イタkiss期間2013 五十音でささやくイタズラなKiss





『だって、入江くんてば全然家にいないし』

受話器の向こうで泣きわめく。
留守番電話の声はだんだんと涙声になり、最後のメッセージはとうとうぐずぐずとした声になっていた。
やっと帰った夜はすでに遅かったが、パンク状態の留守番電話に恐れをなして電話をしたというのに、久々に聞いた声が涙声では堪らない。

『でも、電話してくれてありがとう』

一通り気が済んだのか、鼻をすすりながら笑った気配がする。

「で、実習が何だって?」
『うん、あのね、あたしが病棟で記録を…』

少しだけ冷えてくるようになった秋の夜は、夏以上に静かに感じる。
おまけに夜は長い。
特に琴子のいない夜は。

受話器から聞こえる声は少しずつ元気を取り戻す。
できれば泣いていないほうがいい。
一方でその泣き顔を見たいとも思う。
泣かれるのは困るが、泣かせたいとも思う。
泣いた顔がかわいいなんて思わないが、嫌いじゃない。
この矛盾した思いにとらわれ、必要以上に泣かせてしまう。
泣いていると、今度は泣き止むように仕向ける。
目の前にいないときに泣かれるのはつらい。
本当に泣き止んでいても、泣きそうでも、受話器のこちらからでは難しい。

「おまえ、泣いてばかりいないだろうな」

思わずそう聞くと『大丈夫、泣いてないよ。今日はちょっと、入江くんの声が聞けなかったからさみしくなっただけ。これでも毎日忙しいもん』と思ったより元気な声が返ってきた。
優しい声をかければまた声は潤むだろう。
そんな声を聞いてしまっては電話は簡単に切れない。
だから、いつもの調子で最後の声をかける。

「実習記録で班のみんなに迷惑かけるなよ」
『いつもかけてるわけじゃないもん!』
「じゃあな」
『あ、入江くん…』

電話を切って、留守番電話の録音を全部消す。
本当は一つくらい残しておいてもいいかと思っているのに、次に電話をかけてきたときに新しいメッセージが入れられないとまた泣くから。

本当に予期せぬほど 涙は女の武器 だと実感するこの頃。

(2013/10/24)

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「あんた、あの入江くんに交番で謝らせたって?」

教育実習での失態は、笑い話として既に広まっている。
理美が面白おかしく突っ込む。
じんこが大笑いする。

「でもあんたたち、夫婦なんだね」

しみじみとそう言われた。
そうでなきゃ、あの入江くんがあたしのために頭を下げないって。
そりゃあたしは愛されてるからねと威張って言えば、みんなはため息をついて遠くを見る。

「よく琴子と結婚してくれたよね」
「多分もうそういうことも慣れっこじゃないの」
「そうかな。あたしだったらごめんだわ」
理美が頭を振る。
「どんなことにも耐えて耐えて耐え抜くって、琴子の役目だと思ってたけど」
じんこがあたしをチラッと見た。
理美とじんこの言いようはひどい。
あたしだって入江くんの冷たい仕打ちにどれだけ耐えたことか。
「でも、まあ、恋は一瞬で落ちるけど、愛は育てるものって言うし?」
「琴子が努力したのは認めるわ。根性の塊よね」
「入江くんの側はちょっと違うかもね」
理美はあたしを見て気の毒そうに言った。
あたしを見て哀れむのはやーめーてー。
今回の職員室侵入事件で株が上がったのは、当然入江くん。
あたしと一緒に謝ってくれて、学校の先生の取り成しもあって、二度とバカなことをしませんって言う念書を書いただけでお咎めなしだった。
そうよね、こっそり入る必要なかったのよね。
でも、テスト用紙を置きっ放しにしたのを知られたくなかっただけなのよー。
入江くんは家に帰った後も呆れただけでもう怒ったりしなかった。
お巡りさんが苦笑いで止めるほど散々交番で怒鳴られたしね。
「あんたたち見てるとつくづく思うわ」
「ほんとほんと」


恋は落ちるもの、愛は育てるもの。
恋は努力、愛は 忍耐

(2013/10/25)

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昨日の雨が嘘みたいに晴れ上がった。
ただ、昨日の雨の名残りのように少し強めの風が髪を巻き上げる。
髪を手で押さえながら構内の道を歩く。

いつだって誘うのは私のほう。
それでも嫌な顔をせずに付き合ってくれる。
美術の話をしたり、音楽の話をしたり、いつだって私の趣味に合わせてくれる。
優しすぎるくらい優しくて、態度はいつも紳士的。
それが偽りだったとしても、それでもよかった。
あなたの隣で笑っていられる自分を幸運だと思っていた。
あなたは誰のものでもなかったけれど、あなたの心は誰のもの?
何も言わないあなたが欲しかったわけじゃないけれど、何かを言われるのが怖かった。
ずっとあなたの目をふさいでいられたらいいのかもしれない。
でもそうしたら、あなたはいつ私を見てくれるのでしょう。

「今日はどちらへ」
「○○プラザホテルへ」
「入江様と待ち合わせですか」
「…ええ」

…もしかしたら、これが最後の待ち合わせかもしれない。
そう思いつつもその初めての誘いを断れなかった。
最初で最後のあなたの誘いになるかもしれないと予感がした。
その口調、その伝わる言葉には、もう私の心など届かない。
あなたの心の中の何かが、変わってしまったのかもしれない。
昨日の雨は、あなたの心に何をもたらしたのでしょう。

「きれいに晴れましたね」
「…そうですね」

車の流れはよどみなく、あなたが待つ場所へ進んでいく。
これほどあなたに会いたくないと思うなんて。
初めから、私の入る隙間などなかったのかもしれない。
知ってはいたけれど、あなたが気づかないうちならば、少しくらい入れてもらえるかしらと思っていたのだけれど。
いつもはもどかしい距離が、今は瞬く間に縮んでいく。
でも、もしかしたらこんな予感は嘘かもしれない。
ただの杞憂だと笑って済ませたい。

「…お願い、少し手前で降ろしてくださる?少しだけ、歩きたいんです」

私の我がままを運転手はどう感じたのかわからない。
ただ微笑んでゆっくりと車を止めた。
「どうぞ」
開け放たれたドアから降りれば、通りを吹き抜けた風が枯葉を運んできた。
車は走り出していき、私は待ち合わせを目の前にして躊躇している。
また、あなたと笑って歩けるでしょうか。
それとも。

失いそうな恋を想い、私は惜しむようにして空を見上げた。
頭上に広がるのは、雲ひとつない 抜けるような秋空

(2013/10/26)

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その口から零れ落ちるのは、願望か、要求か、それとも。

いつもどんな夢を見ているのか、かなりの頻度で寝ながらにしてつぶやいている。
起きているときもその口は滑らかだったが、寝ているときでさえおしゃべりだ。
無理に聞き取ることもないが、ごくたまにこれ以上にないくらいはっきりと口にする。

「いりえく〜ん」

寝ようとした矢先にそんな風に声をかけられれば、思わず起きているのかと顔を覗き込む。
遅く帰ってきた自分よりも先に閉じられていた目が開かれることがなく、ただ口だけが動いている。
やはり寝ているのだと確認した後、ため息をついて布団をかぶろうとするとまた声がかかる。

「だいすき〜」

本当に起きていないのかともう一度顔を見る。
顔だけはにこにこと笑っているが、やはり目は閉じていた。
思わずその笑い顔の頬を摘んで「誰に言ってるんだ」とつぶやくと「入江くん」と再びつぶやいて顔はますますくしゃりとしていた。
それだけで満足して布団をかぶり直す。
口だけではなく、その身体も起きているときと変わらずによく動く。
蹴飛ばされないようにその隣に身体を横たえると、ぼすっとまず一撃が来る。
その手をいつものように顔の手前で受け止めると、布団の下に入れ直す。
そうしないと第二撃が来るからだ。

「そんなふうにさわっちゃいや〜ん」

おいおいと突っ込みながらふうっとため息をつくと「もう、チビったら」とがくりと来る言葉を続ける。
いつものことだと寝ようとすれば「ふふふふ、おいしいでしょ、いりえくん」と前後の脈絡なくまたしゃべっている。
無視しようと毎度思う。
思うのだが、その端々に自分の名前が出てくるとつい気になるものだ。
あとはむにゃむにゃと聞き取れない。
今夜はこれで終わりかとほっとして目を閉じる。
今日は笑顔だった。
そのことに安堵する。
そんな言葉と表情に何の意味もないかもしれない。
それでも、彼女がいつも幸せに笑っていてくれればいいと思う。
夢の中でも。


その唇から紡がれる 寝言 すらも愛しいなんて、彼女にすら教えない。

(2013/10/28)

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「入江くん、どうしたの」
「いや、懐かしいなと思って」

琴子に声をかけられたとき、夕暮れに一人たたずみ、少しだけ目を細めて夕陽を見ていた。

「琴子さーん、夕飯の支度すっとよー」

「うわ、もう、そんな時間か。あ、じゃあね、入江くん、また後で」
「ああ。がんばれよ」

九州の田舎に来て早十日も過ぎ、琴子は既にすっかり皆に遊ばれ慕われして、溶け込んでいる。
こういうとき、琴子でよかったと俺は思う。
あのパワーと根性を俺と同じ思考を持った親族たちが、気に入らないわけがないのだ。

夏の日は長い。
夕陽が落ちるまでまだ少しあるだろう。
前にここに来たのは小学生の頃か。
学校での俺を知らない人たちのいるここでは、随分と伸び伸びしていたように思う。
宿題はとっくに終わっていたし、東京に帰るまでまだ時間はあった。
おふくろもいなくて、裕樹もまだ生まれていなかったから一人だったのだ。
普通の小学生のように裏山で暗くなるまで遊んだ。
そこには天才だの無愛想などと言われる入江直樹ではなく、ただの直樹でいられたのだ。
東京に帰れば、またつまらない毎日の繰り返し。
それでも、ここは自分の住む場所ではないと感じていた。
夏の間だけの幻の自分。

どんどん日は落ちて、辺りが暗くなると自分の影さえもわからなくなる。
幼い頃はそれを心細く思うものだが、どちらかというとほっとしたように感じていた。
誰の目にも見えないどこかへ行ってみたいという願望。
ここでならそんな願いが叶うんじゃないかと思っていた。

「い、り、え、くん」

いつの間にか琴子がいた。

「もう、ごはんだよ」
「ああ、わかった」
「…何考えていたの」
「明かりもないと真っ暗で、人の顔も見えないだろ」
「うん。すっごい田舎だよね。あたし鳥目だから見えなくて怖いけど。でもね、ちょっとほっとする」

俺は琴子の言葉に笑みが漏れた。

「うん、俺もほっとしたんだ」
「東京じゃ、どこにいても街灯があるもんね。家からの明かりが漏れるし」
「溶けてなくならなくて良かったよ」
「え、なくなるって…」
「昔の話」

琴子はまだ少し戸惑ったようにしているが、そんな琴子を引き寄せてキスを落とす。
そう言えば、ここに来てからあまり琴子に触れる機会はなかった。

「入江くん…」

うっとりと目を閉じた琴子だったが、俺はそのまま引き離した。

「あん、入江くん」

不満そうな琴子だったが、母屋からかかった声に一瞬にして目を見開いた。

「直樹兄ちゃーん、琴子さーん、なんばしよっとー。ご飯冷めるけんねー」

「だってさ」
「もう、すぐ邪魔するんだから〜」

頬を膨らませたまま琴子は歩き出す。
その琴子の手を取って、母屋へ戻った。
驚いた琴子が俺を見上げて手を握り返す。
もしあの時、琴子の手を取らなかったら。
そんなことを感傷的に思うのは、この風景に誘われたからか。
あの頃の想いが、二人での思い出に変わっていく。

それでも少しだけまだ懐かしさに心がとらわれるのは、多分ここが俺の ノスタルジア

(2013/10/29)

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