おかえりチンアナゴ



最近琴子が水族館のユーツーブにはまっている。
少し前までは動物園のにはまっていた。
その前は柴犬だった。
さらにその前はお笑い芸人だった。
集中して見だすと、それは隅々まで見尽くす勢いだ。
仕事のほうもそれくらいの集中力を発揮すればミスもなくなるだろうに。

「見て、入江くん。このウツボが…」
「見て、見て、入江くん。イルカがね…」

イルカのほうが賢いんじゃないかと時々思うが、さすがにそれは口にしていない。
来る日も来る日も水族館の飼育員が映し出す映像に夢中だ。
ちょっと前はおっさんのような鳴き声を出すサルがとある人に似ているだとか妻子を守るイケメンゴリラが俺のようだとふざけたことを言っていた。
さらにその前は私も柴犬が飼いたいと、かつて犬嫌いだったことを忘れて訴えたが、賢くて温和なセントバーナードさえ扱いきれていないのに初心者に柴犬は無理だと家族を説得したこともあった。うかうかするとおふくろが柴犬を買ってくる勢いだったからだ。
その前はどうでもいいお笑い芸人の芸を見せられても笑わない俺に琴子がむくれた。
別に生まれてから笑ったことがないわけじゃない。琴子のドジには大いに笑わせてもらっている。時には冷や汗もかくが。

そんな日常が過ぎてきた日のことだった。
「あ、入江くん〜おかえり〜」
さすがに水族館には飽きてきたかと思ったがそうではなかった。
まだブームは続いていた。
「入江くんの誕生日の前の日は、チンアナゴの日なんだって!」
どうでもいい。
果てしなくどうでもよかったが、あまりにも楽しそうに言ってくる琴子に負けて、テレビに目を向けた。
どこかの局のアナウンサーが少し半笑いでチンアナゴの日とか言っている。
画面上ではチンアナゴが砂から半分体を出してゆらゆら揺れていた。
「ねえ、ほら、この水族館のトイレの貼り紙!あなたの立派なウツボさんをしっかり便器の中へ…っていやーん」
…チンアナゴの話じゃないのかよ。
その日、夜勤明けの勤務を日中こなして早めに帰宅したので、疲れているのは知っているはずだ。
しかも琴子が言うように、明日は俺の誕生日だという。
琴子がどうしても日付が変わったころにはお祝いしたいと言うので、勤務の調整がなされた結果だった。
毎年のことなのでさすがに皆慣れたようで、琴子の誕生日、俺の誕生日、結婚記念日は勤務を代わってくれという要請の前にすでに休みが入れられていることも少なくない。
どれだけ皆に気遣われてるか知らないわけではないだろうが、琴子は最大限に感謝をささげながらも享受する。その分俺が仕事で返しているので問題ないだろう。
チンアナゴの何がいいのかよくわからないが、体半分出して揺れているその姿が11月11日を連想させるのだろう。
そんなチンアナゴを見ているうちになんだか疲労感が増してきた。
「風呂入って寝る…」
「夕食は?」
「後で食べる」
「えー、夜中には起きてね」
思わず疑わしい目で琴子を見た。
起きてるのか?いや、起きるのか?

少し寝入ってから気づくと夜も更けていた。
琴子は…隣で同じように寝ていた。…だよな。
お祝いするだとか言ってたよな。
「いやーん、入江く〜ん、チンアナゴ…」
…ちょっと待て。
何がチンアナゴだって?
寝言でチンアナゴはないだろう。
「…琴子」
「う、う…ん…あ?おかえり、入江くん」
「とっくに帰ってただろ」
「あ、そうだっけ」
まだ寝ぼけている。
「おかえり、チンアナゴ…」
またチンアナゴかよ。
「俺はチンアナゴじゃない」
「うん、そうだよね、チンアナゴ」
…おいっ。
「そこまで言うなら…俺がチンアナゴかどうか確かめてもらおうじゃないか」
「…ん?…んんっ?」
「そろそろ誕生日になるわけだしな」
「え…ちょ…」
琴子は寝ぼけていた目をこすって、俺を見た。
パジャマをはだけさせている姿を見て、頭の中は?の嵐だろう。
自分のパジャマを剥かれて、ようやくそれが意味することを悟ったようだ。

「…もう、ウツボのユーツーブなんて見ない…」
翌朝起き上がれないベッドの中でそうつぶやいた。

(2021/11/13)−Fin−