タ
たとえば、あたしがもっと美人だったなら。
たとえば、あたしの頭がもっと良かったなら。
たとえば、あたしのスタイルがもっと良かったなら。
いくらでも浮かんでくる理想の自分。
どれだけ贅沢を言っても、鏡に映るのはいつもの自分。
時々、絶世の美女で賢くて巨乳の自分を想像してみる。
もしかしたら入江くんだって振り向いてくれるかもしれない。
あの何事にも動じない顔がみるみるうちに変わって、あたしを絶賛してくれるかもしれない。
松本姉にだって負けないくらいの美人で才女でスタイルも良かったなら。
ううん、せめて才女だったなら。
あたしは医学部に行って、入江くんと一緒に医者を目指すの。
そうだったなら、その前だってずっとA組だったに違いないから、もっと仲良くなれていたかもしれない。
他のライバルもみんな蹴散らして、相原琴子には叶わないって言わせるの。
もっと美人だったなら。
何であんな子が一緒にいるの、なんて言われないで、お似合いねって言ってくれるかもしれない。
この鼻がもう少し高くて、もっと睫毛がびっちりしていて、ぷくぷくの頬がもっとすっきりしていたなら、美人って言われるのかな。
もっとスタイルが良かったなら。
子どもっぽい服もやめて、もっとセクシーで大胆な服を着て、入江くんをとりこにするの。
もしもCカップになったら、とか言わせない。
いっそのことキスを迫って入江くんが堕ちてくれたならいいのに。
鏡の前で散々にらめっこしてみた。
顔は変わらない。
急に頭も良くならない。
胸も大きくならない。
ダメダメ尽くし。
部屋を出たところで入江くんがちょうど帰ってきた。
「おかえり」
「…ああ」
ただいまとは言わないのが少し悔しい。
「松本さんって、美人で頭が良くて…きっともてるんだろうね」
「さあな。ただ、たいていの男は振り向くよな」
「…そうだろうね」
「全国模試でもベスト10には入っていたみたいだな」
「そうなんだ…」
「見習えば?」
少し意地悪そうに笑って言う。
わかってるもん。わかってるけど、今は無理。
でも、もしも、そんな理想に近づいたなら、入江くんはあたしのこと気にかけてくれるの?
「テニスもインターハイに出たくらいだし」
「じゃあ、あたしがそうなったら、入江くんは好きになってくれるの?」
「…そっくりそのまま返すよ」
「え?」
「たとえ無駄でも努力はしたら?」
そう言うと、入江くんは部屋に入っていった。
閉まるドアに向かってあたしは問いかける。
頭が良くて、かっこよくて、運動神経も良くて、背も高い入江くん。
でも、性格はちょっとだけひねくれてて、意地悪で、口も悪い入江くん。
そんな入江くんを知って、嫌いになろうとしたけど無理だった。
目の前の入江くんが好きだから。
たとえあたしが松本姉みたいになっても、好きになってくれるわけじゃないよね。
あたしはあたしのまま、好きになってほしい。
せめて、何か一つくらい自慢できるように努力はするから。
たとえばそれが無理だとしても 、好きになってくれたなら…。
(2013/10/16)
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チ
一緒に住むようになっても、みんなが言うほど関わっているわけじゃない、と思う。
入江くんはすぐに部屋にこもるし、嫌そうな目で見られたことだってある。
食事の時だって会話するわけじゃない。
おばさまが無理矢理あたしとの会話に入江くんを引っ張ってくる感じ。
でも、そんな嫌そうにされてもね。
あたしに部屋を取られた裕樹くんなんて、それこそいろいろ目の仇にされて、何か失敗するとすぐに入江くんに報告するの。
いつも失敗しているわけじゃないもん。
たまたま見られたときだったりするの。
リビングでくつろぐ入江くん。
ソファの後ろからその髪に触れてみたい衝動に駆られる。
ちょっとだけツンツンしたら、きっと凄く怒られそう。
新聞を見ている入江くん。
横から、あの事件の犯人が捕まったんだと声を出したら、ため息をつかれて新聞を差し出された。
別にそんなに見たいわけじゃない。
ちょっとだけ気になることが載っていたから見たかっただけなの。
慌ててそう言うと、再び新聞を広げる。
新聞を広げる姿もステキ、なんてとても言えない。
お風呂上りの入江くん。
風呂あいたぞと言われても、そんなにすぐには入れない。
だって、自分の家じゃないから、これでもいろいろ気を使うことがある。
ぬれた髪を拭く入江くんを見て、ドキドキしたなんて、絶対言えない。
一緒に住むって、どんな感じと聞かれても、うまくは言えない。
だってあたしは居候だもん。
裕樹くんの言うとおり、遠慮するべきよね。
でも、毎日入江くんをそばで見られるのは、うれしい。
A組とF組の教室の学校よりも近い。
でも、ただそれだけ。
二人の距離は、いまだ 近くて遠い 。
(2013/10/17)
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ツ
どれくらい努力したらいいのかわからない。
何を変えればいいのかわからない。
でも私は何かを変えることはできない。
泣いて崩れるなんてこともできない。
私は私。
でも、あなたが望むなら、本当は少しくらい変えたってよかったのに。
あなたは私に何も望まない。
勝ち目はあると思っていた。
傍目には相手にされてもいない普通の子。
頭も悪くて、とてもじゃないけどあの人にはふさわしくなかった。
でも、そう見えていたのはほんのわずかな間。
彼女の何があなたの心を捉えるの。
一所懸命なところ?
一所懸命ならばあなたの心が動くなら、私はきっと誰よりも努力をしてきた。
全国模試で上位になるため。
テニスで勝つため。
きれいだと言われたいため。
でもどれも持たない彼女よりあなたの視界に入るのは難しかった。
それなのに、あっさりと現れた女にあなたを取られるの。
努力も、根性も、同居も、何も太刀打ちできない。
成績も、テニスの腕前も、美貌も役に立たない。
彼女だけがライバルだと思っていたのに。
もう彼女しか残っていないと思っていたのに。
あなたの視界の隅に必ず入るのは、今でも彼女のはずなのに。
あの人を忘れられるの?
何度もそう自分に問いかけた。
少しでも可能性があるならば、諦めない。
彼女を選んで後悔するような女になりたかった。
決着はもう少し先。
この恋の終わりを見届けるまで。
今はまだ、 次の恋 にはいけない。
(2013/10/18)
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テ
こんな雨の日に手をつなぐと思い出す。
伝わる温かさは、これほどじゃなかったけれど。
「よく降るわね」
お昼になり、学食へ移動する最中にどうしても雨にぬれずに移動できない場所がある。
空から降り注ぐ雨は、容赦なく走り出すあたしたちをぬらす。
ほんの1分もかからない距離なのに、したたかにぬれたあたしたちは手持ちのハンドタオルで拭った。
本当は傘を持ってこれば万事解決。
ただ、その場所だけのために持ってくるのは面倒。
時々誰でも使えるように置いてある忘れ傘はあいにくお昼時で全部向こう側だった。
つまり出遅れたというわけだ。
実習で失敗したあたしは、班のみんなを巻き込んで片づけを命じられた。
片づけをしている間に大半の学生はご飯を食べに移動する。
「ここ、庇をつけてくれればいいのに」
「そのうちつくんじゃない」
「なんで」
「だって教授陣だって面倒なわけでしょ」
「どうだか。教授様たちなんて自分で手持ちのお弁当か外出してどこかの食堂じゃないの。もしくは職員用食堂とか」
「職員用なら向こう側だからぬれずに行けるのよね」
「看護科と医学科が離れてるからよ」
「あー、冷たい。10月も半ばを過ぎると雨も冷たいわね」
あたしは班のみんなの会話を聞いて黙って髪の雫を拭い歩き出した。
出遅れたのはあたしのミスなので、いいわけも空しい。
「失敗なんていつものことなのにやけに落ち込んでるじゃないの」
モトちゃんはそう言うけど、先ほどまで金輪際あたしの腕に青あざ作ったら承知しないわよと言ったのは誰よぉ。
「冷たい雨って、心まで寒くなるわよね」
思わずポツリとそう言うと、「あら〜、あんたには温めてくれる誰かさんがいるでしょ」とモトちゃんが食堂のある廊下の先を指した。
そこに長身の大好きなだんなさまが…。
「入江くーん」
落ち込んでいたことも忘れて班のみんなも置いてきぼりにして、一目散に駆けつけた。
入江くんはこちらをちらりと見ても待つふうではなく、さっさと食堂へ行こうとする。
その後姿に追いついて、手につかまる。
不意に引っ張られて入江くんは「おい」と怒るけど、本当に怒ってるわけじゃない。
だって、つかまった手は握り返してくれたもの。
「冷たいな」
「あ、そう?さっき雨にぬれたからかな。ほら、庇のないところでぬれちゃって」
「ああ、おまえが何かやらかして遅くなったんじゃないのか」
「う、何でそれを」
そう言いながらもまだ手は離さない。
食堂に入ったら嫌でもつないだ手は離れるけど、それまでの温もり。
あたしね、入江くんの手が温かいって本当に知ったのって、あの雨の日だったの。
触れてくれた唇は雨の味がして、突然で、よくわからなかったのに、頬に触れた手が温かくて、本当に入江くんにキッスされてるんだってわかったの。
ずっとこのまま温かさを感じていたいなって。
今思うと、身体も冷え切ってて、入江くんだって雨にぬれてそれほどの温もりじゃなかったかもしれないけど。
あの日もらったのは、あなたの想いとキッスと てのひらの温もり 。
(2013/10/20)
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ト
どれだけ自分が子どもだったのか思い知らされた。
好きも嫌いもなく、ただの衝動で行動すること。
ただの一度きりだと思った。
二度繰り返すなどありえない。
そして三度目。
俺は素直に降参する。
子どもでも大人でも構わない。
ただ触れたいと思う心。
理性も何もかも振り切ってしまう衝動が自分の中にもあることを知った。
時々不思議そうに聞かれる。
「どうしてそんなに早く結婚する気になったの」
「親の策略で」
そう答えると、そりゃ誰もが驚く。
「あれだけ高校時代は仲悪そうに見えたのに」
「同居だもんな。実際なんかあったんだろ」
「…ないね」
「何にも?」
「むしろ家では何もなかった」
同期の飲み会に出ると決まってそんな話。
「手を出さずにいられるほうが不思議だよな。相原だって女だし、あれで美人じゃないけどそこそこかわいいわけだし」
家では、ね。
「あ、いや、一般論だから」
怯えたように同期が手を振る。別に何も言ってないんだが。
多分、家の中で手を出さずにいられたのは、ひとえにあのおふくろのせい。
それに加えて直前まで自覚がなかったせい。
傍にいればイライラするくせに、いなくてもイライラしていた。
何故忘れられるとむかつくのか。
何故眠っていた女に手を出したのか。
何故自分の想いを隠し切れなくなったのか。
「で、結婚してどうなの」
「…別に、変わらない」
「もともと同居してたんだもんな」
うらやましげに言う同期に適当に答え、さりげなく会話を打ち切る。
結婚してよかったことなんて決まってる。
ビールの入ったグラスを傾けながら、家で待っているだろう妻を思い出した。
「…悪い、そろそろ帰る」
それぞれと挨拶を交わして、夜風に当たりながら帰ることにした。
時には、あれ以上何もない振りで生活できただろうか、とか、おふくろに気づかれずに手を出せただろうか、などと考えたりもする。
「おかえりなさーい」
家に入るなりうれしそうにいそいそ出てきた妻は、「楽しかった?」「早かったね」「お風呂入る?」「それとも何か軽く食べる?」などと矢継ぎ早に言いながらまとわりついてきた。
「…ああ、食べようかな」
「じゃ、用意するね」
「うん、寝室で」
「ベッドで食べたいの?」
「他にお望みの場所があれば聞くけど」
「ダイニングとか?」
「それはまた今度」
「へ?どういうこと?」
会話しているうちに寝室に着いて上着を置くと、その疑問に答えることにする。
すかさず捕まえた身体に手を回して笑うと、「入江くん、酔ってる?」と顔を赤らめる。
ようやく察してじたばたと往生際悪くなった妻にささやく。
「酔ってたら許してくれるんだ」
そんな言い訳で許してくれるなら、酔っていることにしてもいい。
結婚していようがしていまいが、どちらにしても 止められない衝動 。
(2013/10/21)
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