強がり
更衣室で着替えていると、はたと気づいた。
どうしてもスカーフを取らなければならない。
着替えるだけ着替えると、コンシーラーを片手にプルプルと震える手で首筋のキスマークを隠した。
これで全部、とは言えないけど、何とか仕事のできる程度になった、はず。
身体も実はまだだるいけど、さぼるわけにもいかない。
というか、入江くん、いつもいつもいつもどうしてそういうこと考えてくれないんだろうか。
今日は確かにちょっとしたやきもちかもしれないけど。
なんとか職場に到着して、すかさずモトちゃんに休憩室まで連行された。
「はい、後ろ向いて」
言われるままに後ろを向くと、「コンシーラー」と手を出された。
モトちゃんに手に持っていたコンシーラーを渡すと、見えなかったうなじの方のキスマークを消してくれたようだった。
「ありがとう。入江くんったら、昨日から本当に意地悪で」
「あたしの休みの間に高校生男子にアタックされたって?」
「う、うん。手紙もらっちゃって。入江くんにも知られて、今朝ちゃんとお断りしたんだけど」
「それでこれなわけね」
「う、うん、そうみたい」
「あら、そんなふうに言ったの?入江さんが?」
「言ってない。けど、やきもちやいてくれたのかなって」
「ふーん、あんたにしてはいいとこついてるじゃない」
「そうよね」
モトちゃんの言葉でやっぱりやきもちをやいてくれたんだって、あたしは確信した。
「さ、とりあえずお仕事しましょ。あんた、足が萎えてるからって、失敗しないでよ」
「わ、わかってる」
仕事中はまだよかったけど、お昼休憩に入った途端に事の顛末を聞きたがる同僚たちでいっぱいだった。
事の顛末って言ったって、あたしは人妻なわけだから、断るに決まってるじゃないの。
確かにあの高校生君は、結構かわいい顔していたけど、入江くんにかなうわけないじゃない。
そりゃ入江くんだって、あたしが手紙をもらったことにあまり面白くなさそうだったけど。
「入江先生って、結局琴子を独り占めしたいのよね」
同僚が呆れたように言った。
そうかしら。そうよね。そうだと思うわ!
「入江先生が琴子と結婚してるっていうのに、それ以下の男と浮気なんて、プライドが許さないわよね」
プ、プライドの問題なの?
「これ見よがしにつけちゃって、まあ」
そう言ってあたしの襟元をめくる。
「これ隠すの大変だったんだから」
引っ張られた襟元を引っ張り返す。
「あ〜、言ってくれるわねぇ」、
つまらない、と言って同僚たちは休憩室を出ていく。
あたしもそろそろ準備しないとね。
身体は疲れているけど、朝ほどではない。
お昼をモリモリ食べたら、ようやく体力も回復したって感じ。
先ほどの同僚と交替したのか、モトちゃんがお昼休憩にやってきた。
「お先に、モトちゃん」
「あれこれ言われたのか、入江先生ったらすごく仏頂面だったわよ」
「え〜、また西垣先生にでも言われたのかしらね」
「それから、高校生男子の写真見せてもらったけど、かわいいじゃない」
「い、いつの間に写真…」
「さあ、見かけた誰かが撮ったみたいで、出回ってたわね」
「もう、余計なことを」
噂好きな斗南とはいえ、あの高校生に悪いことしちゃったな。
「で、あれに入江先生が嫉妬したってこと?」
「た、多分」
「大人げない」
モトちゃんの一言に、あたしは吹き出した。
そうよね。だって、高校生とどうこうなるわけないもの。
それなのに入江くんったら。
でもあたしだって、もしも相手が高校生だとしても、入江くんにアタックされたら、きっとものすごく気になる。
気になるどころか絶対やきもちやいて入江くんに呆れられると思う。
理加ちゃんの時だって、あたしは必死だった。
理加ちゃんより好きだって自信はあっても、入江くんが同じように好きとは限らないしって。
もしも理加ちゃんの方がいいって言われたらどうしようって。
あの時の気持ちを思い出すと、入江くんのことを大人げないって笑えない。
あたしが入江くんだけって知っていても、それでも沸き上がる不安はどうしようもないものだってこと、あたしにはわかる。
あ、もちろんあたしは、入江くんがずっとあたしのこと好きでいてくれるかどうか、自信はない。
だけど、それでも、信じていたい。
入江くんが、そばにいていいって言った言葉を。
「あんたにその印がついてる限り、入江先生があんたを手放すなんて、これっぽっちも思ってないこと、わかってるでしょ。ホント、うらやましいったら」
そう言ってモトちゃんは、お財布を持って食堂に行ってしまった。
ナースステーションには入江くん。
確かに仏頂面。
あたしは入江くんに近づくと、そっとささやいた。
「大人げない入江くんも大好きよ」
どんな入江くんでも好きなのに、と言ったつもりだったのに、入江くんから返ってきたのは、愛の言葉ではなく、手に持った書類から下されるスパンと小気味のいい音の愛のチョップだった。
* * *
「お、今度は高校生相手にムキになって蹴散らしたって?
相変わらず容赦ないなぁ。
小児科の子どもだろうと琴子ちゃんに言い寄る性別・男は全部返り討ちだもんな。
ホント大人げないやつだなぁ」
「あ、西垣センセ、その高校生の写メ、見ます?」
「お、ミナちゃん、そんないいもの持ってるの」
「これです、これ」
「へぇ、結構かわいい系だね」
「ですよねー。琴子を選ぶ辺りがおかしいけど」
「琴子ちゃんはこう、一度目につくと目が離せないから、気になったらずっと見てるうちに好きになった、ていうパターンかもだよ」
「えー、そんなんでこんなかわいい高校生と知り合えるなら、あたしもちょっとばかりドジな振りしようかな」
「何言ってるんだよ。ミナちゃんはそんなことしなくても十分目が離せないよ」
「やっだ〜、センセったら」
そんな勝手な会話を背中で聞いていると、琴子に対するあたりの強さに辟易する。
既に琴子相手に告白をした高校生の噂は蔓延していた。それもどうかと思うが。
勝手に人妻に想いを募らせて、迷惑な告白をした挙句、まるで不倫したかのように噂されるのは、その夫である自分にとっても面白くない。
実際琴子はきっぱりとその高校生を振ったのだから。
高校生の写真が出回っているようだが、それは自業自得。
それが嫌ならあんなに目立つ場所で告白にも等しいことをしなければいいだけだ。
ああ、そう言えば琴子も生徒がひっきりなしに通る場所で手紙を渡しに来たんだっけ。
あいつもバカだよな。もう少し場所を考えればよかったのに。
だからと言って、他の場所で渡されても多分受け取らなかっただろうが。
少なくとも琴子は高校生からの手紙を受け取り、ちゃんと中も読んで、そのうえで断りの返事をしたのだから、俺よりは余程情のある処置だ。
高校生相手にキスマークを見せつけるなんて、と琴子は言った。
今どきの高校生はそれくらいで引くようなやつらじゃない、と言ってやろうかと思ったが、実際あれで引かなければ実力行使も辞さないところだ。
「それで、琴子ちゃんは何と言って断ったの?」
「普通に人妻だからって断りました」
「人妻って響き、いいよね。逆に高校生が燃えたりしないかと心配にならない?」
「なりません!西垣先生じゃあるまいし」
「おや、僕は人妻ってだけで燃えるたちじゃないよ」
「へー、あたしはてっきり人妻だろうと高校生だろうと構わないタイプだと思ってました」
「あ、それは合ってる。年は関係ないし、偶然人妻だったりもあるかもね。
でも基本的には人妻はパス。不倫はあまり好きじゃないんだ。それに慰謝料云々とか面倒だしね。あなたの子どもが…ってのもないタイプだから安心して」
「誰にアピールしてるんですか」
「でも琴子ちゃんも一度くらいあいつ以外の男を知った方がいいと思うんだ」
「残念でした、あたしは入江くん以外の人は知らなくていいんです」
「もっとこう視野を広げるためにだね…」
少し離れたところでそんな会話をしている。
聞こえていないとでも思ってるんだろうか。
あなたが口説いているのはれっきとした人妻で、しかも指導している後輩の嫁ですが。
人妻は面倒だから口説かない、みたいなポーズを取っている指導医だが、暇さえあれば琴子にちょっかいをかけている。
もちろん琴子はいつも冗談だと思っている。
指導医は半分冗談、半分はちょっとその気になってくれたらラッキーと思っている節がある。
それは、多分俺の嫁だからという興味と、自分になびかない女がいる、というのが許せないのだろう。
その自信がどこからくるのかわからないが、相当図々しい。
少しくらい痛い目を見ればいい、とこの指導医の周りの男たちは皆思っているだろうが、案外立ち回りが上手いのか、それほどトラブルは少ない。
何せ女に対してはマメだ。
予定がブッキングしないように調整するのはもちろん、どんな女にもとりあえずは声をかける。誘う誘わないは別として。
本気で追いかけられないようにうまくかわしてもいる。
つまり、本気にならないような女としか遊ばない。
そういう男が琴子に声をかけるというのがさらに腹が立つ。
ただ、こういう男よりもやはり高校生の方がたちが悪い。
昔の理加と同じで思い込みが激しい。
自分の理想を作り上げる。
諦めが悪い。
琴子が断っても食いついてくるようなら、容赦なくたたきつぶす、くらいは考えていた。
「入江くん」
琴子が俺のそばに来てささやく。
「大人げない入江くんも大好きよ」
…ちょっと待て。
いつ俺が大人げないって?
高校生相手に、と言うならば、夫として笑って見てろってことか?
その能天気さにムカついて、思わず持っていた書類で琴子の頭をはたいた。
おまえは毎回俺が浮気しただのなんだと騒ぐ自分のことを棚に上げて、よくもまあ言えるもんだな。
「おまえ、明日は確か休みだったよな」
「うん」
「…楽しみだな、今夜」
「…え?」
「明日、どこか出かけるんだったっけ?」
「久しぶりに理美とじんことおしゃれなカフェにでもって…」
「へ〜、そりゃ楽しみだな」
「い、いいい入江く…ん?」
途端に何かを察した琴子は、さーっと顔が青ざめていったが、それは知らないふりをしてやった。
多分今夜は俺が帰ってこないうちに早めに寝てしまおうとか、あれこれ策を弄しているのだろう。
意地でもそうはさせるかと、今日の仕事を速攻で片づけるべく精力的にこなしていった。
もちろん残った仕事はふざけたことを言っていた指導医に任せることにした。
今夜はどこまで強がりを言っていられるか、本当に楽しみだ。
(2015/12/16)