8.気付かないほど
彼は初めて会ったときから、随分と大人びて頭の良い子どもだった。
頭が良過ぎるからそういう風にしか子供時分を過ごせなかったのかもしれない。
礼儀正しい、それでいて少しだけ退屈したような口調で挨拶をされた。
小学生の子どもにありがちな騒がしい雰囲気は全くなく、妙に落ち着いた態度。それでもその澄んだ瞳の奥には、ひどく純真無垢な好奇心も見え隠れしていたのを感じていた。
彼の第一印象では、オレの存在はとりあえずこの場だけ取り繕っておけば大丈夫な部類、と判断されたようだった。
実際それから後、彼に会ったのは随分と見目のいい青年になってからのことだったから。
男手一つで育てた琴子は、母親の気性をそのまま受け継いだような天真爛漫な娘で、正直頭がいいとは言い難く、運動神経もちょいと人さまより良いとは言えない。
惚れっぽくてなかなかに根性のある琴子が、見目のいい直樹くんに惚れたのは、当然と言えるかもしれない。
オレの娘が悪いとは言わないが、社長令嬢と比べられては、さすがにだめだろうと思ったものだ。
何だかんだと結局は直樹くんと結ばれたんだから、琴子にとっては存外な幸せだろう。
そこまで惚れきった直樹くんが、家を離れて神戸へ研修に行くという話を聞いたのは、ほんの数日前のことだった。
どうやら直樹くんの中では決定事項のようで、その言葉に琴子は真っ青になって反対した。
何がきっかけか、会社経営していたイリちゃんの反対を押し切って医者への道を歩き出した直樹くんが決めたことだ。何か理由があるんだろう、くらいに思ったが、琴子にとってはそうはいかない。
多分あいつもわかってはいるんだろうが、離れることが出来ないその一点張りで、直樹くんが何を考えてそれを決めたのか、全く考えちゃいないようだった。
ありがたいことに、奥さんは琴子をかわいがってくれているので、いきなり別離を言い出した直樹くんよりも琴子の味方で、直樹くんが苦渋の表情のまま過ごしているようだった。
奥さんの様子では、またもや琴子は直樹くんと向き合うことなく部屋にこもっているらしい。
逃げることなく突進するのがあいつのいいところだと思っていたんだが、直樹くんに関してはとことん自信がないらしい。
それも惚れた弱みってやつか。
* * *
仕事が終わり、夜中にいつもこっそり帰ってくるのだが、今日は玄関に入った途端にお帰りなさいと声をかけられた。
誰もいないと思っていたので、危うく大声を出すところだった。
振り向くと直樹くんで、話があるという。
おそらく琴子のことだろうとは思ったが、リビングに行くと、直樹くんがコーヒーを持ってきてくれた。
琴子は相変らずこもったまま、直樹くんと話をしていないという。
顔を合わせれば黙り込み、話しかけられるのを避けるように用事を作ってその場からいなくなる。
しかし、実際直樹くん自身でさえもどうしたらいいのか迷っているのだという。
琴子が離れることを快諾するとはもちろん思っていなかったが、こうまで落ち込まれると話すらもしにくいのが現状だろう。
夫婦は離れちゃいけないってのはもちろんそう思うが、何年も離れるわけじゃないし、直樹くんのためになることを琴子が気付かないわけじゃないだろう。それでもやめになるならそれに越したことはないというのが大方の意見だ。
話をしているうちに、直樹くんが琴子を神戸に連れて行こうかと言い出した。
多分それはこの数日ずっと考えていたことじゃないかと思う。
琴子は喜ぶだろうが、直樹くんの勉強には妨げになるだろう。あいつは限度ってものを知らないから。
しかし、連れて行ったとしても、直樹くんは忙しくて琴子に構ってやれないだろうという。
聞いた話によると、研修医というのはそれこそ家に帰る暇もないくらい忙しいのだという。
付いていったはいいが、誰も知る人のない神戸で、直樹くんの帰りを一人で琴子は待てるだろうか。頼る人のいない神戸では、泣きつきに行く友人も新しく一から作らないといけない。さみしいときに慰めてくれる家族もいない。
もしかしたら、持ち前の根性で跳ね返すかもしれないが、残り一年は琴子にとって大事な看護婦になるための勉強の期間だ。しかも頭も決して良くない琴子が、今から看護学校の編入試験など受かるだろうか。
それらの心配事を、直樹くんは一人で請け負っていたようだ。
ここまで考えてくれる直樹くんを琴子は知っているのだろうか。
「あいつ、俺があいつに惚れてること、あんまり知らないみたいだから」
そっと言ったその言葉を、誰よりも琴子に聞かせてやりたかった。
琴子の表に出ている、目に見える分だけの愛情があまりにも過剰で、琴子だけが直樹くんを想っているように見えるが、直樹くんのさながら水面下の深く静かな愛情だって、決して負けるものでもないだろうと思ったのだった。
勝ち負けはおかしいかもしれないが、オレはそう思ったね。
「…直樹くんの想いを、あいつはわかっていないわけじゃないと思うんだよ。あいつの愛情は火山の噴火みたいにどっかーんと激しいし、休火山みたいにいつまでもしつこいし…」
直樹くんがふっと笑った。
「我が娘ながらいろいろ迷惑もかけてるとわかってるが、とにかく直樹くんのことを好きなのは確かなんだ。もう一度きちんと話し合えば、あいつも納得する結論が出ると思うよ。
それがたとえ神戸で一緒に苦労することになっても、二人で選んだなら、あいつはちゃんとやれると思うがなぁ」
「…そうかもしれませんね」
「もしも離れることになっても、イリちゃんたちやオレや裕樹くんもいるしな。気も紛れるだろう。それに、琴子にはたくさんのいい友人がいるから、みんな気にかけてくれるさ」
「はい」
二人でコーヒーをすすって、これからに思いを馳せる。
こうやって琴子のだんなとして向き合えるようになったことが、未だ信じられない思いだ。
「お義父さんは、琴子を育てるのに、一人でいろいろ決断してきたんですね」
「いや、そんな決断なんて格好のいいもんじゃない」
突然そう言われてオレは照れて笑った。
「オレも頭は良くねえから、なるようにしかならねえとやってきただけのことだよ」
照れくさくて、飲み終わったコーヒーのカップを持って立ち上がると、直樹くんも立ち上がってカップを片付け「遅くにすみませんでした。おやすみなさい」とだけ言って、部屋へ戻っていった。
その後姿を見て、明日(もう日付が変わっていたから今日だが)は早起きしてちょっと琴子と話をするか、と思ったのだった。
* * *
さすがに眠い朝、大学へ行こうとする琴子を呼び止めた。
「何、お父さん」
既に直樹くんは先に大学へ行ってしまったようだった。
「直樹くんとのことだが…」
「…うん、わかってる。ちゃんと話すよ。入江くんを困らせたいわけじゃないもん」
「…ああ、わかってるならいい。あんまり、わがまま言うんじゃないぞ」
「わかってるよ」
「ん」
「…いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
出かけていく娘は変わらない姿なのに、娘とは違う顔で返事をする。
部屋に戻り、悦子の遺影を見てふとつぶやく。
「母さん、嫁ぐってこういうことなのかもなぁ」
部屋の外の冷たい空気が身体を冷やし、少しだけ肩をすくめると、もう一度布団の中へ潜った。
直樹くんの卒業式まで、あとわずか。
どういう結論になるのか、この先は黙ってみていようか。
すぐに温もりが戻ってきて、まだ早い春の門出を思うのだった。
(2010/11/17)