イタkiss期間2015



危険な言葉



朝からかくかくとあまりかっこいい歩き方ではない。
本人は一応普通に歩いているつもり、だった。
その歩き方を見て隣で含み笑いをされているとは思わずに、必死で駅に向かって歩いている。
それでもしばらく歩くうちに慣れたのか、これも今までの修業の成果なのか、駅に着く頃には何とかまともに歩けるようにはなってきたようだった。
駅構内に入る瞬間に琴子の身体が強張っているのがわかった。
今日はいるだろうか。
いたらどうしよう。
いや、いてもらわなくてはならない。
隣にこんなに無愛想で今にも取って食わんばかりの野獣のような男がついているけど、と琴子は少々びくびくしながら定期入れを出した。
もしも声をかけられるならホームに入るまでだろうと、少しだけ首を回す。
後ろをそっと振り返ると、昨日真っ赤になりながら手紙を渡した男の子がいた。
いったい琴子をいくつだと思っているのか、手紙の内容では定かではなかったが、少なくとも十歳は年上な自信がある、と琴子は思った。
少なく見積もっても高校三年生ならば最高十八歳。
もしも琴子の年齢を社会人一年生に見積もっても二十三歳にはなるのだ。
そりゃ同僚たちには色気も何もないと言われてはいたが、いくらなんでも高校生から同等に見られるほどとは思っていなかった。
いや、もしかしたら逆にこの大人の色気に迷ってしまったかしら、と考えもした。
「色香に迷う…?ぷっ」
隣であからさまに吹かれると、いくら朝まで抱きつぶしてくれた男とはいえど、睨みたくもなるのが女心だ。
しかもさり気なく色気じゃなくて色香と訂正されている辺り、かわいくない。どっちでもいいじゃない、とつぶやくのが精一杯だ。
後ろの気配に気づいたのか、二人は立ち止った。
いつも人待ちがある駅の構内の一角で、例の高校生が追いついてくるのを待った。
そこそこに人はいるが、高校生と同じような制服姿は少ない。いや、いるのかもしれないが、たくさんの人ごみに紛れてはっきりとしない。
「あの、昨日は手紙をありがとう」
「…いえ」
高校生男子の目線は琴子の後ろの物騒な男にいく。
「…恋人、ですか」
「えっと、あの」
「いいんです。わかっていたんですが、手紙にも書いたように伝えたかったんです。何か、言葉だけじゃなくて、形に残るように」
「そ、そうですか」
高校生男子はにこりとまだ大人になりきれない笑顔で琴子を見た。
「き、気持ちはうれしかったです。でも、あたしには、入江くんしかダメなので」
「…はい」
琴子の後ろから、その長身を生かして高校生男子をのぞき込むようにして直樹が言った。
「恋人じゃなくて」
「はい?」
一瞬高校生男子が眉根を寄せた。
琴子は少し青ざめて後ろを振り向く。
「ちょ、入江くん」
口を出さないで、と言おうとして一歩遅かった。
「妻だから」
「つ、ま…」
高校生男子は口を開けたまま琴子を見た。
「その、つまり、そうです」
琴子は顔を赤らめてうつむく。
その瞬間、後ろからするりと首に巻いていたスカーフが取り去られた。
「あ、ちょっ」
ハイネックの服が見当たらなかった。もとい、どうしても着させてもらえなかった琴子は、仕方がなく首にスカーフを巻いて家を出てきたのだ。
いくらなんでもあからさますぎて他の人の目のやり場に困るだろうと。
コンシーラーを塗る間もなく急かされて家を出てきた。
全てはこの瞬間のためだったのだ、と鈍い琴子は今気が付いた。
首から鎖骨にかけて、しっかりと色づいた赤いしるしは、まだ初心だろう高校生男子の目にも鮮やかに映ったはずだ。
俺の、と主張したあまりにもわかりやすい牽制を憧れの人の夫から喰らい、高校生男子はさっとその首筋から目をそらした。
「それにあたし、多分十歳近くは年上だと思うから…ごめんなさい」
そう言って琴子は頭を下げた。
さらりと首筋に長い髪がかぶさり、かろうじて赤いしるしを隠した。
「…わかりました。ちゃんと答えてくれて、ありがとうございました」
少し涙声なのかと思うほどの弱弱しい声で高校生男子は言った。
高校生男子が後ろを向いたのを機に、琴子は直樹が持っているスカーフを奪いにかかった。
「返してよ、それ」
よそ見をしているのに、琴子が直樹の手に飛びつこうとしているのが見えるのか、琴子が手にする瞬間にひょいっと上に持ち上げたりして、琴子の手が空をつかむ。
「もう、何で意地悪するの」
そう言われては仕方がないと言ったふうを装い、ちょ直樹は琴子の頭にスカーフを乗せた。
ようやく直樹の手から戻ってきたスカーフを首に巻きつつ、改札口に向かって二人は歩き出した。
「もう、こんなことするために付けたのね、これ」
ぶつぶつ言う琴子に直樹は笑う。
こんなことのためだけじゃないけど。
でも、そんなことは口に出して言わない。
制御しきれない嫉妬も、焦りも、怒りも、琴子に出会わなければ知らなかった。
「でもよくわかったわ。入江くんが、高校生相手にやきもちやいてくれたってこと」
琴子はふふんといった感じで少し得意気になる。
直樹にはそれがしゃくに触り、得意気に上を向いた鼻をぎゅっと摘まんだ。
「い、いひゃい」
そのブサイクさには、先ほどの高校生も爆笑だろうと思うと、直樹は思わず笑った。
「ぼ、ぼうはだして〜」
琴子が狭い空間でジタバタするので、直樹はようやく手を放した。
傍にいた女性やサラリーマンがこらえきれず笑っている。
「もう意地悪なんだから」と琴子は鼻をさすっている。
直樹はその様子を横で見てから、後方をちらりと見た。
パッと見で高校生はいないが、もしかしたらこんなやり取りも見ているかもしれない。
ひどい夫だと思うか、仲良く戯れていると思うか。
そのどちらでも構わないと思ったが、少なくとも琴子はよそ見をする女ではない。

「俺から離れるなよ」

人ごみ紛れてそう言えば、琴子はうなずく。
混雑している電車の中の話だと思っているだろう。
そう思っていればいい。
離れたいと思っても、離れることは許されない、と気づくのは、いつのことだろう。
がんじがらめになって、息も絶え絶えになって、最後の吐息を吐くその瞬間まで。

 * * *

「おはよう」
「…おはよう」
「朝から暗いな」
「まあね」
「今日はいないね」
「…誰が」
「ほら、髪の長いお姉さん」
「…ああ。さっき通り過ぎた」
「あ、そうなんだ。今日は早いな」
「隣に、旦那さんがいた」
「へ?旦那?」
「結婚指輪して、なんかいつもと違ってた。恋人だと思ったら、結婚してた」
「人妻だったか〜。で、何で旦那だとわかった?」
「妻に近づくなって」
「え?」
「独占欲丸出し」
「へ、へ〜」
「おまえも近づくなよ。目だけで殺されるぞ」
「へ〜。で、旦那さんイケメン?」
「超イケメン。背も高い」
「そりゃ見たかったな」

「あ」

「…あれ?」
「そう、あれ」
「ふ〜ん、確かにイケメン。おまけになんか二人だけ雰囲気違う」
「…だね」
「あのスカーフ」
「何?」
「…いや、何でもない」
「あ、そうそう、おまえのこと紹介しろって言う女がいるんだけどさ〜」
「しばらくそういうのナシ」
「え〜〜〜、おまえダシにして合コンする予定なんだけど」

ざわめきの中に聞こえてしまう声。
それを遠くに聞きながら、少しだけ笑う。
憧れだったのか、好きだったのか。
彼女が幸せであるならば。
いや、幸せでなければならない。
幸せだと思ったから。
少しだけホームに冷たい風が吹いた。
身を震わせながら、幸せを願う。
呪いのように、いついつまでも。
あなたが幸せでありますように。

(2015/12/07)