ドクターNの恋愛相談




とある医局に、一冊の雑誌が置かれていた。
その雑誌は、その場にいる人間全てに似つかわしくないもので、いったい誰が持ち込んだのかというもっぱらの噂だった。

『「ドクターNの恋愛相談室」
相談者:中三女子です。最近彼がゴムを付けてくれません。どうやったらゴムを付けてくれますか。
ドクターN:そんな男にはいっそ子どもができたから下ろす費用をくれと脅して灸をすえてもいいかもしれない。そこで真剣に悩むようだったらまだ改善の余地はあるけど、責任逃れするような奴なら思い切って付き合いをやめてしまえ。女の子は大切にされてしかるべきで、同じするなら楽しめないと損。なんなら僕が直接注意してやってもいいくらいだ。

相談者:高一です。親友の彼と浮気してしまいました。親友と彼、どちらを選んだらいいですか。
ドクターN:そりゃどっちも取ったほうがいいに決まってるけど、君は彼と別れる気があるのかな。彼も親友と別れる気がないなら、誰かがあきらめるしかないよね。ケンカを覚悟で親友と取り合う気があるなら止めはしないけど。どちらにしても親友には迷惑な話だよね。親友はなかなかできないとかいうけど、その彼と簡単に浮気できるような親友ならいらないんじゃない?二股かける男も大概知れてると思うけど、僕ならばれないようにするね。』

相談に乗っているんだか、煽っているんだかわからないようなその内容は、純情な琴子には少々刺激が強すぎたようだ。
直樹の仕事の合間に弁当を差し入れしようと医局に来たが、誰もいなくて暇だったので、薄汚いソファに座って待つことにしたのは半時ほど前。
見回しても暇なだけなので、これまた吸殻がいっぱいになった灰皿が置かれている乱雑なテーブルの上に置かれていた異様な雑誌に手を伸ばしたのは至極当然と言えよう。

どうしておっさんばかりの医局にティーンズ雑誌が…?

そう思いながら手に取った雑誌は、今時の中高生などが読むようなものだった。中身はファッションとか美容とか、少しだけ大人顔負けの話。

う、うーん、最近の中高生は進んでる…。

ファッションは今更真似しようもないのでぱらぱらと眺めただけで過ぎ、美容の話は少しだけ興味を持って読み、つい雑誌の勧める美容体操の真似事なんかをしてしまって、無意識に足を上げたりなんかしていた。
そして、読者のページにはいろんな話が中高生らしく恋に勉強に悩む姿が載っていた。

あー、わかる、わかる、あたしもそうだった〜。

そんな共感を覚えつつページをめくり、すっかり気分は女子高生になっていた琴子だったが、そのページの途中にあったのがドクターNの恋愛相談室だった。
そのあまりにも適当な答えは、解決に繋がるのか良くわからなかったが、相談者が嘘か本当かは別として中高生だというのが琴子には信じられなかったのだった。

あたしなんて、あたしなんて、ずっと入江くんと同居していて、しかもあたしは入江くんを好きとか言ってたのに、なーんにもなかったわよっ。こういうのって、据え膳とかいうんだっけ?
入江くんはそんな節操のない男とは一味違うのよ。
入江くんは誰も相手にしない孤高の男だったのよ!

琴子自身も相手にされていなかったが、とりあえず自分で言っていて気づいてない。
顔を上げると、そこには眉をひそめたその孤高の男がいた。

「…何やってんだ」
「あ、入江くん、お弁当」

雑誌はあっけなく元の場所に放り投げられ、孤高だった男に擦り寄る琴子の姿があった。
視界の片隅で、雑誌はやはりその場で異彩を放っていたが、今や見る影もない孤高の男は愛妻弁当を無事に受け取るのに忙しく、視界の隅から追いやったのだった。

(2010/10/15)




「えーと、なになに、『私は中学二年の女子です。彼が浮気している現場を見てしまい、怒って文句を言ったら、ただの後輩と部活について話があっただけだと言われました。本当でしょうか。』…か。ただの後輩ならこそこそと会わないと僕は思うけどね〜。どうせ言い訳するならもっとうまく言えばいいのに、どうしてこうヘタなやつが多いかな」

楽しそうにハガキを選別するドクターNは、本業そっちのけでほとんどボランティアのような原稿料でティーンズ雑誌での相談を受け持っていた。
これがなかなか面白くて、しかも思ったより受けがいいときてはやめられない。
医局の連中に自慢したいが、とりあえずドクターNの正体は秘密なので黙っているのだ。患者には愛読者もいるかもしれないので、そんなところからばれたら一大事だからだ。

そんな楽しいひとときを邪魔する電話が…。
ポケットの中で震える電話を手にして確認すると、呼び出し先は病院だった。

「何だよ、入江が当直なら呼ばれることはないって思ったのに」

通話ボタンを押すと、思いっきり不機嫌な声で応じた。

「あー、もしもし」
『夜分すみません、第三外科病棟です』
「お、その声は小出ちゃんだね。なんだ、今日は夜勤なの?」
『はい。先生こそ、今はホテル、とかいうんじゃないですよね?』
「いやだなー、いくら僕でもそんなところで電話に出ないよ」
『じゃあ、ホテルなら電話つながらないってことですか」
「小出ちゃんと一緒ならばね」
『そうですか。それはともかく、先生が担当の前橋さん、尿量が減ってきて、心拍も不安定です。今は入江先生が処置していますが、そろそろ先生をお呼びして備えたほうが、とおっしゃっています』

頭の隅でちらりと前橋という患者の状態を思い出し、さもありなんとうなずく。
そして思考の半分は、電話をかけてきたナースがあっさりと誘いを断ったことを占めている。
我ながら不謹慎だと思いつつ、既に習慣化しているやり取りをやめられるものでもない。

「わかったよ。やっぱり僕が出て行かないとね」
『あと30分ほどで家族の方もいらっしゃいますので、早めにお願いしますね』

無常にも簡単に電話は切られ、伸びをしてから出かける準備を始めた。
山と積んだハガキを横目で見て、また明日楽しむとするか、とつぶやくのだった。

彼の信条は、名誉も女も金も全部手に入れたもん勝ち、である。
そのために医者になったし、たとえ大学病院でこき使われようとも、リスクの多い開業医などまだ眼中にない。
とりあえず仕事はちゃんとやる。、自然と名誉も手に入るし、先生と言われて悪い気はしない。周りにナースや事務や医局秘書だとか出入りの業者など、わざわざ探しに行くまでもなく女に不自由はない。たまには気の強い女医もいいし、人妻だってばれさえしなければ誘いをかけてみるのも悪くはない。適当に金は入ってくるし、忙しいのを除けば自分の人生まんざらでもないと思っている。
ところが最近ちょっとだけ目障りなヤツもいる。
それが研修医、入江直樹。
顔だけじゃなく、頭も腕もいいから、いびることもできない。時々は困らせてやろうと企むのだが、いつの間にか倍返しされるので油断もできない。
そして、ヤツの最大の弱点は愛妻であるわけだが、これまた似合わないほど普通。むしろどうして選んだのかと思うほどドジ。そこがかわいいという見方もあるかもしれないが、入江直樹に似合うかと言われれば、首をかしげるほかない。
いつかその恋愛過程をとことん追及してやろうと目論んでいたが、ガードが固くて未だ果たせず。
いったいヤツの恋愛思考はどうなっているのか。
彼の今最大の関心ごとだったりする。

患者を見送った後、一息つくために医局でコーヒーを飲みながら、彼はこの夜中のテンションでヤツに直接聞いてみることにした。
「ところでさぁ、琴子ちゃんとはどうして結婚することになったの」
どこがところで、なんだという顔をして、入江直樹はこちらを向いた。
「やっぱり琴子ちゃんが好き好きで押し切られたわけ?」
それにしてはこの一見冷徹な男がそれくらいで学生結婚するわけがない、と彼は思っていた。
入江は、はあ、と大きなため息を一つつくと、口を開いた。

「高校生の頃から同居してましたからね、籍を入れても入れなくても同じでしたよ」

なんとまあ、高校生の頃から手篭めにしていたとは、なかなかやるじゃないか。

「言っておきますけど、結婚することになったのは母の策略のせいで、結婚してもいいと思ったのはその2週間前ですからね。先生が思うようなことは何もありませんよ」

ということは、この男はわずか2週間で結婚することに決めたわけか?

いろいろ誤解をしているが、入江の説明では誤解をするのも無理はない。そのあたりの騒動の詳細は、妻である琴子と同僚ナース、桔梗幹から後に仕入れることになる。

理性的に見えるが、実は随分と性急な男だったのか。
しかも奥方に対する独占欲も十分ある。ま、恋人同士の期間が短かっただろうから、未だ恋人気分なんだろう。

彼はそう分析して、少しだけ満足した。
周りの人間は、この男の妻に対する素っ気無い態度に誤魔化されているが、彼が妻にちょっかいをかけるたびに淡々と、しかも確実に報復するのを忘れないことを知らないのだろう。
つまりは他の女にあまり興味がないのだとわかったとき、この男が来てから女性の人気が横取りされた気分だったので、少しは溜飲が下がるというものだ。
しかし、あの普通以上にドジで騒がしい女性を妻にしている男というのは、どんな気分なんだろうと彼は気になって仕方がない。
恋愛ごとに関しては、ありとあらゆる興味が尽きないものだ。
おまけに、あのような妻のどこにこの男が引かれたのかも興味がある。
それゆえに彼は妻にちょっかいをかけるのをやめられないのだ。

確かに顔はかわいらしい。もちろん僕にとっては顔はよほどでなければどんな感じでも許容範囲だ。それともヤツは面食いだったか?美人タイプはダメとか?
しかし身体はどうだろう。うーん、ベッドの上では豹変とか?それもある意味意外性があっていいのかも。もしくは調教気分とか?どう考えたってあの彼女が経験豊富なんてありえないしな。

そんなことを考えている間に、当直である入江は医局からいなくなっていた。

(2010/10/22)



ドクターNは、数枚のハガキを手に編集者と向かい合っていた。
次の号に載せるための相談事は、編集者の手によって最終的に選ばれる。
もちろんこれなんかどうだという面白そうなものは自ら勧めてみることも忘れない。
そんな中、かわいらしい文字で書かれた一枚のハガキに目を留めた。

「あれ、こんなの読んでないぞ」
「ああ、それですね。先ほど届いた分の中に入っていたんですが、なかなか面白かったので持ってきたんです」
「へえ、どれどれ」

丁寧な字で書かれたそれは、ところどころ誤字が混じっている。
今時の女子中高生が書く色とりどりのペンではなく(ちなみにこれはこれで非常に読みにくい)、ごく普通のボールペンを使って書かれたところも好感が持てる。
「『高三の女の子です。ずっと好きだった彼に一大決心をしてラブレターを渡したら、読みもせずに振られました。ところがその後、どういうわけか付き合うことになったのですが、相変らず冷たいんです。彼はどういうつもりなんでしょうか。』…ねぇ。
どういうつもりって、たいして好きじゃないんじゃないの。それより、何で付き合ってるんだろうねぇ。もしかして彼女の体目当てとか?その辺が知りたいな。いや、それがわからなくてハガキ書いてきてるんだっけ。
そういえば、今時の子もラブレターなんて書くんだ。でも、どっかで…いや、まあ、いいか、そんなこと」
そんなことを言いながら、とりあえずこれは保留ということで片隅に置かれた。

出版社からの帰り道(ちなみにその出版社彼の家からさほど離れておらず、なかなかいいもてなしを受けるので、いつも散歩がてら寄っていく)、近くのコンビニに入った。
今日は完全なオフのはずなので、のんびりとした午後だった。
雑誌の置いてある棚に見慣れた人影を見た。

「あれ、琴子ちゃん、今日はどうしたの」

声をかけると、あからさまにびくっとして振り向いた。
こういう時は何か隠し事をしているのが彼女の特徴だ。

「え、あ、こんにちは。今日はお仕事休みだったんですね」
「まあね。何、暇なら一緒にお茶でもするかい?」
「いえ、結構です」
「それより、どうしてこんな所(家からも職場からも遠いコンビニ)に?」
「と、友だちの家が近いんです」
「へー、どんな友だち?」
「高校時代の友だちですけど。…人妻ですよ」

ふーんと納得したような顔を見せて、彼女を観察する。友だちというのは多分本当だろうが、持っている雑誌が不自然だった。

「琴子ちゃん、随分と若い子の雑誌に興味があるんだね〜」

そう言うと、気がついたように雑誌を慌てて棚に戻した。

「こ、これはなんとなく手に取ったら、つい」

彼がすぐに気がついたのは、それが先ほどまで打ち合わせをしていた雑誌だったからだ。
いくらなんでも中高生のファッションに興味があるとは思えないが、いったい何を隠しているのか気にはなる。本当につい手に取ってみただけだろうか。

「これ」

そう言って、彼は彼女が戻した雑誌を手に取った。

「今中高生に人気があるみたいだね」
「く、詳しいんですね」
「まあね。女の子から女の人まで幅広く付き合いがあるから」
「…中学生じゃ犯罪よね…」
「…ん?」
「いえ」
「琴子ちゃんは、この雑誌のどこに興味をひかれたの?」
「え、えーと、この間入院した榊原さんって高校生でしょ。あたし受け持ちだし、この雑誌読んでるみたいで、少しでも共通の話題がないかなと思って」
「へー、熱心だね。でも、それなら榊原さんに見せてもらえばもっと話題が弾むんじゃない?」
そう言うと、彼女は言葉に詰まったように目が泳いでいる。
本当に彼女は正直だと彼は声を押し殺して笑った。

「あ、もうこんな時間だ。帰らなくちゃ」

突如とってつけたように彼女は慌ててコンビニを出て行った。
この雑誌の記事の何に興味を引かれたのか、大いに気になるところではあるが、さすがに彼もこんなところで大っぴらに中高女子向けの雑誌を広げるわけにもいかない。
彼はすぐに家に戻ることにした。
その雑誌の最新号なら、彼の家にも数冊あるからだ。
そうして家に戻る道を歩きながら、彼は考えていた。
最初のほうのページは特集だ。ここは完全にファッションのグラビア記事ばかりで、カリスマ高校生モデルだとか、注目のショップだとかが載っている。
明らかに彼女は後ろのほうのページを読んでいた。
いくら童顔で若く見えるとは言っても、彼女は中高生ではないから、前のほうには興味がないのだろう。
後ろのほう、後ろのほう…。
歩きながら彼は考える。
中高生のどうでもいい噂話や恋バナに興味があるのかもしれない。仮にも高校生の担当となれば、いくら雑誌を見るための言い訳としても、それくらい知っていないとまずいと考えても不思議はない。
途端に、編集者と打ち合わせの際に引っかかっていたことが不意に浮上した。
…待てよ。
あのハガキに違和感を感じたのは、ボールペンで書かれたごく普通のハガキで、これはやたらとデコる中高生にしてはおとなしくていやに真面目だと思ったことだった。
あの例の読みにくい小文字を使ったり、記号を使ったりといった意味不明な文章もなかった。
そして何より、あの字に見覚えがあった気がしたのだった。
気のせいだと思ったが、今このコンビニで正解を見た気がした。

「…なるほど」

彼は謎が解けてよい気分だった。
残りの道すがら、明日はどうやって彼女を問い詰めるか、その計画に余念がなかった。

(2010/11/01)



彼の朝は、さわやかなモーニングコールで始まる。

『おはようございます、先生。そろそろお時間ですよ』
「ん、おはよう、坂崎ちゃん。今朝の天気は?」
『晴れてますよ。今日は屋上でランチしませんか。お弁当持って行きますから』
「そうだなぁ。緊急がなければね」
『もちろんわかってます。それじゃあ、お昼に』
「楽しみにしてるよ」

彼は起き上がってカレンダーを見る。

「今日は坂崎ちゃん、と。明日は西野ちゃんかな」

もちろんカレンダーにそんなことが書いてあるわけじゃない。万が一そんなものを見咎められたら今までの苦労が台無しだ。
家には常に女の影などないように整理されている。
ほとんど家で過ごすことが少ないせいか、あまり物がなくてもさほど不自由でもない。
それでも冷蔵庫にはそこそこ食材が入っていた。
何かで家に女の子を呼んだときは、華麗なる手さばきで料理を披露するのも彼の得意技の一つだった。
そうだな、今朝はスクランブルエッグにしよう。
手早く朝食を作り、新聞を読んで、一通り昨夜のうちに来たメールに目を通し、彼は朝の支度を着々と済ませていく。
おおっと、これを忘れちゃいけないね。
彼は家を出る前に例の雑誌を手に取り、通勤鞄の中に入れ込んだ。

仕事場での彼は、方々に挨拶をしながら職場を回る。
職場は一箇所ではなく、いろんな病棟に顔を出し、自分の存在をアピールしておく。
そんな中、メインの病棟である一つに彼女は働いている。忌々しいことにその夫である入江直樹も。ま、僕の部下でもあるのだが、ヤツはきっとそう思っていないだろう。表面上は一応上司である僕に伺いを立ててはいるが、内情は彼が立てた計画にうなずくだけの場合も多い。
この夫婦は高校生の頃から同居していて、これでもかと一緒にいるにもかかわらず(もちろん神戸へ研修に行っていた期間は離れていたわけだが)、仕事場まで一緒じゃないと気が済まないらしい。一緒にいたらやりにくいもんじゃないのかね。
そんな心配を跳ね除けるように、入江の態度は妻である彼女に対して冷たい。だからこそ同じ職場で働いていても批判がこない。計算されていることだとしたら、入江のその精神力こそ感嘆すべきものじゃないか。

「やあ、琴子ちゃん、おはよう」
「おはようございます」

朝から顔が険しい。また入江に何か言われたのか。

「ほら、これ、あの雑誌」
「…どうしたんですか、これ。…はっ、まさかあの後買ったとか?!」
「…違うよ。知り合いに譲ってもらったんだよ。欲しいかと思って」
「ふうん、その知り合いってのは、やっぱり女子高生だったりするんでしょうね」
「まあ、想像にお任せするよ」

彼女が手に取ったその瞬間、彼は耳元でささやいた。

「で、その中の記事のどれが気になったの?」

バサッと雑誌をテーブルの上に落とした。

「べ、別に気になる記事なんて」
「あ、こういう雑誌の相談コーナーって、ハガキ出してから、少なくとも2ヶ月以上先にならないと載らないと思うよ」
「…そ、そうなんですか…へぇ」

ずばり相談コーナーと口に出したにもかかわらず、不自然さを感じていないところが彼女らしい。
まだ彼女はどこのコ−ナーを読んでいるとも口に出していないわけだから、なにゆえいきなり相談コーナーなのかという矛盾さも感じていないようだ。

「そうそう。その頃には悩みなんて解決してたりなんかしてね。もちろん早急に返事が欲しい場合や切羽詰ったような相談の場合には、相談を受ける人が直接電話することもあるかもね」
「で、電話?!」
「…たまにはそうやって電話番号を書く人もいるみたいだね」
「へ、へえ」

曖昧に返事しながら、彼女の顔は思案顔だ。
あのハガキにはさすがに電話番号は書いてなかったはずだが、きっと彼女は書いたかどうか覚えていないに違いない。それを利用するのも楽しいかもしれないな。

「たとえばさ、琴子ちゃんも入江とのことを相談するなら、そんな雑誌とかに相談しないで、この恋愛経験豊富な僕にしてくれよ」
「…豊富ったって、先生のようなタラシじゃありませんからね、入江くんは」
「なに、入江なんて君以外との恋愛経験も浅いだろうから、時々変な独占欲で困ったことになったりするんじゃないかと心配に…」
「…あ、入江くん」

朗々と話しかけていた僕の背後に不穏な気配があった。
どこから会話を聞いていたのか、例の入江直樹だった。
特に変わった様子はないが、眉間のしわがいつもより一本多い。
『変な独占欲』に反応してるのだろう。
でもあからさまに反応すると、自分が図星を指されたようになるので、あくまで黙ったまま威嚇しているようだ。
これくらいで眉間にしわを寄せるとは、心の狭いヤツだ。
しかし、それを機に彼女は「じゃあ、これ、ありがとうございます」と言ってそそくさと去っていった。
仕方がない、この続きはまた後で。

「琴子ちゃんは何か悩んでるのか?」
「さあ。いつもくだらないことで悩んでますけどね」
「そのくだらないことが女にとって重要だったりするんだけどな」
「先生のように節操なく恋愛ごとで悩んだりすることはないですから」

…怒ってやがる。
多分この口調はさりげなく、しかも確実に怒っている兆候だ。

「僕の場合は節操がないんじゃなくて博愛精神と言ってくれたまえ」

そういうと、入江は肩をすくめてあきれたように去っていった。
ふー、危ない、危ない。
これ幸いとばかりに彼は回診を研修医(多分今日の担当は入江だろうが)に任せて外来診察に行くことにした。

(2010/11/11)



ドクターNの昼食は、残念ながらまともに食べられるときは少ない。
朝からの予定の手術が少しでも長引けば、売れ残りの食堂メニュー。それすらも間に合わない時は、売店で買ったパンなどになる。ちなみにカップめんにも挑戦したことがあるが、途中で呼ばれて悲惨な状況になったので、それ以来医局で食べる食事は麺類だけはやめにしている。
運がよければお手製の弁当などにありつける。
今日は運がよかったので、屋上でお手製弁当を仲良く食べることになった。

「はい、先生、あーん」
「どれどれ」

そう言ってナース坂崎ちゃんが差し出したフォークを持つ手をわざとしっかり握って、フォークに刺された卵焼きを口に入れる。
女はみんな卵焼きの味でアピールする。

「どう?」
「うん、おいしいよ。でも、坂崎ちゃんの唇のほうがきっとおいしいよ」

そう言いながら迫ると、「やだー、先生」と少しだけうれしそうに胸を叩いた。
絵に描いたような昼下がりで、彼はにっこりと微笑みながら残りの弁当を食べることにした。

そこへばたばたと現れたのは、院内一騒がしい看護婦だった。

「だって、別にそれとこれとは関係ないでしょ」

そう叫んでバタンと屋上の重い扉を開けている。
彼らは屋上でもかなり奥まった場所でいちゃいちゃとご飯を食べていたので、どうやら彼女は彼らに気付かない様子だった。
ナース坂崎も不意の出来事に身を硬くして、出て行くタイミングを失ったようだ。
ぎいっと鳴って重そうな扉が閉まる。
その音のように院内一もてるにもかかわらず、奥方にしか興味がないという腰の重そうな男が言った。

「へえ、で、悩み事は解決されたのか?」
「もう、そんな相談なんてしてないってば」
「ふーん、さみしいなぁ、夫なのに相談もしてもらえないなんて」

言葉とは裏腹に明らかに面白がった風にうそぶいている男は、先に出てきた彼女の隣に立ち止まる。

「もう、入江くんってば、いつもは相談したって聞いてないくせに!」
「聞いてる」
「ウソ!」
「今日だっておまえが屋上で弁当って言ったの覚えてただろ」
「そ、そうだけど」
「最中に言ったことや終わった後に言ったことも覚えていないのは、おまえのほうなんじゃない?」
「さ、最中って…」

あたふたと腕を漫画のように振って辺りを見回している。
そんなに振り回したら、手に持った弁当まで振り回されて、中はぐちゃぐちゃになるんじゃ…と心配したが、そんな心配は無用だったらしい。
無言で彼女の手から弁当の包みを奪っていた。

「あのね、今日の自信作は卵焼きなの」

そう言った彼女のお手製の弁当を食べるのは、夫である入江直樹しかいない。
彼は一度当直のときにその弁当を見たことがあるが、よくもまあ見た目だけで判断しない肝の据わった男だと思ったものだ。
包みを手早く開き、その自信作だという卵焼きを一つ口にして、微妙な顔をした。

「自信作、ねぇ」
「え、だめ?」
「おまえ、これ味見したか?」
「えーっと、朝忙しくって」
「だろうな」
「えー、どんな味だった?」
「ほら」

そう言って、彼女の頭を抱え込んでベロチューだよ!なんて王道なんだ!と彼はご飯粒を吹き出す思いだった。
ナース坂崎も隣で顔を赤くしている。

「…しょっぱい」

しばらく沈黙した後に彼女はつぶやいた。

「とりあえずもう時間がないから後で食べるよ」
「え、そんな」
「おまえだって午前の仕事の失敗で昼休憩が短くなったんだろ」
「そうだけど…」
「ほら、行くぞ」
「えー、もう?」
「見られて困ることはないが、おまえは嫌だろ」
「…何の話?」
「何なら、今ここで午後の仕事も出来ないくらいにしてやっても…」
「わー、いいですっ」
「…なら行くぞ」
「はーい」

ぎい、ばったんと再び音がして、屋上は元の静けさに戻った。

「いやん、入江先生、す、て、き…」

色があるなら、まさにピンクのため息をついて、ナース坂崎はつぶやいた。
面白くない、と彼はグレーのため息をついた。
せっかくの屋上ラブラブ昼食密会が、とんだバカップルにさらわれてしまった感じだ。

「あら、やだ。時間なくなっちゃいましたね」
「あ、ああ」

ナース坂崎は半分しか食べていない弁当を素早く包んでしまい、さっと立ち上がる。

「それじゃ、また今度」

あっさりと彼一人を残して屋上を去っていく。
気分はお腹一杯だったが、彼の腹は満たされていない。

「…パンでも買うか」

彼は暖かな屋上の風を受けながら、最後に入江が見せたツンドラのような視線を思い出して身震いするのだった。

(2010/11/17)



彼は暇さえあれば女性と飲み食いに行くのが日常である。
それほど生活は贅沢ではないが、交友関係に多大なるお金をかけるため、彼が誘えばたいていの女性は二つ返事で受ける。

「琴子ちゃん、おいしいリゾットの店があるんだけど、今夜どう?」
「今日は入江くんと帰るので」
「ですって。先生、アタシと行きましょ」

…もちろん、たいてい、であって必ずとは限らない。
彼は予想された答えにふむとうなずき、帰り支度を始めている彼女に小声で言った。

「ところで、ものは相談なんだけど」
「…な、なんですか」
「琴子ちゃん、冷たい男って、何を考えてるか、わかる?」

片付けようとしていた大量のカルテをばさばさっと取り落とした。
何でこれくらいで動揺するのか、バカ正直なのも彼女のいいところではあるのだが、百戦錬磨の彼からすれば少々物足りないといったところかもしれない。いや、それも新鮮味があってなかなか楽しいのではあるが。

「も、もちろん」
「へー、さすがあの変人入江の奥さんのことだけあるね。どうかな、ちょっと僕に伝授してくれないかな」
「そんなの…」
「この間、高校三年生の子がね、彼に告白して付き合うことになったんだけど、一度は振られたせいか、態度が冷たいんだってさ」

ゴン、とものすごい音がした。
拾ったカルテを持って立ち上がろうとした彼女が、勢い余ってテーブルに頭をぶつけたようだ。
物も言わずに頭を抱えている。

「…な、なんで…」

やっとのことで振り絞った言葉がそれらしい。

「二人だけのときなら、態度が冷たい男でも所構わずキスしたりするもんかね」
「…まさか見てっ…」
「…何を?」

にやりと彼が笑うと、彼女は顔を真っ赤にして黙り込んだ。

「先生って、もしかして…」
「何だい?」
「いえ、まさかね」

大丈夫、僕は言わないよ。高校生の振りして恋愛相談室にハガキを出したことなんて。
…と彼が言おうとしたそのとき、彼に止めを刺す一言が。

「でも、ほーんとこのドクターNの恋愛相談室って、進歩ないわよねー」

廊下から桔梗幹の声が響いてきた。
ぱらぱらとめくっているその雑誌は、まさに彼が連載を請け負っているあの中高生向けファッション雑誌だった。
傍らにいるのは、入院患者の現役高校生榊原だった。

「でっしょー!もうありな〜い」

ずーんと彼は言葉もなくそちらのほうを見た。

ありえない。

聞き捨てならないと、彼は彼女をそっちのけで廊下に出て行った。

「どうしたんだい、そんな大声で」
「あ、先生。だって、ここ、見てくださいよ。
いくら中高生相手だって、この回答はない、でしょ」
「な、ないかな」

彼は引きつりながらそう答えるのが精一杯だった。

「ないない」
「ていうか、こんなとこ誰も読まないし」
「いや、でも、こういう投稿みたいなのは、結構来るらしいよ」
「えー、そんなのネタでしょ。こんなところで相談するなんてない、よねー」

彼はかろうじて耐えた。
今にも自分が実はドクターNなのだと名乗りたい衝動もあったが、今ここでばらすのはあまりにも惨めな気がした。

「あ、ごめんなさい、先生もドクターNですね」
「いや、そんな、別に本人じゃないし」

ああ、何故嘘をつかなくてはいけないんだ、と彼は内心冷や汗を流していた。

「そうですよね〜。先生なら、恋愛経験豊富そうだし、こんな回答しませんよね」
「はっはっはっはっ、そうだね」

こうなったらやけだ。
嘘を突き通すしかあるまい。
彼は若干主義に反するが、ここは嘘を突き通すことにした。

「僕ならもっとましな回答を…」

言いかけて、妙な視線を感じた。
後ろを振り返ると、入江直樹がこちらを見ていた。
あろうことか、彼が振り向いたその顔を見て、ふっと笑った。
その同情とも哀れみとも軽蔑ともいえない笑みは、彼の心に深く突き刺さった。

「ど、どうしたんですか、先生」

急によれよれと脱力した彼を心配して、患者の榊原とナース桔梗は声をかけたが、彼はそれ以上何も言わずに黙ってその場を立ち去ったという。

「…入江くん、どうしたんだろうね、西垣先生」
「…さあね。何かに当たったんだろ」
「へえ、お気の毒に」
「早く帰る用意しろよ」
「は〜〜〜い」

その後、予告もなくぷっつりと雑誌の『ドクターNの恋愛相談室』コーナーは姿を消したという。

(2010/11/21)