カ
書斎から下りてくると、リビングから嫁姑とは思えない会話が聞こえてきた。
「どうですか〜」
「ほーんと、琴子ちゃんマッサージ上手ねぇ」
「腕上がったでしょう」
「ええ、そりゃもう」
「えへへ、お義母さんが嫌がらずに付き合ってくれたお陰です」
「そんな、可愛い琴子ちゃんの頼みだもの。お兄ちゃんには本当にもったいないくらい。もう、あんな愛想なしの息子の嫁に来てくれてありがとう」
「そんなことないです、入江くんが結婚してくれるなんて思わなくて」
「そうよねぇ。我が息子ながらいまいちわかんない男よね〜。このマッサージだって、本当はお兄ちゃんのためでしょう」
「えー、そんなぁ」
「お兄ちゃんはいなくてもそんなにさみしくなかったけど、琴子ちゃんがいなくなるなんてもう考えられないわ〜。これからも、母娘として仲良くしてちょうだいね」
「はい、お義母さん」
「ああ、おかあさん…なんていい響き…」
二人揃ってうふふとやけに楽しそうだ。
いつの頃からか、おふくろと呼ぶようになって、少々不満気だったのは知っている。
おまけにこんなに愛想のない息子に加え、兄の俺に追随するような弟の裕樹。
そりゃおふくろはつまらなかっただろう。何より娘が欲しかったのだから。
それがお気に入りの琴子が嫁になって誰よりも喜んだのは実はおふくろなんじゃないだろうかとまで思う。
確かに俺が家を出たときよりも琴子とお義父さんが家を出たときのほうがダメージが大きかった。
リビングに入っていき「琴子、コーヒー」と声をかけると、「あ、入江くん、すぐ入れるね」と琴子がパタパタとキッチンに行く。
「お兄ちゃんもやってもらったら」
「何を」
「マッサージ。琴子ちゃん、お兄ちゃんのために腕を上げたのよ〜」
「何で」
「お兄ちゃんが最近やたらと首を回してるからよ。会社、忙しいんでしょ」
「もう目処がつく」
「あら、そうなの。疲れた夫のためにマッサージの腕を上げるなんて、妻の鏡ね。会社は手伝えないからって」
俺は会社でのバイトの惨事を思い出す。
手伝おうとして散々迷惑かけたことは記憶に新しい。
「はい、入江くん、コーヒーどうぞ」
「ああ」
コーヒーを受け取って飲みだすと、おずおずと琴子が言い出した。
「入江くん、あの…肩、もんであげようか」
「いや、別に凝ってない」
そう言えば、無言の圧力が隣のおふくろから感じた。
琴子は残念そうにこちらを見ている。
「………じゃあ、やってくれ」
飲み終わったコーヒーを置いて、仕方なくそう言う。
琴子の顔が満面の笑みに変わった。
琴子と一緒にいるようになってから、それまでしなかった苦労や肩凝りを経験した。
そこまで困った経験をしたことがなかったからかもしれない。ある意味新鮮だったのは確かだろう。
「思ったとおり、結構入江くんの肩凝ってるよ?」
確かに琴子が揉んだ所がほぐされる感じがする。
そんなことを思った瞬間、フラッシュがたかれた。
「おふくろっ」
「あーん、だって、琴子ちゃんにマッサージされるお兄ちゃん、初めてなんですもの。貴重じゃない。美しい夫婦愛のメモリーよ」
「もういい」
「あ、入江くーん」
おふくろに付き合っているとほぐされた肩がまた凝る感じがする。
カメラを抱えるおふくろを振り切って階段を上り始めると、琴子が後からついてきた。
「少しは気持ちよかった?」
そう言って階段の下から見上げてくる。
そう言えば最初にもらったプレゼントが低周波治療器だった。
いつの間にか電池も切れて、机の奥深くにしまってあるが、この分だと当分必要ないかもしれない。
階段を上りきり、二階に着いたところで返事をする。
「まあな」
「ふふふ、よかった」
「お返ししないとな」
「え、そんな」
そう言いながら、何を返してくれるのかと期待に満ちている。
俺は自分の下心を隠さずに笑う。
俺の顔を見た琴子は何かを察したのか「えーと、何を…」と言いながら再び階段のほうに後退りしようとする。
「そりゃもちろん」
それ以上は言わず、ただ寝室のドアを開けて、ほら入れと促す。
結局、 肩凝り は、言い訳。
(2013/10/03)
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キ
アルコールでもない。煙草でもない。ましてや麻薬でもない。
そんなものに中毒なんてあるのかとバカにしていた。
まだ自覚のなかった日々のことだ。
その日は朝から何だか物足りなかった。
ただ、具体的に何が足りないのかよくわからなかった。
強いて言えば、朝から騒がしいのがいなかったことか。
朝のコーヒーは作ってあったので、おふくろに入れてもらったのを飲んだ。
いつもは玄関を出ようとすると慌てて追いかけてくるのだが、今日は大学の都合で早いのだと先に出かけていなかった。
まあ、大学の都合というよりは、成績の悪いあいつの都合だろうが。
帰りは文化祭が近いだとかで何やら居残っていたし、ちらりと様子を見に来るはずのお昼時も俺自身が学食に行く暇がなくて行かなかった。
授業の後も実験のために研究室にこもっていたし、あいつがもぐりこんでくることすら不可能だっただろう。
邪魔されずに済むので、物事はスムーズに進む。
周りは「今日は来ないねー」などと辺りを見回していたが、来ないからどうだって言うんだ。
つまり、その日は一度も顔を見ていなかったということになる。
帰りの電車を待っていると、偶然あいつが友人と一緒にやってきた。
振り向かなくてもわかる。
その騒がしい声は楽しそうに話しながら近づいてきていた。
「あ、入江くん」
随分離れていたと思うのだが、その声は俺の耳に届いた。
ああ、とうとう現れやがった。
「入江くーん」
もう今更だが、駅の構内で大きな声で呼ばれる身にもなってみろ。
「今帰り?偶然だね、あたしもなの」
それでも返事をせずに黙っていると、後ろであいつの友人二人がぼそぼそとしゃべる。
「怒ってるよね。ほら、青筋立ってる」
「琴子って空気読まない天才」
全部聞こえてるんだよ。
そう言って怒鳴ってやりたかったが、そう言えばまた「ほら怒ってる」と言われそうだったので、何も言わず立っていた。
ただ、隣でちょろちょろと動くあいつは、視界に入ったり出たりを繰り返す。
小動物のように落ち着きがない。
「今日は一度も入江くんに会えないままだったからよかったぁ」
そう言ってまさに文字通り胸をなでおろす。
「うるさいから大声出すな」
「あ、ごめんなさい」
そして、そのままいいとも悪いとも言わない俺に遠慮することなく、電車が着いて乗り込むまで今日の話題を勝手に話し出す。
本当に騒がしい。
ただ、それがどうでもいいと思えるようになった。
高校の頃のようにいちいち怒鳴りつけることもなくなったし、わざわざ離れて乗ろうという気も起きなくなった。
せいぜいため息をついてどうでもいい話題をシャットアウトするだけだ。
そう、それが日常で当たり前になったのが不思議だった。
そして、物足りなかったのがその騒がしい雑音だったことに気づく。
毎日繰り返される戯言は、いつの間にか当たり前のものとなる。
多分あいつのことが好きなのだと気づいてからはなお一層。
毎日はどんどんあいつで侵食されていく。
そんな俺があいつから離れたときは、まさかそれがそういう症状だとは思いもしなかった。
物足りないのはわかる。
あれだけ騒がしかった環境から一人になったのだから、と。
そんなバカなこと、あるわけないと思っていた。
あいつの声が聞けない、顔が見えない、バカな会話もすることもない、そのバカバカしいまでの行動全てが必要だなんて。
ここまで来たら、末期症状。
医者じゃなくてもわかる。
患者にはただ残念ですが、と言うほかはない。
それは多分、あいつが足りない 禁断症状 。
(2013/10/04)
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ク
「でも、好きだからね」
「耳にタコ」
そんなやり取りは、今までも何回もあった。
普通はそこまで好意を見せていたら、相手が調子に乗るとか、都合のいい相手にされるとか、そういうことを考えないんだろうか。
だからなのか、あいつが俺のことを好きだなんてこと、当たり前だと思っていた。
冷たくしようがあいつが俺のことを嫌いになれるはずがないと、そう思っていた。
見せつけるために他の誰かとデートしていても、他の誰かと付き合うことはない、と。
あの夏の日から、まともに顔を見ることも口を利くこともなかった。
結婚しているのだからとか、あいつは俺を好きなはずなのだからとか、言い訳はたくさんある。
そもそもあいつに何か非があったわけではない。
見ているとイライラするのは、あの男を思い出すからだ。
結婚していようが、好きなものは好きと言えるからか。
結婚してもなおその言葉を言えないやつもいるというのに。
言葉一つ言わないだけで、離れていかないと嘯いていた。
それが間違いだと気づかされた。
結婚するときと同じ過ちを繰り返すのかと。
気持ちは確かにあるのに、黙っていては伝わらないのだと。
今まで欲のなかった俺にも、欲しいものはできたのだと声に出す必要があった。
今まで言わなかった気持ちを伝えること。
「入江くん、好きだからね」
「…ああ」
「もう一生離れないからね」
「覚悟してる」
「さみしかった」
「…悪かった」
「…いっぱい、キスして」
ささやかな望みを告げるそれを叶えること。
誰よりも必要だと告げること。
一生離れないと抱きしめること。
繰り返しキスをして、繰り返し名を呼ぶ。
もう他の誰でもいいわけじゃないと伝えること。
そして、 繰り返しささやく 、愛の言葉。
(2013/10/06)
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ケ
「入江くんのバカ!」
そう言って部屋を飛び出していった。
俺はため息をついて勢いよく閉まったドアを見つめた。
これで何度目だ。
もちろん心配ではあるのだが、意外にあいつの行動範囲は狭い。小学生の家出かと思うほど。
多分今なら近くの公園か。
「お兄ちゃん!!」
どたばたと下っていた足音の後に聞こえたのは、怒り狂って勢い込んだおふくろの足音。
階段の下からでも聞こえる大きな声で一声そう叫び、先ほどの琴子とは逆に勢いよくドアを開けてわめき散らした。
「琴子ちゃんにいったい何を言ったの!早く追いかけなさいっ」
「おふくろには関係ない」
「あなたたちは何回こういうけんかをしたら気が済むの。もうちょっと琴子ちゃんに対する言葉を選びなさいとあれほど…」
おふくろの言葉を無視して立ち上がると、部屋を出て行く。
出て行く前に琴子が持ち忘れた上着を持っていく。今の季節、夜は少し冷えるだろうから。
財布も何も持たず、毎回一体どこに行く気だ。
そう思いつつも結局は無事を確認に出て行く。
最終的に琴子の前に出るかどうかは別として。
大体毎回捨て台詞が「バカ」とは、学習能力がなさ過ぎる。
正直、あいつにバカと言われるのは心外だ。
対人能力は確かに若干劣るかもしれないが、バカと言われるほどのことはない。
たいていはいつも琴子のわがままと誤解だ。
気づいていないかもしれないが、結婚する前もしてからも、嫌いと言った覚えは一度もない。
迷惑だとか気に入らないとは散々言ったのに。
恐らく嫌いだと一言言えばそれで済んだときも、何故か選択肢になかった言葉。
好きとも言えなかったが、嫌いとも言えなかったのだと気づいていたのかどうか。
「…また言っちゃった…。あたしのほうがずっとバカなのに」
ああ、本当に。
聞きなれた声に公園の入口でたたずむ影を見つける。
いつもいつも何かとけんかになる。
一方的に吹っかけられるけんかも口論することも、おまえだけだって気づいてるか。
関心のないやつとはけんかにならない。
それは高校までの俺の生活。
おまえが置物だって?
俺をこれだけ不愉快にさせる置物なんかあるか。
話にならないと口論を打ち切ることもできるのに、ついおまえの言い分を最後まで聞いている俺は、随分と人間らしくなったと思わないか。
世間ではこういうのを何て言うか知ってるか。
(2013/10/07)
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コ
たかが紙切れ一枚。
そう思っても、それは大事な契約。
一生共にする約束。
「入江くん、あたしたち、本当に夫婦になったんだね」
大学からの帰り道、琴子がそう言ってはしゃぐ。
届けを出すまでの騒動を思い出すと今でも苦々しくなるというのに。
朝のテンションを帰りまで保ってるおまえがむしろ凄いよ。
「それでね、それで…もう一度言ってくれないかな」
「何を」
「えーと、『奥さん』って」
俺は思わず無言で琴子を見る。
「あ、奥さん」
「おー、入江の奥さんだー」
大学からの帰り道なので、大学のやつらも多い。
「よかったな、呼んでもらえて」
「ちっがーう。うれしいけど、なんかちがーう」
駅までの道の商店街で声がかかる。
「よ、とうとう奥さんになったんだって?」
「ほら、奥さん、奥さん、今日はお買い得だよ」
いつも通る道でまで有名な琴子。
狙ったかのように商店街の人から声がかかる。
思わず吹き出すと、琴子は真っ赤になって言った。
「ありがとう。って、ちがうのー!ちがうのよー!入江くんに言ってほしいのっ。
もう、何で笑ってるのよ、入江くん」
「いや、何で知ってるんだろうって俺は思うけどね」
「えーと、お昼のときにね、その…」
うれしくてはしゃいで買い物ついでにしゃべりまくったんだろ。
今時奥さんと言われただけでここまでテンション上がるとは思わなかった。
「若いうちはいろいろ苦労するもんだよ」
「…いろいろ既に苦労しっぱなしだけど、こいつといると」
「琴子ちゃん、旦那さんに迷惑かけちゃだめだよ」
「そ、そんなことは…。ちょ、い、入江くん、何でそんなに笑ってるのよ」
とうとう我慢できなくて、俺は大笑いした。
商店街の人にまで心配されるって、どんな女だ。
「も、もう、恥ずかしいじゃない」
琴子はあたふたと慌てて俺の笑いを止めようとする。
大学のやつらは俺が大笑いしてるのを見て驚いている。
「これで名実ともに喜びのときも悲しみのときも、だろ」
琴子は目を見開いて俺を見た。
「う、うん」
「じゃ、早く帰ろうぜ、奥さん」
歩き出した俺の後を慌てて追いかけてきた。
「い、入江くん!」
琴子が飛ぶようにして腕をつかむ。
「なんだよ」
「死が二人を分かつまで、だからね」
「…わかってるよ」
出すまでは赤の他人。
共に歩むための 婚姻届 。
(2013/10/08)
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あとがき→ブログ
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