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王城で見習い侍女という名の行儀見習いをしているコトリンは、一向にうまくならないダンスに四苦八苦しておりました。
領地もちの子爵令嬢とはいえ、実家は貧乏で舞踏会のような華やかな催しには出たことがなかったのです。
領地の学び舎では多少の授業はありましたが、嗜み程度で決して優雅に踊れるまで練習することもなく、踊る相手もおらず、自宅で教師をつけることもなく過ぎ、デビュタント以来の行事参加がまさかの王城での新年会とは、さすがに「神様どうにかしてください…」と項垂れる日々だったのです。
おまけにふらりと現れた王太子殿下が眉間のしわを深くしてため息をつきました。
「…こいつに音楽はちゃんと聞こえてるのか?」
「耳は聞こえておりますが」
コトリンは一応小声で反論しながら目をそらしました。
「一度試しに踊ってみるか」
一番簡単だというステップを奏でる曲を弾くように楽師に指示すると、コトリンに手を差し出しました。
「え?」
そもそもいつもはステップの練習をひたすらこなすだけだったのが、今日は何故か楽師が練習場にいたことからしておかしかったのです。
しかもコトリンに手を差し出して練習相手になってくれるようです。
そこまでしてもらってはっとしました。
王妃様が王太子殿下を相手に練習すればよい、などとおっしゃっていたことを。
つまり、王太子殿下がふらりと訪れたように見えて、実は予定通りだったのではないかということにようやく気付きました。
いつまでも王太子殿下の手を取らないので、王太子殿下が少し苛ついた様子がうかがえます。
結局、王太子殿下がさらに近づいて無理やりコトリンの手を取ると、ダンスの練習が始まることになりました。
無理…!
転ぶ…!
足を踏みそう!
そこから、コトリンの記憶は曖昧です。
ひたすら王太子殿下の眉間のしわが深くなっていくのを見ながら、足は本当に教えてもらった通りに動いているのかどうかすら覚えておりませんでした。
音楽は耳を素通りするかのごとくに感じ、周りの景色はただぐるぐるするのみで、音が止んだときには王太子殿下の「思ったより悪くない」との言葉がまるで空耳のようでした。
「当日もダンスの時はおまえは何も考えるな」
「へ?」
ろくな返事もできないまま、気づくと王太子殿下はおりませんでした。
「大丈夫ですか?」
侍女のモトに声をかけられ、ダンスの教師も楽師も本日は終了とばかりに片づけをしております。
「あれ?王太子殿下がいらっしゃったのは現実?」
「はい」
「どうやって踊ったのか覚えてない…。こんなんじゃ、本番も自信ない…」
「いっそその方がよろしいのかもしれませんね」
侍女のモトにそう言われては、コトリンも遠い目でため息をつくほかはありません。
「もしかして、私のエスコートは…」
「王太子殿下でいらっしゃいますね」
「…ありえない…」
王太子殿下にご招待いただいたので、もれなく王太子殿下のエスコートであるという事実にずっと目を背けてきたコトリンでしたが、ダンスの練習にまで付き合ってくれた様子をみると、王太子殿下のエスコートで新年会に出るのは確実のようです。
「その、普通、王太子殿下のエスコートでそのような会に出ると、婚約者とかに間違われたり、恨まれてしまったりするんじゃないかなーと…あ、もちろん図々しい考えなのはわかってます」
「そうですね」
侍女のモトがお茶を用意しながらさらりと答えました。
「それってっものすごくまずいことなんじゃない」
「そうでしょうか」
「あの侯爵令嬢とか伯爵令嬢とかもっと怖い方々が納得しないかと」
「その方々を選ぶのが困るので、コトリン様をお誘いしたのでは?」
「あー、そう、そういう考えもあるわね。誰を選んでも恨まれるなら、せいぜい貧乏子爵の娘が恨まれたほうが政治的に支障がないとかなんとか」
「…確かにコトリン様の地位はあの方々に及びませんが、もっと大事な理由が」
「大事な…理由?」
「ええ。侍女の私には想像もつかない理由だと思いますが」
「あなたに想像できないなら、私なんてもっと想像できないわ…。例えば私が王太子殿下の命を救った、とかいう理由ならちょっとご招待される理由にもなるかしらね」
侍女のモトの目がきらりと光りましたが、コトリンにはわかりません。
「ああ、新年会に出た日がきっと私の命の尽きるときなんだわ」
「そんなことにはさせませんのでご安心くださいませ」
侍女のモトはそう言ったものの、コトリンは新年会が終わったら速攻で領地に帰ろうと心に誓いました。たとえ雪にまみれ、遭難しかかったとしても、王城内で殺されるよりはマシだろうと。
* * *
新年会が近づくにつれ、大臣たちの圧力が前にも増して激しくなってまいりました。
王太子殿下の婚約者にはその地位にふさわしい令嬢を、といった自分の娘やその血に連なる者を推薦してくる声や、礼儀作法と才知と容姿を兼ね備えた令嬢は侯爵令嬢と伯爵令嬢くらいなものだろうという権力を二分するかのような声です。
実際に王太子殿下がエスコートするのは領地もちとはいえたかが貧乏子爵の令嬢です。
侯爵家や伯爵家がその点をうるさく言ってこないのは、かつて命を狙われた王太子殿下の寄与先がその子爵領地であることを知っているからでした。
近隣の国を巻き込んだ王権争いが起きようかというその時、己の利益に躊躇して匿うことができなかったというその点で、古くからの学友というだけで二つ返事で引き受けたアイハラ子爵が一目置かれているのです。という話は、最近地位を受け継いだ者たちには知られていないのです。
「まあ、私もその辺の事情は父から聞いただけで、自分が幼い頃の国内事情には全く知らなかったのですから無理はありません」
外野のうるさい声にそろそろ辟易してきた王太子殿下が、宰相補佐であるナーベ侯爵令息に愚痴ったところでした。
「それで、その時に将来のお約束でも?」
「してない」
「ま、でしょうね」
「そんな余裕はなかった」
「余裕があったらしていたのですか」
「前提が違うだろう。それに、幼少時のあいつもとんでもないやつだったぞ」
「とんでもないやつ、とは」
「冬は雪まみれ、夏は土まみれ」
「それは、あの領地の気候と特産品を考えれば仕方がないことかと。人手も少なかったようですし」
「領民とはかなり近しい間柄だった」
「それもあの領地ならではでないでしょうか」
「多分俺の身分を知らなかったせいでひどい扱いだった」
「だからそれも知っていたら友人にはなっていなかったのではないですか。そもそもその時の殿下の格好自体も…」
「口にしたらこの仕事全部おまえに丸投げするぞ」
賢い宰相補佐は黙って書類に目を落としました。
「子爵令嬢、ということが問題なだけならば、やりようはいくらでもある」
「公爵様に願って養女にするという手もありますね」
「それが慣例としてだけならばそんなこと必要ない。ただ、礼儀は必要だ」
「そうですね。貴族ではなく平民だとしても国を代表とする王妃にならねばならないとしたら、礼儀作法は必須でしょう」
「それができないならば愛妾にするしかない。どこぞの物語のようにはいくまい」
「ああ。流行りの平民との恋物語ですね」
「物語は物語だ。責任も取れない王子が外交も考えず、国内事情も考えず、ただ己の感情で礼儀もわきまえない平民を妃にしてわがまま放題にさせるなど、ありえない」
「令嬢は、あれでいて領地もちの令嬢ですからね。弱小とはいえ領地のために一所懸命ですよ。令嬢を嫁に出してしまったら跡取りはどうするのですか」
「だからその問題を解決しないことには子爵も是とは言わないだろう」
「親戚から養子をとる、殿下との子どもの一人に爵位を与えて跡取りに据える、子爵の領地から国に戻す、などがありますが?」
「子爵に選ばせる」
「なるほど。令嬢にどれだけ産ませるつもりですか」
「なっ」
「跡取りが最低でも二人以上生まれる前提ということになりますよね?」
黙り込んだ王太子殿下に宰相補佐は少しやり返した気分でほくそ笑んだ。
「宰相家もこのままならば親戚から養子をもらわねばならないかもな」
「その心配はございません!」
「ちょうど君の姉君のところになかなか見どころのあるご子息が…」
「まだ!まだ見合いもしておりませんし、諦める歳でもありませんし!」
「へえ、そうだったかな」
にやりと笑った王太子殿下に宰相補佐は仕返しとは大人げない、と言いながら執務に戻るのでした。
* * *
王太子殿下と子爵令嬢がダンスの練習をしていたという噂は、密やかに侍女たちの間でささやかれていました。
「そうなの。やはりエスコートは子爵令嬢を…」
その噂を聞きつけた伯爵令嬢は豪奢な髪を揺らして思案顔です。
大変迫力のある美女で、なかなかの才媛であるユーコ・マツ・モート伯爵令嬢ですから、我こそは王太子殿下の婚約者候補であると疑ってもいなかったのです。
もちろん身分がさらに上のサホーコ・オオ・イズミー侯爵令嬢も有力候補であることは知っておりましたが、まさかここにきてどこの令嬢とも知れぬ地味な子爵令嬢にその地位を奪われることになろうとは思っていなかったのです。
「田舎娘に王太子妃なんて務まるものですか」
「そうですよ。まだ婚約したわけではございませんよ」
侍女の言葉に気をよくしたモート伯爵令嬢は、ほほほほと笑いながらうなずきました。
「最後まで、私は諦めませんわ。勝負せずに負けを認めるわけにはいきません」
「そうとなれば、お嬢様にふさわしい装いをさらに見直さねば」
「肌と髪もさらに磨き上げましょう」
伯爵家では新年会に向け、さらに気合が入るのでした。
* * *
「よろしいんですか、お嬢様」
読んでいた本から目を上げ、サホーコ・オオ・イズミー侯爵令嬢はおっとりと首を傾げました。
侍女頭がため息をついて見ていました。
「新年会のエスコートでございますよ」
「おじいさまに頼んであります」
「そうではなく、王太子殿下からのお誘いを促さなくてよろしいんですか、と申し上げているのでございます」
「促す、とは」
「筆頭侯爵令嬢として、ここは王太子殿下に頼んでもようございますよ」
本を閉じ、イズミー侯爵令嬢は侍女頭を見つめました。
「王家からの打診がない限り、こちらから促すというのははしたないと思いませんか」
「ですが、子爵令嬢ごときが隣を歩くというのも悔しいではございませんか」
「子爵令嬢ごときというのは正しくありませんよ」
「そうでございましょうか」
「今でこそ子爵に治まっている御仁でしょが、あの子爵家こそ本当は伯爵としても陞爵されてもおかしくはないと思いますよ」
「そうできない何かがあると思いませんか」
「さあ。爵位だけ上がっても、あの厳しい土地では維持するのがやっとでしょうから」
「どちらにしても田舎暮らしの跡取り娘では王太子妃にふさわしいと思えませんが」
「それは…私が考えることではございません」
侍女頭は手早くお茶の入れ替えを行うと、礼をしてその場から退きました。
イズミー侯爵令嬢は入れ替えてくれたお茶を一口飲むと、ほうと息を吐きました。
新年会でエスコートされるというのは、王太子殿下の婚約者が決まるのと同等だという意識はどの貴族も理解してはおりますが、あれほど今までどの貴族から打診を受けてもうなずかなかった王太子殿下と王家がエスコートする令嬢を決めたのです。
それを覆して自分を選んでほしいと縋るのは、侯爵令嬢にとって恥ずべき行為ではないのかと。
ただ、ここで異議を唱えなければ同意したも同然で、今後抗議する場などないと見てよいでしょう。
これでもイズミー侯爵令嬢はずっと悩んでいたのです。
前侯爵でもあった祖父が強く王家に申し入れしたことに黙って便乗していれば、もしかしたら王太子妃になれるのではないかと思ったことを。
王太子妃という地位ではなく、王太子殿下自身を強く望んでいるのだと王太子殿下に告げれば好機が巡ってくるのではないかと今でも思っていることを。
相応しくありたいと努力してきたことを見せなければ、王太子殿下にわかってもらえないのではないかと思っていることを。
モート伯爵令嬢のようにあからさまに排除するのではなく、未だその気のなさそうな子爵令嬢に諦めてもらえないかと話すのはどうだろうかと思っていることを。
ただ、王太子殿下の隣にありたいと願っていることを。
ただ、気づいてしまったのです。
先日王宮に様子伺いに出向いた時に、この先一生心を通わすことなくただ隣にあるだけで幸せになれるのだろうかと思ってしまったことに。
結婚さえしてしまえばいつかは一生を過ごす伴侶として仲良く暮らしていけるのかと。
政略結婚が普通の侯爵令嬢として、ありえない望みを抱いてしまったのだろうかと。
将来を憂えなく過ごせること。
そのためには伴侶にはそれなりに地位のある者を望み、家の中で采配を振るって伴侶を支えることを教育されてきたのです。
噂に聞いた子爵令嬢のように領民を支えるために苦労も厭わないと本気で思えるのだろうかと。
王家はかつてその地位を脅かされるほどに追い落とされようとしておりました。
その時に手を差し伸べた領地は少ないと聞いております。
侯爵領ですら十分な支援ができずにいたのです。
幼かった王太子殿下を隠すために辺鄙な田舎と言われるほどの子爵領地に匿われたのは必然だったのかもしれません。
もしもその時に何を置いても侯爵領で匿っていたら…?
いえ、きっと祖父母も両親もその先を見据えて必要最低限の支援で済ませることがその時の対応として最良だと判断されたのでしょう。
卑怯なことだと言われればそうかもしれないと侯爵令嬢として考えます。
どちらに転んでも、自分たち侯爵家と侯爵領の者たちが生き残ることを選択した結果なのです。
今更覆らない事実にイズミー侯爵令嬢はそっと目を伏せるのでした。
(2026/02/17)
To be continued.