ヤ
「理加、あなたお世話になっている間に何をしてたの」
「別にー」
「あちらの皆さんに迷惑かけていなかったでしょうね」
「かけてない、かけてない」
車はどんどん入江家から去っていく。
「直樹くんのお嫁さん、可愛らしい人だったわね」
「まあね」
「若くて結婚したみたいだけど、少し直樹くんの雰囲気も変わってたわね」
「…そうかな」
「でもまあ、相変わらず優秀みたいで」
「そりゃ直樹だもん」
別れたばかりだというのに、何故か思い出すのはくしゃくしゃの涙顔。
大声で別れを告げる声。
あんなに怒っていたのに単純な人。
「ふふ、でもおっかしいの。あの琴子さん、すぐムキになって、信じられないくらい直球」
「楽しかったのね」
「うーん、まあ、そうね」
思い出せば、直樹と過ごしたことよりも、先を争うようにして直樹を奪い合った彼女といるほうが多かったかも。
あんなに悔しくて、憎たらしくて、うらやましかったはずなのに。
直樹がとても好きだった。大好きだったの。
アメリカに行くことになって、しばらく会えなくなるとわかって、本当に辛かった。
でも、それなりにアメリカで楽しんでいたのも事実。
直樹は女嫌いだから大丈夫って思っていた。
本当はちっとも大丈夫なんかじゃなかったのに。
好きの重さだって負けているつもりはなかったんだけど。
あの直樹が、誰よりも彼女を好きだと言うのだから仕方がない。
直樹は、ほいほい人を好きになる人じゃない。
多分家族の範疇にあたしは入れられていて、嫌いではないから付き合える人間なんだろう。
彼女がどこから直樹の心に入ったのかはわからないけど、何か特別な枠の中に入っている。
あたしには入れなかった場所。
頭が良くても、きれいになっても、スタイルが良くても、直樹には関係ない。
だから好きの気持ちだけが頼りだったのに。
彼女があまりにも一途過ぎて、一所懸命過ぎて、負けたつもりはないのに負けた気分。
ああ、やっぱり負けたことになるのかな。
直樹もこんな気持ちだったのかしら。
あんな直樹の顔、見たことなかった。
彼女があんな顔をさせるのね。
直樹と家族になりたかった。
裕樹のお姉さんになりたかった。
直樹と結婚するんだって思っていた。
ずっと本気でそう思っていた幼い頃のあたしと今のあたし。
大人になるまで待っててもくれなかった。
あたしだけがずっと忘れずにいつか叶えられると思っていた。
誰もが冗談だと、忘れかけていた遠い日の 約束 。
(2013/11/13)
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ユ
「おまえさ、何でみんなと来たんだ」
「な、なんでって」
「何で一人で来なかったんだよ」
ええー、い、入江くんが、なんでこんなことを。
「おまえ俺のこと好きだとかばっかり言ってるけど」
あたしは今目の前の展開にただ立ち尽くすばかり。
「俺の気持ちわかってんのか」
な、何、い、入江くんのき、気持ちって…。
「い、入江くんの気持ちって、あたしのことなんてが、眼中にないって感じで」
だって、いっつも意地悪で、ここに来たことだって迷惑そうにしていたし。
「バーカ、違うんだよ」
そう言うと、入江くんは立ち尽くしているあたしの頬を両手で挟み、顔を近づける。
え、ウソ、い、入江くんが、ほ、頬を…。
チガウ、い、入江くんの顔が…顔が…。
ゆっくり近づいたかと思うと、入江くんはあたしに優しくキッスした…。
それは一回目のときよりもずっと優しくて甘くて長くて、あたしは相変わらず身動きもできず、ただただ近づいてい来る入江くんの顔を見ていた。
二、二回目。
二回目のキッスよね、これ。
二回目、二回目よ。
ほんとに?
ウ、ウソ…ウソウソ…。
「二回目!」
あたしははしたなくもそう叫んでしまった。
気がつくと、入江くんの姿はどこにもなくて。
…あれ、入江くんは…?
えっと、二回目は…?
林の中であたしは雑誌を広げたまま眠ってしまっていたようだ。
周りを見渡してみても、入江くんどころか誰もいない。
日射しはまだ暑いけど、林の中の木の下は程よい日陰と風が通っていた。
「ゆ、夢かぁ…」
あたしはちょっとだけがっかりした。
こんな夢を見ていただなんて知られたら、きっと呆れられる。
でも、微かに唇に感触が残っているような気がして、思わず唇を撫でる。
入江くんがあんなに都合よく現れて、あんなに優しくしてくれて、あんな言葉を言ってくれて、あんなキッスをしてくれるわけ、ないよね。
でも、夢とわかれば今度は惜しい気もする。
あんなに慌てないでもっと続きが見たかった。
もちろん二回目!って叫ぶのはなしで。
もう一度、見たいなぁ。
今度はもう少し気の利いた言葉も、もっと余裕な女のフリをして。
誘惑とキッスは 夢の中で 。
(2013/11/14)
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ヨ
「琴子さん」
「相原さん」
「相原」
「琴子」
名前を呼ばれるたびに気持ちが揺れ動く。
よそよそしい『さん』付け。
あたしが誰だとか、どうでもいいみたい。
迷惑だ、近寄るなってはっきりわかるから、呼ばれるたびに胸の奥がツキンと痛む。
名字を呼び捨てにされて、ようやくスタートラインに立てたみたい。
でも、まだみんなと同じ。
特別な何かを感じられない。
クラスメートの誰かと一緒。
ある日、いつの間にか名前を呼び捨てにされていた。
彼の心境に何の変化があったのかわからない。
だって、気がついたときには呼び捨てだったんだもん。
好きな人に呼び捨てにされるって、乱暴なのに何だかうれしい。
でも、まだようやくの一歩。
耳元でささやかれる名前。
あなたの吐息までも一緒に聞こえるくらい間近の声。
膝が震えるくらいの衝撃。
どこまでも甘く聞こえるその声は、あたしの中を破壊するほどの爆弾。
心のどこかでいつもあなたを呼んでいる。
自分は名前を呼ばれてうれしいのに、どうしてもあなたを名前で呼べない。
時々意地悪そうに名前を呼べと言ってくるけど、何となく恥ずかしい。
今更だって思う気持ちと、何だか別の人になってしまうような気がするから。
結婚した今となっては、もう今更期待していないし、そんな呼びかたはどうでもいい些細なことだと言った。
あたしが呼ぶことが大事なのだと。
新婚らしく「あなた」って呼ぶのもいいかもしれないけど、気がつくといつもと同じ。
あたしにとってあなたは永遠に「入江くん」。
入江くんが呼んでくれる声だけが、あたしを震えさせて、その声にとらわれる。
だから、もっと呼んで。
あなたの 呼ぶ声 だけが永遠に愛おしい。
(2013/11/16)
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