9.空っぽの席
入江くんが神戸に行ってしまってから、早半年あまり。
もうすぐ結婚記念日だというのに、夫婦離れ離れだなんて。
でも、入江くんはお医者さまとしての勉強に、あたしは看護婦になるべく勉強してるんだから、なんて尊い志かしら。
「琴子ちゃん、今年の結婚記念日はどうしましょう」
どうしましょうも何も、入江くんからは何にも言ってこないし、帰ってくる気配どころか電話すらもない。結婚記念日どころじゃないのはわかるけど、何か一言くらいくれたっていいのに。
「お、お義母さん…、連絡、ないんです」
「あらあら、もう、お兄ちゃんってば、電話もかけてこないなんて、夫婦としての自覚が足りなさすぎるわっ」
潤んだ目を食卓の空いた席に向ける。
そこは入江くんが神戸へ行ってから、ぽっかりと空いたままだ。
食卓の上に乗せられる食器も戸棚の中にしまったままで、さりげなく空いた皿や調味料なんかが置かれている。
お父さんはお店が休みの日しかいないし、裕樹くんも時々遅くなる。お義父さんも出張とかでいないときもあるし、何も空席は入江くんの席だけじゃないのに、なぜだか胸がきゅっとなる。
入江くんだって忙しければいない日もあったのに、未だに慣れないこの空席。
夏休みに少しだけ入江くんのマンションで生活もしたけど、一緒に夕食を食べられない日もあったというのに、どうしてこの食卓だとさみしさが増すんだろう。
記念日には、せめて電話に出てくれるといいな。
もしかしたらまたいないのかもしれないけど。
もしかしたら忘れちゃってるかもしれないけど。
こんなことなら、もっと毎日21日は結婚記念日だって念押ししておけばよかった。
どうせ入江くんなんて、今までもこれからも記念日なんてくだらないって思ってるだろうから、今更呆れられたって平気だもん。
こうなったら、テレパシーも届くように念を送り続けてやるんだから!
えーい、結婚記念日には早く家に帰ってきますように。
あたしに電話したくなりますように。
それから…。
呆れても怒ってもいいから、あたしのこと、ずっと好きでいてくれますように。
* * *
「入江先生、何見てるんですか」
振り向くと、同期の研修医が俺が見つめていた食堂のテーブルを物珍しそうに覗き込んでいる。
「いや、別に」
そう言うと、トレーを持って立ち上がった。
そろそろ午後の回診が始まる。
まさか、目の前の空席に琴子がいたらと考えていたなんて、どうかしている。
今日も琴子は学食でランチセットを平らげているだろう。
もしかしたら俺からの電話がない、とグループの連中に愚痴っているかもしれない。
ここのところ予定外の手術続きで家に帰っていないから、留守電はきっと大変なことになっているだろう。
時間がずれ込んだ昼食時間では、狭い職員食堂と言えども空席が目立つ。
いつもは空席を見つけるのが大変なくらいなのに、目の前が空いていると余計なことを考えてしまう。
マンションの食卓で、うれしそうに座って食べていた姿を見てしまったら、とても一人で座って食べる気になれない。
味気ない食卓は、マンションに帰る気すら失わせる。
ただ留守番電話を聞くために、気兼ねなしに電話をかけるためだけに帰る場所になっている。
「入江先生、明日、当直代わってもらえませんか」
教授回診が終わった騒がしい廊下で、こっそりとささやきかける声。
それが誰であろうと答えは決まっている。
「すみません、明日は無理です」
「あー、そうですか。うーん、仕方がない。米田先生に頼んでみるか」
そう言って立ち去っていく姿を見送り、広げたカルテの日付を確認する。
今日は11月20日。
明日はきっと尽きることのない話を聞かされるのだろう。
琴子に持たされたマグカップにはたっぷりとコーヒーを入れて、耳が痛くなるほど受話器を離せず、苦笑しているかもしれない。
今頃きっと、お腹が膨れて午後の実習にも差し支えるくらい大あくびをしているかもしれない。
電話の翌日は、もしかしたら大あくびでは済まないかもしれない。
ただそうやって思い出すことが増えるのは、明日が思ったよりも大事な日だと自分でも意識しているからだろうか。
記念日なんてどうでもいいと口に出すのは、何かの暗示だろうか。
それなら俺は、まんまとその暗示にかかっているらしい。
それも悪くないかもしれないと思えるのは、きっと離れているせいだと思うことにした。
(2010/11/20)