5.何度でもキスを
その言葉を口にしたのは勢いだったけど、吐き出した言葉はずっと心のどこかに引っかかって思っていたことだった。
結婚したときからずっと思ってた。
入江くんは本当にあたしのこと好きなのかしら。
結婚してもいいって思うほど好きなのかしら。
ちょっと金ちゃんにプロポーズされたから、なんとなく惜しくなっただけじゃないかって。
入江くんの言葉は信じたい。
あたしを大好きだって言ってくれた言葉。
あたしとの子どもがほしいと言ってくれた言葉。
その言葉ひとつひとつは、きっと本当にそう思って言ってくれたんだってことを。
夜道を歩きながら、あたしは考えていた。
口に出してはいけなかったのに、どうしても言わずにいられなかった言葉。
もしかしたらすぐに否定してくれるんじゃないかって。
そんなことないよって追いかけてきてくれるんじゃないかって。
追いかけてくれる姿が見えないことが怖くて、振り返ることもできなかった。
暗くて静かな住宅街を抜ける頃には、もうだめなのかもしれないと道路に伸びる影をぼんやりと見ていた。
片想いで、クラスが違って、姿が見えるだけでもラッキーだったあの頃のあたし。
初めて会話したときの緊張感。
一緒に住むようになって、あたしは忘れていたのかもしれない。
面倒なことは嫌いだと言っていた入江くん。
勉強しなくちゃいけないのに、いつも邪魔をするあたし。
もう結婚してるのに、そんな色恋沙汰を生活に持ち込むのは間違ってる。
あたしが最初にきっぱり断ればよかったのに。
それとも本当はもう愛想が尽きていたのかもしれない。
他の男にドキドキするあたしなんて、もう必要ないのかもしれない。
完璧な入江くん。
ぜんぜん完璧じゃないあたし。
最初から、お似合いでもなんでもなくて、どうしてあたしと結婚してくれたのか、もう、わかんないよ…。
* * *
どうしてすぐに追いかけなかったのか。
叩いた掌を見つめて、書斎の椅子に座っていた。
今夜はクリスの家に泊まるという。
迎えに行くべきなんだろう、本当は。
仕上げなければいけないレポートが机に広げられている。
手を組んで、意味もなく机の前の額に目を向ける。
勉強の合間に息抜きができるようにとかけられたその額縁には、琴子が撮ったらしい九州の風景写真が入っている。
金之助の言葉が消化できないまま頭の隅にこびりついていた。
すぐに追いかけられなかった理由は、多分琴子の口から出た「啓太」の名前。
結婚してからも決して優しくはなかっただろう俺の態度。
琴子は俺の愛情を疑っている。
もしも琴子が鴨狩を選ぶなら、それはきっとその報い。
これは嫉妬なんだろうか。この俺が?
いつでも俺のことだけを見ている琴子を知っていて、いったい何を嫉妬するんだ。
琴子が俺にぶつけた言葉に少しだけほっとしたのも事実。
琴子はやっぱり俺が好きなんだと。
どれだけ冷たくしても、それでもまだ俺が好きだと言った言葉に。
今日は思考がまとまらない。
目の前のレポート。
金之助の言葉。
鴨狩の挑発的な態度。
琴子の口から出る言葉。鴨狩の名前。
レポートをあきらめて書斎を出る。
おふくろがわめいている言葉は素通りしていく。
食卓には出来上がった夕食が並んでいたが、食欲はなかった。
イライラする原因だった琴子が目の前にいないのに、今度は目の前にいないことにイライラする。
そのまま寝室へ戻ったが、多分今夜も眠れない。
眠れないのを理由にレポートを仕上げてしまえばいいのに、やる気が出ない。
書斎は琴子が投げた本が散らばったままだ。
俺は今でも琴子を嫌いにはなっていないのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
月明かりも細い外を見ながら、今夜もため息ばかりつく羽目になりそうだった。
* * *
入江家を飛び出した翌日、あたしは飲みすぎて二日酔いだった。
啓太が差し出してくれた二日酔いに効くというドリンクを飲むと、少しだけすっきりした。
おまけに、啓太が真面目な顔をしてあたしを好きだと言ったので、一気に頭痛も引っ込んだ気がした。
あまりに真剣なので、あたしは逃げることもできず、ごまかすこともできずにいた。
今度こそちゃんと言おう。
それでも啓太は痛いところをついてくる。
そう、入江くんは追いかけてきてくれなかった。
啓太はあたしが必要だという。
でも、あたしには入江くんが必要なんだよ…。
そう思ったとき、食堂の入り口に入江くんが現れた。
それからのことは、あたしにとって信じられないことばかりだった。
だって、入江くんが啓太に嫉妬してたことだとか、入江くんにはあたしが必要だっていうこととか、そんな感情の正体を金ちゃんに教えてもらったことだとか。
入江くんがあたしを必要だって、みんなの前で言ってくれたことだけでもうれしいのに、ずっとそばにいてもいいんだって言ってくれた。
ずっと入江くんが冷たかったことも、結局は入江くんの嫉妬のせいだってことがわかって、あたしは心底ほっとした。
二人で久しぶりに帰る道すがら、入江くんは意地悪そうに言った。
「鴨狩に言い寄られて、まんざらでもなかっただろ」
「そ、そんなこと、ない」
「へー、はっきり断ったんだ」
「そ、それは、もちろん」
「自分でも気づかなかったけど、どうやら俺は結構…」
「え、何?」
あたしはその続きを聞こうと入江くんの顔を見たけど、入江くんは微笑むだけで何も言わなかった。
首を傾げたあたしにキスが落とされた。
もう、ずるいなぁ。
ごまかされたのはわかっていたけど、あたしはそれ以上聞かなかった。
暗くなってきた道で手をつなぎ、二人で家路を急いだ。
だってね、もっとたくさんキスをしたい。
今までの分、甘くて、とろけるようなキスをしよう。
たくさんたくさん、何度でも。
それから、何度でもキスをして、何度でも言おう。
入江くんが、大好きだって。
(2010/10/24)