取って、商談に入りましょうか」
「ええ、ぜひ!」
パンフレットを握りしめて興奮していらっしゃる。
お客様の仕事の都合もありとりあえずそこで別れたが、あっさりと商談がまとまりそうでよかった。地道に営業を行ったおかげだろうか。
これでノルマも達成できる。
そして、訪問時は嫌そうにしながらも、結局は先輩医師に紹介していただいたあの社長宅には、またご挨拶に伺わないといけないなと思ったのだった。
(2014/11/07)
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あとがき→ブログ
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