いつの間にか
あいつの存在は、気が付けば傍にいるなんて生易しいものじゃなかった。正直に言えば、目の端にというか視界の隅にちょろちょろする姿は見たことがあった。もちろんその時はそれが琴子だという認識はない。
視界の隅だから、気にしなければ目に入らないくらいだったし。
そしてあのラブレターの後、同居する羽目になってから、これでもかとその存在は確立された。
いてもうっとおしい。
いなくてもなんとなくうっとおしい。今思えば物足りなくなっていた、とも言える。
騒動に巻き込まれて、冗談じゃなく、今すぐどこかへ行ってくれと思っていた。
いざ一人になってみれば、つい思い出したり。
あんなに強烈なやつ、初めてだったからはまったのか。
でも考えてみれば今までだってこれでもかと存在をアピールする奴なんて山ほどいた。
そのどれもどうでもよかった。
どうでもいい存在の中でつい構ってしまったのは、同居していたからか。
そうなのかもしれないが、少なくともあいつの粘り勝ちなんだろう。
どちらにしても今はこうして傍にいないと落ち着かないくらいなんだから、それでいい。
今こんなことを考えてしまうのは、一人、だから。
部屋には一人。
ベッドにも一人。
疲れて、どうしようもないほどくたくたなのに、思考だけはなかなか眠りにつかない。
もう一度どうでもいい留守番電話を聴けばよかった。
もう消してしまって聴けないんだが。
次にあいつが電話してきたときに吹きこめないと困るから、全部消してしまうのだ。
夜遅くても電話してと言われても、さすがに午前二時も過ぎれば寝ているだろう。
せっかく久々に自宅に戻ってきたというのに。
シャワーは朝に浴びればよかった。
それでももう体は疲れて動かない。
思考だけがシーツの上で空回りしている感じだ。
あの舌っ足らずな声が耳でリピートされる。
おやすみとか今日はねとか。
ちょっとだけ曇った声の時は、きっと何かを失敗した日なんだろう。
どうでもいい張り切った日の声よりもその声に欲情する。
もう何日もしていない。
自分で処理するよりも早く寝たい。
今だって思考は誉められたものじゃないのに、身体が動かない。
前はどうしていたのかと思い出せない。
耳の奥で繰り返される声に身を任せながら眠りにつく。
次に会ったら、抱きしめて、キスをして…。
ここにいないことを余計に感じてしまうから、俺はぎりぎりまで仕事をして、倒れこむようにして眠ってしまうのだろう。
さすがに抱きしめていないと眠れないということはない。
寝相も悪いし、寝言もうるさいし、横に眠るにはおよそ不適当な女なんだが。
下世話な話ではいつもどう処理しているんだとしつこく聞かれるときもある。
そういう時にふと気づく。
琴子のいない日々では、そんなことは些細なことだったと。
いなければ意味がない。
声が聴きたい、抱きたい、なんてことは、今ここにいない限りどうしようもない。
他のやつに同じ感情を抱けない欠陥品のような俺には、多分そういうところが抜けているのだろう。
いつからか、いつの間にか、俺にとってはそういう存在。
ああ、この分では、夢の中で滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。
うつらうつらとしながらそんなことを思う。
誕生日には、久しぶりに電話をしよう。
あいつが泣いて会話にならなくても構わない。
あいつが生まれて俺と出会ったことに感謝をして。
俺が人としての感情を芽生えさせてくれたかけがえのない存在として。
* * *
入江くんがいないと寂しい。
入江くんがいればうれしい。
入江くんに会いたい。
布団に潜りながら思うのはそんなことばかり。
もうすぐ誕生日が来る。
入江くんは祝ってくれるかな。
それとも忘れてるかな。
会えなくても元気でいてくれればいいな。
最近家に帰っていないのは、きっと忙しいから。
留守電に毎日吹き込みながら、いっぱいになってしまうとようやくまた次が吹き込めるくらいに帰ってくるみたい。
傍にいないのは寂しいけど、あたしのいないところで病気になったらもっと悲しいから。
シーツも何度も洗濯をするうちに、入江くんの匂いもしなくなっちゃった。
きつくつけられた痕も消えてしまった。
次は冬休みまで我慢するって決めたのに、もうくじけそうになる。
毎日勉強頑張ってるよ。
入江くんと一緒に働きたいから、あたし、ちゃんと一回で国家試験合格するように頑張るよ。
そのためなら会えなくても頑張るって決めたから。
だから、せめて声だけでも聴かせてほしい。
入江くんの声ももう何度も思い出して擦り切れそうだよ。
枕元の写真が薄暗闇の中でぼんやりと見える。
今日は月が明るいから、カーテンを少し開けておいた。
電気がついていると入江くんは眠れないって文句を言ってたっけ。
入江くんがいれば灯りはいらないけど、こんなふうに一人の夜には、どうしても灯りが欲しくなる。
大きなベッドの上で寝返りをうつと、入江くんが寝ていた場所がぽっかり空いているのがわかる。
もう慣れた、と言ってしまえば嘘になるけど、少なくとも朝のあたしは入江くんがいようといなかろうと大の字になって寝ている。
暗い部屋の中で月明りは意外にまぶしく感じる。
入江くんも今日の月を見てるといいな。
同じ空の下だって思えるから。
いつの間にかあたしは、入江くんがいないともうどうにもならないほど、生きていけない女になっちゃった。
抱きしめて、キスをして、大好きって言おう。
入江くんも抱きしめてくれるかな。
あたしに飽きたりしていないかな。
ずっとずっと入江くんがあたしを好きでいてくれるといいな。
お月さま、あたしのこの願いがどうか入江くんに届きますように。
いつの間にか眠りについたあたしが見たのは、泣けるほどに優しい入江くんだった。
(2015/09/28)