イタkiss祭り2014and10周年記念



サドでもマゾでも




またもや院内が騒がしい。
俺の耳に入ってきたのは、大蛇森医師と琴子の仁義なき戦い騒動だ。
黒猫騒動からちっとも懲りていない。
あの大蛇森医師と張り合ってどうする。

「あたしの方が大蛇森より絶対愛があるんだから」

大蛇森医師の方がより愛があるなんて言われたら俺の方が困る。
「何が下心で、真心よ!あたしの真心はあいつの何十倍もあるわよ」
琴子は俺にも同じように愛情表現を求める。
琴子と同じ愛を示すのは無理だ。
そのストーカー的な愛を俺に求められても困る。
琴子の行動は確かにストーカー的と言えなくもない。
高校の頃は、それこそ毎日俺のことを見ていたらしい。
さすがに三年の時は気づいていたが、二年までは全く知らなかった。
大学の頃は行動までもエスカレートだ。
これは俺が琴子を認識したことによってやや堂々と追いかけることにしたせいでもあるだろう。
サークルに講義、デート先までも追いかけてきた。
今更追いかけられることにどうと言うことはない。もちろん琴子限定なのは確かだが。
そんな追いかけ慣れた琴子は、追いかけられるとは全く思っていない。
俺が琴子の行動を全く気にしていないかと言えば、そんなことはない。
あいつがちっとも気づいていないだけで、あいつが今何をしているのか、あいつがどうしていたのかを把握できるくらいの関心はある。
つまり、一方的に捧げられていたストーカー的な気持ちは、結婚した時からもっと違ったものになっているんだと、未だ気付かない方がどうかしている。
おまえの行動に振り回されることが、嫌だったのに嫌じゃなくなっていたりだとか、それが当たり前になってしまっている。
そんなマゾ的なものから、泣き顔を見せられれば、もっと泣かせてみたい気持ちだとか、もっと俺のためだけに振り回されればいいと思うサド的な気持ちすらある。

「その愛はどうやって示してくれんの?」

夜は少し肌寒くなってきたこの頃で、着て帰ってきた上着を脱いだところで琴子に渡す。
琴子は最近では当たり前のようにハンガーにかけているのに、「あたしって入江くんの奥さんなんだー」と何度も同じ感動を味わうことができる特異な思考の持ち主だ。
「えーとね、そりゃ入江くんのこと好きって伝えたり〜」
「耳にタコだな」
「だ、だからね、その、あ、あ、あ…」
何となくこの先が読めたが、あえてわからないふりでじっと見る。
「あ、愛してるって伝えたいな〜とか」
顔を真っ赤にしてようやくそれだけを告げた。
これはこれでいいのかもしれないが、もの足りない。
「残念だな。俺は下心もあるのに」
「え?し、下心?」
「そ」
「え、あの、あたし、真心もほしいなぁ」
「やるよ、真心」
「え、ほんと?」
「その前に、俺の下心も受け取れるんならね」
「う…」
言葉に詰まって俺を見つめながら、小さな声で言う。
「りょ、両方ください」
「…了解」
心置きなく琴子をベッドに押し倒す。
サドでもマゾでも俺にとっては琴子相手でなければ意味のない言葉の羅列でしかない。
下心も真心も、両方与えたいのは琴子だけ。
でもこれは琴子には言わない、とサド的感情で琴子に微笑みかけたのだった。

(2014/10/12)



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朱に交わって赤くなれ




毎日騒動が絶えない。
いつからここはこんなふうになってしまったのかしら、と思うこともある。
それでも、毎日は充実していて、疲れることは多いけれど概ね満足している。

「琴子〜〜〜、あんた私が苦労して立てた計画を全部消したわね!」

ナースステーションのパソコン前で誰かが嘆いている。

「ご、ごめん、だって、今すぐオーダーしないと間に合いそうになくて…」
「だったら、消さずにその画面だけ立ち上げてくれればいいじゃない」
「そのつもりだったん…だけど」

また、入江さん…。
「大きな声を出さないように」
そう注意すれば二人してすみませんと謝る。
入江さんも同期の山中さんも悪い子たちではない。
「山中さんは、席を離れるならちゃんと保存をしておくべきでしょう」
「はい」
「入江さんは、未だ操作に慣れていないようね。それに、この時間のオーダーはおかしいわよね」
「…はい」
「二人ともわかってもらえたならいいわ。次から気を付けてちょうだい」
二人は素直に再び自分の仕事に取り掛かり始めた。
私もこの書類を今日中に提出しないといけないし、ともう一度書類に向き直った。

「だーかーらー、それはあたしがお世話したおかげでしょ」
「そんなこと言ったって、あの後うんともすんとも言ってこないってどうよ」

ナースステーションに戻ってきた途端に仕事とは関係のない話をしだした桔梗さんと品川さんだ。
何とも賑やかしい。
「二人とも、患者さんはナースステーションでのあなた方も見ているんですよ」
「あ、はい、すみませーん」
「はーい」
それぞれちょっと砕けた感じだったが、それはそれで素直に大きな声での会話をやめた。もちろん入江さんと違って手は休んでいない。
まあ、彼女は不器用なところがあるから、一つ一つ確実に仕事を終わらせてくれればそれでいいけれど。
そんなことを思いながら再び書類に向き合う。
こうしてみると、あれだけドジな入江さんを何だかんだと言ってフォローするし、言いたいこともスパッと言って後腐れもない。
悪いと思えば素直に謝って、後には引きずらない。
以前の外科病棟とは違う雰囲気が生まれている。
少々騒がしいことも多いけれど、これはこれでいいのかもしれない。
書類に目を通した後で、まとめたものを看護部に持って行くことにした。
「看護部に行ってきます。くれぐれも騒ぎを起こさないように。特に入江さん」
「へ?は、はい。ひどーい、主任
聞こえてるわよ、入江さん。
文句には知らないふりをして、看護部へ向かった。帰ってくるころには新たな騒動が持ち上がっているかもしれないと思いながら。

看護部では細井総師長が待っていて、書類を手渡す。
「はい、いつもながら期限通り、ご苦労様でした」
そう言われて「いえ、何とか間に合ってよかったです」と返すと、細井総師長はふうとため息をついた。
「外科病棟の様子はどうですか」
「いつも通りです」
「入江さんも少しは成長しましたか」
何だかんだと学生だった頃の入江さんから見ているせいか、騒動の源である入江さんを総師長は気にかけている。
「そうですね…、技術は少しずつです。それも本当に少しずつ。でも後退することなくちゃんと日々成長している気がします」
そう言うと総師長はにっこりと笑った。
「患者さんの受けはいいですよ。いつも前向きで明るい彼女は、技術面で最初は皆嫌がりますが、最終的には彼女で良かったと退院していきますから」
「そうですか。それは良かったこと」
「それでも、毎日毎日何かしら起こしてくれますけどね」
「清水主任もそろそろ他の科に移りたくなったんじゃないですか」
そう言われて、少し考える。
確かに毎日注意することは山ほど。
眉間のしわは取れそうにない。
気苦労も多い。
「入江さんが来てからというもの、眉間のしわは取れないし、疲労感も半端ないです」
それでも。
「やりがいはありますわね。もう少し成長を見守ってみたい気もします。彼女が来てからの病棟の雰囲気は変わりましたし」
「それならもう少し、清水主任に外科病棟をお任せしようかしら」
「私で良ければ」
「ええ、助かります。何せ、噂を聞いている他科の師長や主任から、外科病棟だけは今は異動させないでほしいと懇願されていて」
…あら。
総師長は「ああ、良かった、これで心置きなく人事異動が組めるわ」と胸をなでおろしている。
ちょっといい話じゃなかったの、これ。
私は苦笑して「仕方がありませんわね。細井師長がどうしてもとおっしゃるなら」とおどけてみせると、総師長は「ぜひお願い」とほほほと笑ったのだった。
その時、廊下の向こうの方から扉越しに何か不穏な騒動らしきものが聞こえてきた。
私は「では、失礼」と断って素早く廊下に飛び出した。

走らないように、人にぶつからないように廊下を抜けると、専門棟へと続く廊下で騒いでいる人たちがいた。
思った通りその騒動の中心は入江さんで、先ほど、あれほど注意したところだったのに、どうして今ここに?と思いつつ「何やってるんですか!」と声を張り上げることになった。
しょんぼりしている入江さんと、そばでおろおろしていた西垣先生も二人まとめて「こんなところで騒ぐほど暇なんですか、あなた方は」と注意すると、二人ともしぶしぶ戻っていった。
いったい何をやっていたのやら。
何事かと顔を見せた教授陣にも頭を下げ、私は人生の選択を間違ったかしらとすでに後悔していた。
朱に交われば赤くなると言うけれど、この際一緒に赤くなってしまった方がどれだけ楽かもしれないと頭をかすめた。
でもそう考えたのは一瞬。
私はやはりこうして注意しているほうが性に合う。
むしろあちらではなくこちらに交わらせなければ!と今日も説教をするべく病棟へ戻るのだった。
あの愛すべき外科病棟へ。

(2014/10/14)



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スキ、キライ、スキ




繰り返し御意見箱に入れられた職員への苦情問題は、なんと身内によるものとわかり、安全委員会に報告を済ませた。
あの入江先生への苦情を入れていた御母堂は、入江先生の実母であるにもかかわらず、随分と入江先生に厳しい。一見すると嫁であるちんちくりんを褒めちぎっていたので、ちんちくりんの母かと思ったくらいだ。
しかし、あの御母堂がああやって厳しくしつけを行ったからこそ、入江先生はあれほど自分にも厳しくあられるのだ。
そして、嫁姑にもかかわらず、入江先生の嫁というだけであのちんちくりんを褒めねばならない姑としての苦労はいかばかりだろう。
入江先生が恥をかかぬよう、必死にちんちくりんを褒めることであの粗忽さをカバーできるものと信じていらっしゃるのだろう。
なんて素晴らしき姑愛。さすがは入江先生の御母堂でいらっしゃる。
今度労いに何か良いものをプレゼントするのもいいだろう。
入江先生から攻めればまたちんちくりんにも邪魔をされることだし、ここは身内から外堀を埋めるのもいいだろう。
「まあなんて素敵な上司なんでしょう。こんな上司に恵まれて、うちの直樹は幸せ者ですわ。ぜひうちに来てお食事でも一緒に。まあ、そんな今夜は泊って行ってください。ええ、直樹の部屋で申し訳ないんですが」(注:妄想)
などということにでもなるかもしれない。
ああ、その日がなんて楽しみなんだ。


研究室であれこれ論文をまとめていると、突然研究室の扉が開かれた。

「いない!」

またバタンと閉められ、ぼくの背後には風だけが残った。
いったい誰の仕業だ。
また机に向き直り、再度論文を読み込んでいると、
「違う!」
「琴子ちゃん、ここはさっき見たよ」
「いない!」
「鍵かけてたらわからないから、見ても無駄じゃないかな…」
などと不快な会話が聞こえてきた。
まさかと振り向けば「ここも違う!」とあのちんちくりんの姿があった。
今度は閉めもせずに「どこに行ったの入江くん…どこにもいない」と声がする。
おいおいおい、開けたら閉めると習わなかったのかね。
腹立たしい思いで立ち上がり、廊下をのぞいた。
「いったいこれはどういうことだね」
ぼくの問いに誰も答えることなく、ちんちくりんが泣きわめいた。
「うわ―――――――――ん、入江くんのバカ―――――!」
そう叫んでから、のぞかせたぼくの顔すれすれにちんちくりんは走り去り、ぼくはのけぞってちんちくりんを避けなければならなかった。
入江先生をバカ呼ばわりするなど、何たることだ。身の程を知れ。
後に残された西垣先生は、吹っ飛ばされた眼鏡を捜している。
ちょうどぼくの足元にすっ飛んできたのを拾い、手渡した。
その際に西垣先生の指に触れたが、その繊細な指は入江先生に勝るとも劣らないなかなかのものだった。やはり外科医の指はいい。
ただ、西垣先生は残念ながら好みではない。
「あ、りがとう、ゴザイマス」
少しぎこちないお礼もそそられたが、後退りながら戻ったその数秒後に別の女性に声をかけるなど、やはり彼とは付き合えない違う感性を感じるのだ。
やはり入江先生一筋のぼくには浮気できそうもない。
そんなことを思っていたのが通じたのか、ぼくが無駄な時間だったと研究室の中に戻ろうとしたその時、麗しの姿が現れたのだ。
なんということだろう。やはり日頃の行いに報いてくれる神というのはいるのだ。
入江先生のその姿は、いつもより少々乱れた髪が色気を醸し出し、ぼくは危うくそのまま引き寄せられてしまいそうだった。
なんて美しい。
ああ、もうこの姿を目に焼き付けて、このまま論文を一気に仕上げてしまうことにしよう。
…と、その前に。
「入江先生」
ぼくが声をかけたその先で、「入江、おまえ、こんなところで何やってるんだ!」という声に遮られた。
ぼくの声にも気づかず、入江先生はすっと向こうの廊下を通って、こちらを振り向くことなく行ってしまった。
専門棟と中央棟を区切る出入口の扉がひゅーんと閉まった。
残念に思いながらも戻ろうとしたその時、入江先生がいた廊下に一片の花びらがあった。
もう少し先によれよれになった濃い赤紫のコスモスが落ちていた。
これはもしや入江先生が…?
ぼくへの密かなるメッセージだろうか。
コスモスの花言葉を早速調べなければ。
ぼくは急ぎ研究室に戻り、ネットで花言葉を調べる。
ふむ、コスモスは乙女の真心や純潔。そして、濃い赤系に至っては、愛情、と。
ああ、入江先生、あなたの愛情をこの大蛇森、しっかりと受け取りましたよ。
これは今日の日の記念に大事に保管することにしよう。
そう思ったのだが、そのコスモスは奥ゆかしいのか、ひらりとぼくの目の前で花びらを散らしていく。まるで花びら占いをしているかのように。
好き、嫌い、好き…!
その頃には論文の中身がどうだとかも忘れて、ぼくはしばし秋の日の午後を窓越しに堪能したのだった。

(2014/10/16)



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切ない片想い




それは一目ぼれでした。
どこで出会ったとか、どこに惹かれたとか、何もかも真っ白で覚えていないにもかかわらず、彼女の顔と名前だけはしっかりと脳に焼き付いて、他には何も覚えていませんでした。
この記憶力には自信のあったこの僕の頭脳は、やはり入江にはかなわないポンコツだったのかと疑いをかけるほどに。

それまで、一に勉強、二に勉強で生きてきた僕は、どうしても抜けないライバルがいた。
中学も高校も、模試のトップは入江直樹。
どんなに自信のあった模試も、一度も抜かせないまま大学受験に突入していた。
大学は当然のごとくT大だろうと、これまたT大一直線。
センター試験は、入江直樹ご乱調で体調最悪と噂に聞いていたのに、ふたを開けてみれば当然のごとくトップで通過。
そりゃもうT大以外ないだろうと踏んでいたのに!
何故T大も受けずにエスカレータで斗南大に?!
斗南大も悪くない。
馬鹿も天才もいる斗南大。
ピンからキリまで。
校風は比較的自由。
そんな斗南大は目指してもいないけれど、無視するほどでもない。
何となくここで勝ち逃げされるのも悔しくて、父母の心配をよそに斗南大を受けたのだった。斗南大の応募締切が遅くて助かった。
当然斗南大は合格し、いざ大学に行ってみれば、入江は周りなんて全く見ない。
模試で二番だったと自己紹介しても「ふーん、結果なんて見たことないから」とあっさりしていた。
つまり眼中にない、と。
少しくらいは知っているかと思っていたのに。
理学部での二年間が過ぎた後、あいつはいきなり医学部に転部しやがった。
いや、正確には転部の噂を教授から聞いて、ボクもその場で転部を申し出たのだ。
結果、もちろん入江もボクも転部を認められて医学部に移ったのだが、それからも苦難の日々。
転部の成績も惜しいところで二番だったという。
入江直樹がいる限り、ボクには一番が回ってこないのかと屈辱で打ちひしがれることもあったのだ。
そんな勉強ばかりが関心ごとの一番だったボクに初めて訪れた胸のときめき。
一目で虜になった女のためならば、このボクの人生全てを賭けてもいいと思えるくらいの衝撃で、かつて歴史上の偉大なる統治者たちが女で身を滅ぼすのを愚かしいと思っていたこのボクが、だ。
ただ、彼女のベクトルは常にボクじゃない方に向いていて、あれほど軽蔑していた玉の輿志向すらも自分自身を発奮する材料になった。
彼女じゃなくても、と周囲の者は言う。
彼女とは合わないんじゃないか、と忠告される。
もしも付き合えたとしても彼女では苦労するぞ、と半ば気の毒そうに言われる。
それでも、ボクが見つけてしまったのは彼女だから。

「真理奈さん、今度デートしてください」
「だって、船津さんの趣味で行くとあたしの趣味に合わないし―」
「大丈夫です、自信をもってお勧めします」
「じゃあ、具体的にどこ?」
「健康と医学の博物館」
「却下!何で休日まで仕事関係の場所に行くのよ」
「それでは、日本科学未来館」
「……何それ」
「今ならノーベル賞関連の展示が…」
「…そういうのから離れられないの?せめて東京スカイツリーでプラネタリウムくらいにしてくれないかな」
「では、それにしましょう。次のお休みでいいですね」
「まだいいって言ってないし」
「夕食は南青山の…」
「わかった」

約束は取り付けた!
お近づきになるなら、がっちり胃袋をつかむものだと聞いたことがある。
それにしても、いつになったら真理奈さんはボクのお嫁さんになってくれるのでしょうか。
悔しいことに、嫁取りでも入江に負けていた。女に興味がないと聞いていたのに。
医学部に移ったときには、既に入江は結婚していたのだ。
バカだけど素直な琴子さん。
バカだなんだと言いつつ、琴子さんを見るときの入江の表情筋は緩んでいる。
できればボクもそんなふうになれる人と一緒になりたい。
とりあえずは、今この想いを成就させることで達成しようと思っている。
それまでは、真理奈さんを想ってボクは今日も仕事に励むことにしましょう。
一番が好きだという真理奈さんのために。

(2014/10/18)



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それから二人は




毎日の生活はおとぎ話ほど簡単じゃない。
王子様のような人と結婚しても、毎日が闘い。
妻のあたしがこんなだから、いつきれいで賢い人に奪われるんじゃないかと心配になる。

手術後にいつも手術室ナースと消えるという噂を聞いてからというもの、あたしは気が気じゃない。
もちろん入江くんはそんじょそこらの女の人に興味のある人じゃない。もっと言えば妻のあたしにも普段あまり興味を示さないけど…。
そんな入江くんだから、あたしは最初は笑い飛ばしていた。
でも、噂はなかなかなくならない。
専門棟に浮気部屋があるという話まで聞いて、あたしはいてもたってもいられなくなった。
専門棟は教授室や研究室なんかがあり、滅多にあたしも足を踏み入れない。
妻の目の届かないところで浮気…。
入江くんは浮気しなくても、知らずうちに誘われることだってあるわよね。
だから、あたしは自分の休みの日に入江くんの手術予定が入っている日を選んで見張ってみた。
確かに入江くんはそのまま病棟へは行かずに専門棟に入っていった。しかも後ろに手術室ナースを従えて。
ダメ、入江くんに限って!
そう思っても事実は事実。その後が大事よね。
ところがあたしってば、今日に限って院内IDカードを忘れていた。
専門棟に入るには、IDカードがなければ入れない。
ああ、入江くんが専門棟に消えていく〜。
尾行していたあたしの目の前に、もう一人尾行する人影が。
西垣先生だった。
どうやらなんとかして入江くんの弱点を見つけたい一心らしいけど、今はそんなことどっちでもいい。
「何やってるんですか、見失っちゃいますよ」
西垣先生を促して、何とか専門棟への道を確保した。
「だから言っただろう。あんなやつは見限って僕にしておいた方が…」
「あ、角曲がりましたよ」
西垣先生ってば、本当に尾行する気あるのかしら。
無駄話をしようとする西垣先生を引っ張って、あたしはひたすら入江くんの背中を追う。
それなのに、角を一つ曲がっただけで入江くんの姿は消えてしまった。
「どこ行ったの?!」
講義室や教授室、研究室の並ぶエリアは複雑で、隠れようと思えば隠れる場所はたくさんだ。ついでに言えば逢引きしようと思えばそれも可能な場所だらけというわけ。
あたしは焦った。
このままでは入江くんが…!
「こうなったら片っ端から行くわ」
見失ったなら捜すのみ。
あたしは端の部屋から順番に中をのぞいてみることにした。
あちこちのぞいても、どこにも入江くんはいない。
どうして?!
もしかして、もう…。
「うわ――――――――ん、入江くんのバカ――――――!」
あたしは悲しくなってきて、そのまま走り出した。
今思えばどうして反対方向に走ったのか。
もうその時は悲しくてわけがわからなくなってしまったのだから仕方がない。
本当は帰ろうと思ったのに、どんどん走って行っても抜け道はなかった。
階段を上り、階段を下り、廊下を進んでも、どんどん奥まった場所に入り込んで、そのうち行き止まりに。
もちろん戻るという事もやってみたんだけど、戻ったはずなのに最初とは違う場所に出てしまった。
ここはどこ?!
何とあたしは院内で迷子になるという失態。
もちろんここは厳密に言うと大学側で、病院側からすればちょと違うということになる。
専門棟はその名の通り本当に複雑だった。
同じような扉が連なり、時々教授の個性なのか、その扉に妙な物が掛けてあるときもあるけど、概ね名前プレートくらいでどこまで進んだら元の場所に戻るのかわからなくなっていた。
そんな時だった。
目の前に入江くんがひょいと現れた。
「…おまえ、こんなところで何やってるんだ」
微妙に額に青筋が見えないこともない。
先ほどまで捜していた人が、目の前に現れた。
捜してはいたけど、こんな形で会わなくても、という気分だ。
「えーと、あの、探検」
もうそれ以外言いようもなかった。
「あ、そう、じゃあがんばって」
「あーー、待って、待って、チガウの、今は違うの〜〜〜」
あたしはもうすっかり涙目だ。
入江くんの白衣にすがりついて、あたしは「今は、迷子になりました。だから連れて帰って」と訴えると、大きなため息をつかれた。
ヘンゼルとグレーテルもきっと森の中でお菓子の家を見つけた時にはそれが危険だってわかっても、藁にもすがる思いだったはずよね。
「だいたいなんでこんなところに」
歩き始めた入江くんの白衣をつかんで歩き続けると、すっかり不安が消えていくようだった。
まさに救世主。
あたしが困っているといつも現れる王子様のような人よね。
ぐすんぐすんと鼻をすすると、入江くんが振り向いた。
「おまえ休みだったはずだろ」
「…うん」
「探検って、何を探検するつもりだったんだ」
「え、えーと、その、秘密の部屋」
「秘密の部屋?」
「うん、噂があるの。見える人には見える秘密の部屋。許可された人にだけしか入れないの」
「…またくだらない」
「でも、あったら面白いと思わない?」
「教授の部屋だって許可がないと勝手に入れないぜ」
「そうだけど、秘密の部屋なんて夢があっていいじゃない」
「噂を真に受けて実際に探すお前の方が十分童話だよ」
「そう?じゃあ入江くんは王子様ね」
「…どうでもいいけど、俺ももう帰るから、ロビーで待ってろ」
「うん!」
結局あたしがここで何をしようとしたかなんて、どうでもよくなってきた。
だって、家に帰り着くと入江くんってば、狼に大変身。キャッ。
あたしの知っている童話の最後もたいていはこんな感じだったもの。

『それから二人はいつまでも幸せに暮らしました。』

(2014/10/20)



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