4.雷雨の中で
空が鉛のように重く低くなってきたようだった。
大学を出て車に乗り込む前に見た雲は真っ黒で、今にも雨が降りそうだった。
家へと向かう車はスムーズに走り出したけれど、私の心は走り出そうとして足踏みしている。
つい先日まで、この上なく心惹かれる方と出会い、私の心は浮き立っていた。
たとえあの人が会社の社長じゃなくても、私は多分心惹かれたに違いない。
理知的で、優しくて、何にでも精通している聡明な人で、理想的といってもいいくらいの方なのだから、おそらく周囲の女性からももてていたに違いない。
おじいさまに伺った話では、大学でも会社でも注目されていて、学業でもスポーツでも常に成績優秀な方だという。
おじいさまが是非にと願う気持ちも良くわかる。
今まで持ち込まれた見合いの相手の方々とは違う。
このまま断られることがなければ、私はあの人と結婚することになるのだと思ったとき、見合いも決して悪くはないと思ったのだった。
高校生の頃から同居しているという女の子にも不安を感じたけれど、彼女はとてもいい人だった。一緒に住んでいたので家族同然なのかもしれない。
そう思うことで不安な気持ちを押し殺した。
あの人の前で、そんな風に嫉妬した姿を見せるのは、どうしても嫌だったのだ。
嫌われたくなかった。
あの人と結婚したかった。
このまま黙っていれば、そのまま婚約までいってしまうはずだったから。
そして、もし無事に結婚できたなら、私はあの人のよき妻になって一生を捧げようと決めていた。
あんな素晴らしい人が私と結婚してくれるのだから、そんなことは造作もない。
「今日はお寄りになるところはありませんか」
「ええ」
「それではこのままご自宅へ向かいます」
運転手の声をきっかけに、私は物思いに耽っていた顔を上げ、窓の外を見た。
渋滞している道の外では、ちょうど雨が降り始めたところだった。
車の窓に雨粒が当たって景色をにじませていく。
デート中の彼女と会ったのは、つい昨日のことだった。
紳士的なあの人が、彼女に言った言葉はとても辛らつなものだった。
「大丈夫、沙穂子さんにはあんな事言いませんよ」
あの人はそうやって笑った。
笑った横顔が自嘲的で、何だかとても悲しかった。
見ない振りをすればいい。
あの人だけを見ていればいい。
繰り返し、言い聞かせるように眠りについたのは、何を恐れているのか。
眠れずに寝返りをうったのは、何が不安なのか。
時々空が鈍く光り、かなり遅れてから音が響く。
雨はますます激しく降り、窓の外は雨に濡れて見えなくなる。
静かだった車の中にも響く雨音と雷に耳を傾け、私はそっと目を閉じた。
* * *
割れた食器を黙って拾い始めた。
店の外から道路にたたきつけるような雨の音が聞こえてきた。
この雨の中を琴子は帰ったんやろか。
そう思いはしたが、かちゃかちゃと触れる食器の音が責め立てるように店の中に響いて、動けなかった。
座り込んだまま割れた食器をただ手の平に集めていく。
おれやったら琴子のことだけ考えて、琴子のためだけに何でもしたる。
入江なんて結局はどっかの社長のお嬢を選んだやないか。
それでも琴子の口から飛び出したのは、「入江」の一言やった。
もしももっと慎重に琴子の気持ちがおれに向くのを待ってたら、何か違ったんやろか。
琴子が入江に片思いしてた分、何年でも待ってたらよかったんやろか。
ほんでも、そんな悠長なこと言うてたら、琴子は入江の結婚に傷ついて、どこかへ行ってしまうやもしれんかったから。
そんな言い訳をして、おれは琴子の気持ちを急がせたんやろか。
手の平に食器を乗せたまま、店の裏口から外へ。
ドアを開けた途端に雨粒が降り注ぐ。
無言で燃えないごみ入れのふたを開け、食器を捨てる。幸い手に傷はつかなかった。
職人の手は傷つけたらだめだとくどいほど言われていたことを思い出した。手を傷つけるとばい菌が繁殖するから、しばらく食材を扱わせてもらえなくなる。店は生ものを取り扱うから、食中毒を出すわけにはいかないと職人は皆気を使っていた。
それなのに手の平に割れた食器を乗せても気がつかないくらい、ただ片付けるという行為だけを黙々とこなしていた結果だった。
元通りふたを閉めたまま、ぼんやりとしていた。
次から次へと雨が降り注いだが、そのまま立ち続けていた。
琴子は、これからどないするんやろか。
入江がお嬢と結婚したら、あの家には住めへんやろう。
店を手伝うにしても、俺がおったらやりにくいんちゃうやろか。
店をやめたほうがええかもしれん。
大将の元でここまでにしてもらった恩も返さへんうちにやめるっちゅうのは、どうやろか。
濡れた服のまま食器を洗い続ける。
いくら今日は店が休みでも、明日は営業するため、一日店を貸してもらった恩はきっちり返さないといけない。仕込みもやっておきますといった手前、このまま自分の気持ちにかまけて帰るわけにもいかない。
ぼんやりと立っていた間に少し頭が冷えたのか、そんなことを思いながら片づけを済ませ、仕込みに入る。
味を含ませるには仕込みが大事だと教わった。
鍋に手をかけて、ふと気付く。
なんで入江を思ったままの琴子じゃあかんかったか。
激しく降っていた雨の音が、少しずつ間遠になっていく。
激しい愛情だけでは幸せにはできないとわかっていた。
少しずつ降り続ける雨のように、もっと穏やかに好きでいられたらよかったのかもしれないが、それはやはり自分の性分ではないのだと、必要以上に蛇口をひねって雨の音を遮った。
(2010/10/15)