イタズラなKissで10題



5.何度でもキスを(ver.2)




「紹介します、僕の妻の入江琴子です」

この言葉を聞いたとき、あたしは本当にうれしくて幸せだった。
だって、みんなの前であたしが奥さんだって認めてくれた気がしたから。
そしてそのとき気づいたの。
それが入江くんにとってどれだけ大切なことだったかを。

テニスウエアとスコートのままだったあたしをまたタクシーに押し込んで、入江くんとはホテルで別れた。
本当は入江くんと帰るつもりだったけど、まだ入江くんは会社の用事がいろいろ残っているようだったし、あたしはこんな格好だし、なんと言ってもあたしじゃ役に立たないことだらけで、タクシーの窓から久しぶりの笑顔を見ながら先に帰ってきたのだった。
またじんわりと泣けてきたけど、隣から「琴子ちゃん、寒くないかい」と声をかけられてはっとした。
そう、隣には疲れるといけないからと先に帰されたお義父さんが一緒だったのだった。
「大丈夫です」
そう答えて、あたしは一つため息をついた。
先ほどまでの騒動が嘘のようで、まだ夢心地だった。
「あいつにはいろいろ苦労をかけてしまったなぁ」
お義父さんはしみじみとそう言ってからあたしの顔を見て慌てて付け加えた。
「いや、琴子ちゃんにも迷惑をかけて」
「いえ、そんな。あたしこそ…」

つい数日前、会社に乗り込んで迷惑も顧みずにわめいたのはあたしのほうだ。
入江くんのやってることもわからず、入江くんを信じることもせず、ただ自分の想いだけをぶつけてしまった。
会社にまで乗り込んだことは悪かったと思ってる。それでも、思い切って入江くんに自分の気持ちが言えてよかったって思う。
あたしは今でも入江くんと結婚したことが少し信じられずにいる。
ずっと片想いだと思っていたせいか、この結婚はいつもの入江くんのただの気紛れでしたことだっていう思いが付きまとう。
ずうずうしいって言われるけど、入江くんが感じているずうずうしさの半分も気持ちを言えてない気がするから。
本当は新婚らしく毎日好きって言ってほしい。
それなのに、新婚早々好きと言うどころか顔も合わせないなんて思わなかった。
新婚さんは毎日おはようのキスをして、いってらっしゃいのキスをして、おかえりなさいのキスをして、おやすみなさいのキスをするんだって思ってた。
も、もちろん入江くんがしてくれるかっていうと、それも怪しいんだけど。
結婚して奥さんになったのに、奥さんとして認めてもらっていないのかな、とか、やっぱり結婚は早すぎたって思っていたんだろうかって不安がどんどん膨らんで、もう何も言えなくなりそうだったから。

入江くんはあたしの変な自己紹介の後で、何も言わなくて悪かったって言ってくれた。
言葉を返す前にあたしも入江くんもすぐに他の人に囲まれてしまって、それ以上二人だけで言葉を交わすことができなかったんだけど、きっと入江くんは言いたくても言えなかったんだよね。もう、それだけでいいやって思ったあたしは、他の人に囲まれてしまった入江くんをそっと見た。
ふと入江くんがこちらを見て笑みを浮かべた。
それだけであたしは幸せな気分になって、手に持っていたグラスの中のジュースが揺れてこぼれるほどに震えてしまった。
どうして忘れてしまっていたんだろう。
目が合うだけでその日一日が幸せだと思えたこと。
同居するようになって、結婚までしてしまって、それなのに会えなくって、そんな気持ちもどこかへ行ってしまっていたんだろうか。
スコートの裾をぎゅっと握って、家に帰りつくまで何も言えなかった。

その日、入江くんは夜遅く帰ってきた。
会場で見たときよりもどことなくシャツもくたびれていて、緩められたネクタイにあたしはドキドキしていた。
「風呂は?」
「は、入れるよ」
開口一番それだけ言って、入江くんはお風呂場へ直行した。
そう言えば会社に寝泊りしていた間、お風呂とかどうしてたのかな。
昼間に着替えを取りに帰ってきたこともあったらしいから、そのときにシャワーを浴びていたのかな。
この2週間ずっと抱きしめてもらっていないし、キスもしていない。
入江くんが寝ていない寝室は、まだ一緒の部屋になってから間がなかったから、入江くんの匂いも消えてしまっていた。
放り投げられた背広をハンガーにかけながら、少しだけ匂いをかいでみた。
タバコとアルコールのような匂いに混じって、入江くんの匂いがした。
入江くんが戻ってきた。
入江くんが階段を上がってくる音がして、あたしは慌ててハンガーを引っかけた。
髪から滴り落ちる水滴を振り払って、入江くんは入ってきた。
「今日で会社辞めてきた」
「えっ、ほ、本当?」
「ああ。まだ引継ぎがあるけどね」
入江くんが開発したゲームソフトの売り上げ成功は約束されたようなもので、これでようやく会社を立て直すことができるだろうとなったらしい。
入江くんは後を託して、大学に戻って勉強を続けられる。
入江くんに差し入れたお弁当の卵焼きには、卵の殻が入っていたらしい。
…カ、カルシウムよ、カルシウム。だって、入江くん疲れてたから、イライラしただろうし。
そんなあたしの言い訳をふーんという顔で受け流して、入江くんは顔を近づけた。
ゆっくりと唇が重なると、入江くんに会いたくて会いたくて仕方がなかったんだって実感した。
「入江くん、会いたかった」
いつもならここでもう一度…というところなのに、妙に間が空く。
あれ?と思っていると、微かな寝息。
そのまま入江くんは倒れこみ、完全に眠ってしまっていたのだった。
まだ濡れ髪のままベッドに突っ伏してしまった入江くんは、いつものりりしい入江くんではなく、むしろあどけないくらい健やかな寝息を立てている。
「おつかれさま」
あたしは入江くんの髪にキスを落とした。
明日また、キスをしよう。
おはようといってらっしゃいと、おかえりと、おやすみと…。

(2010/10/24)