ラブレター
「あの、これ、読んでください」
目の前に出されたシンプルな封筒。
宛名は、『琴子 様』。
思ってもみない出来事に、琴子はその封筒をじっと見た。
かつてこんなふうに封筒を差し出したことがあった。
もちろん宛名は『入江直樹様』。
どう答えるべきか迷っている間に、手にその手紙を押し付けられて、手紙の主は走り去っていった。
初冬の澄んだ空気が清々しかったが、手紙を持った掌だけはじっとりと汗をかいていた。
何と言っても高校大学のある駅での改札口を出たところでの話だ。
乗降客の多いここでは、様々な人がいた。
これが高校での出来事ならば、同じ学生たちの間だけの噂で済んでいただろう。
琴子が高校三年の時のように。
出勤する途中の出来事であり、当然のことながら同じようにこの駅を使って通勤しているものもたくさんいたのである。
そして、手紙を渡したのは、よりによって高校の制服を着ていた。
つまり、いくつ年下なのか正確にはわからないが、少なくとも琴子よりかなり年下なのは間違いなかった。
そして、その高校生男子は、かわいかった。
かっこいい、と言うには少しばかり躊躇するような、童顔の高校生だったのだ。
それを偶然見かけた琴子の同僚たちは、騒然とした。
「な、なに、あれ〜〜〜〜〜!」
「ちょっと!高校生じゃない!」
「何で琴子ばっかり?!」
琴子はとりあえず呆然とした状態からはっとすると、「ち、遅刻する!」とばかりに走っていった。
遅刻ギリギリだったので、更衣室では誰にもからかわれずに終わった。
ところが噂と言うのは恐ろしいもので、ナースステーションに入った瞬間に皆に知られていることがわかった。
とりあえず申し送りが終わるまでは静かなひと時だ。
終わった途端、朝の処置に出るまでの間に一通り突っつかれる羽目に。
手紙自体を読んでもいないのに、それがラブレターなのかどうかなんてわかるわけない、と反論してから、そう言えばあたしもラブレター渡したなぁと思いだしたところで手が止まってしまった。
「そう言えば、受け取ってもらえなかったんだった」
自分で言ってもかなりその思い出は心に痛い。
そして、その後ラブレターは行方不明。行方は思い出せない。
それでもそんなことを長く考えている余裕はなかった。
仕事をこなしながら考えるような余裕もなかったし、途中で皆に見られながら手紙を読むようなこともできなかった。
どうしようかと思いながら、結局もらった手紙は琴子の鞄の中。
読むべきか、読まざるべきか。
でももらって受け取った以上、読むべき、よね。
それに中身がラブレターとは決まっていないわけだし、と言い訳する。
もしも苦情の手紙だったら、大恥をかくところだ。
琴子は残業して終えた後で誰かに相談しようかと周りを見渡した。
あいにく今日は真っ先に相談する桔梗幹がいなかったのが残念だった。
かと言って電話するまでも…と思いつつ、家で読むのもためらわれた。
さすがに高校生と時間帯が違うのか、手紙の主とは会わずに駅を出ることができた。
家に帰る前に、と琴子は家のそばの小さな公園に寄ることにした。
さすがに夕方も過ぎて暗くなってきたのでちょっと躊躇われたが、公園入口の灯りの下で立ち止まって手紙を取り出してみた。
几帳面な字で琴子の名前が書かれている。
手紙は、突然ですみません、から始まり、率直に駅で見かけるたびに気になっていたが、なかなか声をかけられずと続き、こちらは高校生で琴子が社会人だというのはなんとなくわかったのでさらに声をかけづらくなったようだ。
そして、どうやら恋人がいるらしいとわかり、思い切るためにもふられてしまうほうがいいというアドバイスもあったことから、思い切って手紙にしたのだという。
琴子は読みながら顔を赤らめた。
ああ、これはラブレターなのだと自覚すると、どうしていいかわからなかった。
もちろん恋人どころかもう結婚もしている身なので、高校生相手にどうこうするわけでもないが、それでも直接好意を寄せられるというのはあまりなかった。
金ちゃんと武人君くらいかしら、と思い出してみるものの、あまりの経験のなさにうーんと唸った。
実際には告白に至るまでの間に数々の好意を全て事前につぶして回っている最強の夫を持っているのだが、琴子はもちろん知らない。
最後の最後でようやく『好きです』の一言が書いてあった。
高校生男子が手紙を書くのにはきっと勇気がいっただろう。おまけに手渡しとなればなおさらだ。さらに衆人環視の中でとなれば、誰かに見られればからかわれること必死だ。
琴子はその勇気に敬意を表して、誠実に返事をしようと心に決めた。
* * *
その噂を聞いたのは、お昼も過ぎた頃だった。
「琴子ちゃん、高校生男子にアタックされたんだって?」
今日は外科ではなく小児科の方から回診をしたせいか、琴子の顔を見ていなかった。
しかも当直明けで琴子とは一緒に出勤していなかったから、通勤途中のアタックとやらも確認していない。
後ろからそんなふうにさもどうだと言わんばかりに噂話を披露した眼鏡の指導医が、直樹の肩を突いた。
それがうっとおしくて、振り向きざまにカルテを顔面にヒットさせた。
「すみません、まさかそこに顔があると思わなくて」
そんな言い訳をしれっとしておきながら、すみませんとも思っていない顔で指導医をにらみつけた。
その噂の内容を詳しく知りたいのはやまやまだったが、またくだらない話なのは間違いないし、噂というのは尾ひれをつけて回るものだ。特に琴子と直樹に関しては。
直接聞く方が正確なのはわかっていたので、あえてそこで指導医にどういうことだと聞き返すこともせずにその日を過ごした。
直樹の余りにも素っ気ない態度に指導医は非常につまらなさそうな顔をしていたが。
当直明けということもあり、通常勤務が終わった後はさっさと帰ることにした。
残業していたらしい琴子もさすがに先に帰ったようで、どうやってその高校生話を聞きだすかと考えながら電車に乗っていると、塾帰りらしい学生たちで電車はいっぱいだった。
塾というものに縁のなかった直樹は、塾のテキストを詰め込んでいる鞄を持ち、何やら模試の話をしたりする学生を見ながら、あの頃は何をして過ごしていたかと考えていた。
琴子も全く塾に縁のない女だった。
そもそも塾に通ってまで成績を上げようという気概もなかった。
不本意ながら、何よりもそばにに直樹という最良の家庭教師代わりの人間がいたからかもしれない。
そのうち、視線を感じて振り向いた。
背は普通だが、仲間内でも同級生かと目を疑うような童顔な高校生男子がこちらを見ていた。
目が合うと、パッとそらした。
いつも見られることが多い直樹にしてみれば、たかがいち高校生の視線など取るに足りないものだ。
それでも、今日の噂を聞いていたせいか、少しだけ印象に残った。
家に帰る途中で、何故か琴子の姿を見かけた。
「何やってんだ」
そう声をかけると、「ひゃああぁ、い、入江くん」と思わず口をふさごうかと思うほど大きな声で驚いた。
がさがさと慌てて紙を折りたたんで鞄の中にしまうと、慌てて駆け寄ってきた。
「い、入江くん、お帰りなさい」
明らかに隠し事のようだが、あえてここで追及せずに家へと足を向けた。
琴子はおとなしく後をついてくる。
「入江くん、早く帰れたんだね」
「今日は手術もないし、当番でもないからな」
そう答えれば、琴子は嬉しそうに直樹の腕につかまった。
何せ当直明けでの通常勤務だ。多少疲れてはいたが、重いからと振り払うほどでもない。
そのまま家の門をくぐり帰宅すると、陽気な母親の声が出迎えた。
それには適当に返事をして、二人して早速夕食をいただくことにした。
空腹では怒りは倍増するからだ。
いや、怒ってなどいない。
誰に言い訳をするわけでもないが、そんなことを考えながら夕食を口に運ぶ。
琴子は何だかんだとあれこれとどうでもいい話題を続ける。
それに母親がうんうんと相槌を打ちながら楽しそうに会話を続けている。
いつもの光景だ。
それなのにイライラする。
このイライラは覚えがある。あるが、自覚したくはない。そして、そのイライラをぶつけるべきではない、と頭では考えている。
食べ終わってから、一息つくために部屋へ戻ることにした。一人になったほうがいい、と自分に言い聞かせる。
それなのに、隠し事の苦手な琴子は直樹に声をかけた。
「入江くん」
階段の途中で声をかけられて振り向く。
少しだけ不安そうな顔をしてこちらを見上げている琴子がいた。
後にしてくれ、と一言言えば、琴子はうん、わかったと言いながら引き下がるだろう。そんな顔だ。
それなのに、まだ治まりきっていないイライラがわき上がってくる。
そのまま琴子が直樹の後を追ってくるのを待っている。
階段を上りながら後をついてくるのを足音で感じた。
二人の寝室に入ったところで荷物と上着を脱いで置くと、琴子も同じように荷物を置いた。
「あのね、あたし、今日…」
何を話そうとしているのかがわかって、顔をしかめた。
あの噂の顛末を聞かされるのか。
知っていて損はないが、知ってうれしいものでもない。
もっと言えば、そういうことになる前にいつも牽制してきた自分の行動を思い出して、ますます面白くなくなる。
人の妻と知ってか知らずかはともかく、手を出そうとする輩の多いことか。
知らないわけではなかった。
ちょっと見には美人でもなく、その行動からエキセントリックな印象を抱くことの多い琴子だが、直樹と違って知れば知るほどいいやつ、なのだ。
人情味あふれるその人柄は、少し見ていれば知れるほどだ。
既婚者で、看護師で、仕事だと知っていても入院する患者に人気なのも、少し知り合った人間が琴子に好感を抱くことも少なくなかったのだ。
見た目で好かれ、性格を知って躊躇される直樹に比べたら、人からの好感度ははるかに琴子の方が高い。
「なんだか、高校生の男の子に手紙もらっちゃって。あ、もちろんちゃんとお断りするつもりなんだけど、そういう噂がまた病院で…」
「…聞いた」
「き、聞いたんだ。び、びっくりした?あたしもびっくりしちゃった。だって、十歳も年下なんだよ。あたしをいくつだと思ってるんだろうね。そんなに若く見られるのかな〜」
とそこで何も表情を浮かべない直樹に気付いて語尾が小さくなり、「なーんて、ちょっと図々しかったかな」と気弱そうに続けた。
「明日、もしもその高校生に会ったら、この人があたしのだんなさまですって、言うつもりなの。なんかね、あたしが恋人…あ、その子知らないからそういうふうに手紙に書いてあったんだけど、いるの知って、振られるために書いて渡したんだって」
早口で直樹をうかがいながらしゃべる。
そこまで聞いて直樹はだいたいのことを把握した。
つまり、直接告白されたわけではなく、手紙をもらったのだと。
琴子はそれを読んでどう思ったのかは知らないが、少なくとも結婚もしていて、しかも十歳は年下であることを考えれば、本気で相手にするのもどうだろうかというレベルだ。
直樹は明日の朝に早めに出ようかと思っていた予定を取り消した。
せいぜい琴子の夫として隣に立つことくらいはしてやろうと思う。
ただ、今のこのイライラは、どうしてくれようか。
自分が十歳年下に告白されたことがない、と言えばそれは嘘になる。
さすがに少なくなったが、今でも時々一人の時を狙って数々の告白や手紙やプレゼントの類を持ってくる女性はいる。それが高校生だか中学生だか、それなりの妙齢の女性だか、年齢はあまり気にしたことがないので覚えていない。全部その場で断るからだ。
そういうことさえしない無防備な琴子がいつも腹立たしかった。
本人は自分が告白と同等の誘いを受けているとの自覚すらないこともあった。
それはそれで告白した輩が気の毒なだけで、バーカと舌を出していればいい。
「琴子、せいぜい夫がいる人妻だって事をその高校生とやらにたっぷり説明してやれば?」
「そ、そうよね」
「それじゃあ早速」
「え?」
「人妻の色気を醸し出してやろうか」
「か、かも?カモ出汁?」
また訳のわからない勝手な解釈をして疑問符を浮かべる琴子の服の襟を引き下ろして、唇を吸いつける。
赤くきれいな痕が付いたのを満足そうに眺めてから直樹は笑った。
「あ、入江くん、またこんなところに!いやー、もう、見えちゃうじゃない!」
直樹の意地悪そうな顔を見た琴子は、すぐ後ろの姿見に自分の襟元を映して叫んだ。
見えるからいいんだろ、とその場で上着のシャツをするりと脱がせ、スカートのホックを緩めた。
当然のことながらスカートはストーンと足元に下がり、琴子はあっという間に下着姿になった。
「ちょっと!そんなことで誤魔化されないんだから」
「何を誤魔化すって?」
「え?えっと、ここに痕をつけた…こと?」
何で疑問系なんだと思いつつ、観念したのか琴子はおとなしくされるがままになっている。
「まだお風呂入ってない…」
「後で入れば?」
「もう!無理だってわかっててそういうこと言うの?」
「…無理?」
「だって、入江くんが…」
「俺が?」
胸元にもう一つ赤い花を散らす。
明日はハイネック禁止だな。せっかくだから見せないと。
そんなふうに考えているとは知らず、琴子は相変わらずいい反応を示している。
「明日の朝、ちゃんとお風呂に入れるくらいにしてよね」
小さくそうお願いしてくる。
さて、それを聞き届けてやれるのかは、おまえ次第なんだけど、とささやくと、「意地悪」とつぶやいた。
いくらでも意地悪になれること、今更だろ?
そうやって琴子を抱きつぶしておいて、琴子の鞄を探る。
先ほど慌ててしまった紙は、例の手紙だと気付いたからだ。
そっと手紙を広げると、半分も読まないうちにまた同じようにしまった。
自分の憶えている手紙を思い出した。
琴子がなくしたと思っているあの手紙は、今もまだ直樹がとある場所に保管してあるのだが、それを一度も琴子に言ったことはない。
捨てるタイミングも失ったし、当に捨てる気も失せた。かと言って今更取り出して見ることもしない。ただただ、ずっとしまってあるのだ。
全文暗記しているので取り出すまでもない。
今どき手紙を書く高校生などいないだろうと思っていたのだが、どうやらその極まれな例を琴子は引き寄せてしまったらしい。
琴子はきっとちゃんと断るだろう。
それがわかっていてもなお、少しだけ悪戯心がわくのは、直樹もまだ夫婦として不安なのか。
恋人として付き合っていないまま結婚してしまった二人は、恋人として乗り越えるべきことを夫婦として乗り越えてきた。
時には甘えたり、時には嫉妬したり、喧嘩したり。
結局、琴子という人間に向き合ったスタートラインは、あの一通のラブレターだったのかもしれない。
琴子の隣にもう一度潜り込みながら、直樹は目をつぶる。
明日の所業くらいは少しだけ目をつぶってやろう、と考える。
いや、それも高校生の態度次第だな、と即座に訂正した辺り、直樹は自分の考えに自嘲した。
あの時の高校生の自分を今なら笑って見守るだろう。
何も考えない、何も楽しくない、何も興味を持てなかった高校生の自分。
受け取りもしなかったそのラブレターの持ち主と、何年か後にはこうやってともに夜を過ごしているのだと伝えたら、いったいどう思っただろう。
バカにするなと信じないだろうか。
あの頃には想像もできなかった今を想う。
きっと何を言ってるんだという顔をした自分に、あと何年か、波瀾万丈の後に幸せがやってくるのだと言ったならば。
きっかけは、たった一通のラブレターから。
(2015/11/09)