内緒にして
朝は気だるい。
いつものように起き上がろうとして、起き上がれなかった。
琴子は頭を振ってから、もう一度枕に頭を沈めた。
こんなことでは遅刻してしまう、と琴子は気力を振り絞って腕に力を込めた。
こんなに苦労して起きているというのに、その原因を作った張本人は、涼しい顔をしてすでに起きているに違いない。
なんとか体を起こすと、動けないほどではないということがわかった。
はらりと下がった毛布から、なけなしの胸が見えた。
この場に入江くんがいなくてよかった、とだけ思う。
どれだけ裸をさらしても、もう事が終わってしまった後のこんな瞬間は、恥ずかしくて仕方がない。
自分の体に自信がないこともあるが、いわゆる情事の跡なんかを明るい日の下で見つけてしまうからだ。
どんなふうに触られたのか、その熱までも思い出してしまい、いたたまれなくなるのだ。
とりあえずシャワーは浴びねばならない。
シャワーも浴びないうちにそのままベッドになだれ込んで寝てしまったのだから。
どうせ着替えるからと、その辺に散らばっていた自分の下着や服を身に着けると、そっとベッドから降りた。
まだ早朝の肌寒い中、自分から早起きしたそのわけを知られたくはなかった。
とは言うものの、部屋に戻ってから一歩も出ていない時点で、家族にはわかっているはずだ。
それも今更ではあるが、少し気恥しい。
降り立った瞬間に足ががくりとよろめく。力が入らない。
それでも何とか足を踏ん張って耐えると、少しずつ歩き出した。
どちらにしても時間が経てばこの気だるさも少しずつではあるが回復するだろう。
ゆっくりとお風呂場に移動すると、中でシャワーの音がした。
ああ、まだ入ってるんだと思ったが、だからと言って引き返す体力が今はない。
ここまで体を引きずるようにして来たというのに。
そのままお風呂場の外で座り込み、少し冷える廊下でぼんやりとしていた。
「おい、琴子」
気が付くといつの間にかまた寝ていたのか、揺り起こされて気が付いた。
「あれ、入江くん、もう出た?」
「身体冷えてるぞ、こんなところで寝るなよ」
「ああ、うん、いつのまにか寝ちゃったみたい」
そう言って立ち上がろうとしたが、それもなかなか一苦労だ。
壁に手をついて立ち上がろうとしたとき、ひょいと持ち上げられる感じがした。
そのままお風呂場に引きずられるようにして入り、手際よく服も下着も脱がされた。いつもこんなふうに脱がされちゃてるんだよね、あたし、とまだぼんやりとしていた。
「ほら、温まってこい」
そう言ってお風呂場に入らされ、シャワーを浴びさせられた。
ぼんやりとしていた頭が少しずつ動き出す。
一通り身体を洗うと、今度は浴槽に浸かりたくて、老婆のようによいしょっ…と声を出した。
後ろでぶっと笑う声がして、驚いて振り返った。
「まだいたの?!」
「いや、おまえがあまりにも動き鈍いから」
「だって、誰のせいよ」
「だからちゃんとシャワー浴びられるように手伝ってやっただろ」
「今日仕事なのに」
「あと1時間もしたら動けるようになるよ」
「…何でそんなことわかるの」
「俺のせいなんだろ?」
自信満々に言うので、口を尖らせて「もう、入る」と口では威勢のいいことを言って立ち上がる。でも動作は老婆だ。
「…見ないで」
「何で」
「…恥ずかしいから」
「じゃあ、がんばって」
あっさりと引き下がるので、そう言えばこの人はこういう人だったと思いながら浴槽に入る。
入ったはいいものの、今度は予想通りというか、え、嘘…と思いながらもなかなか立ち上がれない。
浴槽から上がるのは多大なる体力を必要とするのだと気付いたときには、すでに涙目だった。
「…何やってんだ、おまえは」
そう言いながら引き上げてくれたのは、やっぱり入江くんで。
琴子は涙目のまま見上げた。
「た、立ち上がれな…くって」
「そうだろうと思った」
「ううっ、だって、恥ずかしいし、入江くんがこんなふうにしたんだし」
言っているうちに結局涙がポロリとこぼれる。
琴子の文句を聞いても何も言わずに風呂場から出して、バスタオルをかぶせて眺めている。
さすがに拭いてとは言えないので、琴子は黙って自分で身体を拭いた。
「さっきよりはマシだな」
「…うん」
浴槽に浸かる前より気分はずっとすっきりしとして、何とか出勤できそうな感じだ。
そっとまた部屋に戻って本来起きるはずだった時間まで、ベッドの上にごろりと転がることにした。
「もっと手加減してくれたらいいのに」
「しただろ、手加減」
「どこが」
「仕事に行ける程度に」
いつものことながらその意地悪な物言いに何も言えず、見下ろしてくる顔を見やる。
悔しいことに爽やかな朝にふさわしい、爽やかな笑みだ。
どんな時でも琴子の目から見る姿はかっこいい。かっこよくない姿が思い浮かばない。
疲れているときも、落ち込んでいるときも、後悔しているらしいときすらも。
「ずるい」
反論もできず、ただそうつぶやくしかできない。
口では嫌いと言っても、本当に嫌いになったことなど一度もない。
ずるいけど、嘘つきじゃない。
いつでもどんな時でもどんなことでも絶句するほど正直だ。
あたしは嘘もつくし、隠し事もする。
知られたくないことなんて山ほどある。
それなのに、いつも知られてしまう。
一つくらいは内緒にしていたいのに。
全部、全部心の底の愛しい気持ちまで知られてるなんて。
「ホント、ずるい」
* * *
そこまで抱きつぶしていないはずだった。
いや、正確には抱きつぶさないようにするのが精一杯だった。
妙な嫉妬心に駆られた後は、あまり覚えていない。
少なくともこれが顔も知らない年下の高校生への嫉妬だとわかる程度には成長した。
へにゃりという言葉がふさわしいほどにベッドの上で横たわっている琴子を見下ろすと、いつまでも見つめてくるその視線が少し苦しい。
ずるいとつぶやく言葉が、そのまま奥底の気持ちを見抜かれたかのようで、知らずうちに微笑んだ。
すやすやとよく眠る琴子をベッドに残し、先にシャワーを浴びに行ったはつい先ほどのことだ。
随分冷たいと認識されているようだが、動けなくした妻を介護してやるくらいの気持ちはある。それこそ上から下まで洗ってやろうと思っていたのだが、そこまでするとそれだけでは済まなくなりそうなので、結果的には一人にしてよかったというところかもしれない。
浴槽から引き揚げて、身体を拭かせて、着替えをさせて部屋に連れ戻し、まだ少しぼんやりとしていた琴子の髪を一緒に乾かして、とりあえず出勤できるくらいの体力まで回復させることに成功した。
あとはこれで朝食を食べさせれば出勤はできるだろう。
ああ、そう言えばまだ出勤前にひと仕事あったな、と思いながら琴子を見やると、「ずるい」と口を尖らせている。
おまえはいくつだ、と問いたくなるが、ここはお約束としてその尖らせた唇に吸い付くだけにしてやる。
「んんっ、ちょ…」
抗議の声も飲み込み、無理にキスを繰り返す。
抵抗しなくなったところでようやく離すと、真っ赤な顔で「もう!」と怒ったふりをする。
本当に怒った時は、こんなふうにこちらを見ない、とわかっている。
体に残した跡が消えないうちにさっさと決着がつくことを願いながら、朝食のためにダイニングに下りていくことにした。
「あのね、入江くん」
「…何」
「昨日の手紙、入江くん、見る?」
「必要ない」
何故なら、半分ほどはもう読んだからだ。
問われれば正直に答えるつもりでいたが、それ以上琴子は何も言わなかった。
内緒で読んだ、というのはあまりかっこいいものではないが、妻が男から告白の手紙をもらう、というシチュエーションの方を重要視してもらいたい。
「断るんだろ」
「そりゃもちろん!」
勢い込んで言う。
当然だ。当然であってほしい。
「あたしが好きなのは、いつまでも入江くんだもん」
その答えに満足しながらダイニングの席に着く。
こんな単純な答えに喜ぶのは、男のさがかもしれない。
「だから、お義母さんたちには内緒にして」
誰が好き好んで言うかよ、と心の中で愚痴る。
「あら琴子ちゃん、今日は動かなくていいわよ〜」
「え、でも」
「あら、いいの。いいのよ。仕事へ行く前に体力は回復しておかなくっちゃね」
ほほほと朗らかに笑いながら全てお見通しな入江家の主婦には、秘密なぞ存在しないらしい。まるで諜報員のようだ。それも凄腕の。
琴子は直樹の顔を見ながら真っ赤になったり冷や汗をかいたりと、いまだ慣れないやり取りに焦った様子で、平然とやり過ごすことなど思いつきもしないらしい。
いずれ全てがばれることになるだろうと、直樹は出てきた朝食を食べることにしたのだった。
(2015/11/23)