素肌
吐息が漏れるたびに声も漏れる。
もうどうしていいかわからなくなった。
入江くんに抱かれると、たいていのことは頭から飛んでしまう。
しかも今日は昼間からの予告。
しかも昨日だってちょっと大変だった。
待って!少しは手加減して!と抵抗したにもかかわらず、あたしは今ベッドの上であられもない格好をしている(に違いない)。
このまま結局朝まで目覚めなくて、明日あたしはうんうん唸りながら理美たちに電話する羽目になるのだろう。
入江くんは平然とした顔で仕事に行ってしまう。
ずるい。
ずるいと思うなら、もっと抵抗すればいいのに、と頭のどこかで思う。
思うのに、キッスをされると、あたしはなし崩しに入江くんのするがまま。
入江くんの言いなりになるこの体が憎いわ。
キッスは好きなの。
初めてキッスをしてもらった時はわけがわからなかった。
二回目は知らないままだった。
三回目は、冷たかった。冷たくて、信じられなくて。
もう一度、もう一度と思ううちに体が冷えてきたことに気付いて、あたしたちは家路をたどった。
あれは夢だったのか。
一回目も、二回目も、三回目も、あたしには夢のようだった。
実際二回目は夢の中だったけど。
それから、入江くんはたくさんキッスをしてくれるようになって。
肌にチュッと音がする。
まだ軽いこのキッスでは、痕なんかつかない。
これは労わりのキッス。
あたしが入江くんに愛されてるんだな〜って思う瞬間。
優しい、ただただ優しいキッス。
入江くんの服がいつの間にかなくなって、素肌が触れる頃、唇へのキッスがどんどん深くなる。深くなる一方で、あたしは少しだけ呼吸困難。
最初は恐る恐るだった。
もちろん一回目も二回目も三回目ですらこれほど舌を絡ませるのがキッスなんだって知らなかった。
一回目の軽い罰のようなキッス。
二回目の夢のようなキッス。
三回目の冷たい雨のキッス。ぬくもりが移りきる前にあたしたちは離れたんだった。
さすがにこれでどうだと言わんばかりに入江くんのキッスが深くなったのは、結婚式直前だったと思う。
頭は真っ白だし、どうしていいかわからないし、離れた後もしばらくはぼんやりとしていた。
最初の頃の夢見るような唇だけのキッスとは違う、恋人同士のキッス。
何と言うか、そう、エッチなキッスよね。
あたしは聞いていたような聞いていなかったような知識で、すごく戸惑った。
入江くんは平然としていたけど、男の子って、年頃になればエッチな雑誌やなんかで友だちとあれこれ読んだり話題にしたりするらしいし。
…あれ?
入江くんって、友だち、少なかった…気が。
渡辺君とそんな話を?ええっ、渡辺君が?
うーん、ありえない気がする。
あ、そう言えば須藤先輩がいつだったかアダルトビデオがどうとか。
そうか、そうだったんだ。やっぱりね。
入江くんが積極的に見るわけないし、あの渡辺君と二人でエッチな雑誌をネタに下ネタなんてないわよね。うんうん。
それに高校生の頃の入江くんって、裕樹君と相部屋で、エッチなことする余裕もエッチな雑誌を持ってる気配もなかったし。
まさに聖人君子のような高校生だったわよね。
…あ、だから一人暮らししたかったとか?
まさか誰かしら連れ込んで…とか。
あはは、はは。
そ、そうよね、入江くんだって、血気盛んな若者だったんだもの。
いくらなんでも十代でおじいさんのような枯れた生活するわけ…。
う…。
ぐすっ。
「…何泣いてんだ」
「だ、だって、入江くんが一人暮らしで女の人連れ込んで…ううっ」
入江くんは呆れている。
そりゃそうだろう。
今あたしが口にした話は、もう過ぎ去った過去のこと。
「連れ込んでねぇ!」
「本当に?」
「連れ込んだのはお前だけだ」
「でも手を出されなかった」
「出すわけねーだろっ」
「でもでも」
「うるさい。余計なこと考える暇もないようにしてやる」
そう言うと、入江くんは少し乱暴に口をふさいだ。
次から次へと舌を絡めて息継ぎも大変なほどに。
入江くんはいつ息をしてるんだろう。そんな疑問がわくほどに。
もうキッスだけですでにメロメロなあたしは、ぼんやりと入江くんを見上げた。
ちょっと眉根を寄せた顔が、あたしは結構好き。
きれいな入江くんの顔が、もっと冴え冴えとして、とっても素敵。
とか思ってる間に一気に入江くんが入り込んできた。
「え、ちょっと、いきなりすぎ…」
あたしの顔をじっと見て、笑った。
笑った顔も好きなの!
滅多にないから、もうすごく貴重だし。
よく小児科の先生やれるなって思うくらいなんだけど、それでも怖いって泣かれないのは、不思議よね。
「あ、ちょっと、入江く…」
抗議の声もここまで。
激しい嵐のように入江くんに滅茶苦茶にされる。
鎖骨辺りにちくりと痛みが走る。
「や、もう…」
絶対痕つけてる。
何でそんなに痕をつけるのが好きなのかな。
あたしの思考はここまで。
憶えているのは、入江くんの吐息。ささやく声。あたしを呼ぶ声。
触れる肌のぬくもり。
気持ちがいい。
どれもこれも体中が気持ちよくて、もうどうなってもいいって思う。
…うん、そう思うのは幸せなことなんだけど、後でそう思ったことを一度は後悔する。
あたしは入江くんに愛されてる。
多分、あたしが考える以上に、もしかしたら。
その愛情は、ちょっとだけ激しくて、ちょっとだけ冷たい。
あたしを喜ばせることも落ち込ませることもいろいろあるけど、入江くんが時々でいいから幸せだって思ってくれたなら、あたしはそれでとても満足。
だって、あたしが、入江くんを大好きなんだもの。
* * *
思考の過程が目に見えるようだ。
キッスは好きなのとつぶやく。
その後は…渡辺?
ベッドの上で何故別の男の名前を聞かなくちゃいけないのか、非常に不愉快極まりないのだが、友だち少ないとつぶやいたことで合点がいった。
親しい友人がいない、と琴子は思っている。
まあ、それには反論しない。実際親友と呼べるほどの友人がいない。かろうじて渡辺が親友と呼ばれるくらいいよと許しそうな感じだ。その寛大さには感謝している。
そして急に涙ぐむ。
渡辺しかいないのを憐れんでいるのかと思いきや、一人暮らしで女を連れ込んで…?
学生の時のことかよ!
いつの話だ。
そんな余裕があったように見えるとは、こいつのストーカー能力もまだまだだな。
だいたい女を部屋に入れたのは、こいつだけだ。
それすらもかなり躊躇したし、緊急避難だと割り切らなければ決断しなかったのに。
そもそもあの時は…。
いや、もう考えるのはやめよう。こいつの思考に付き合っていたら、一晩中かかる。
だいたいまだ抱き足りない。
そう思って涙目の顔に近づいて、キスを繰り返すと、途端にとろりとした顔に変わる。
女ってこえーなと思う瞬間。
怒ったり泣いたり笑ったりと、普段は決して色気とは無縁な表情を見せる琴子が、うまそうになる瞬間。
他の女がこういう顔をしたところで気持ち悪いとしか思えないのに、こんなバカ面が変わっただけで、自分の中の男の本能を刺激されるとは。
気付いたときにはすでに男の部分に血液が集中していて、一刻も早く琴子の中に入り込みたいという欲求に駆られる。
先ほど達して潤わせておいた琴子の中に欲求のままに入り込む。
琴子の抗議の声もそこそこに奥まで入れると、かなり満たされる。
本来ならここまで強引には入れない。
無理にするのは本意ではなく、いくら琴子が俺を好きだと言ってもいわゆるDVになるだろうし、これでも琴子の体の欲求を見ながら抱いているつもりだ。
抗議していた割には顔が上気して、ぎゅうぎゅうに抱きついてくる。
早く動けと言わんばかりに腰がもぞもぞと動き出す。
つまり今の強引なのも結局はオッケーということだ。
俺の欲求にも応えようと最大限まで頑張ってしまう。根性の女だからな。
お仕置きだの報復だのという口実のもとに、あれこれさせて、堪能した。
そもそも俺の体力を少しでも消耗させようとしたのか、最初からやけに積極的に口で咥えこんできた。
ますますいきり立つだけだと何故学習しないんだろな。
前から後ろから思う存分堪能すると、喘ぎ声もかすれてくる。
昨日の今日でさすがに体力が完全に回復していないのか、二度目に達した辺りでヘロヘロになっている。
「もうダメと言う割には、おまえの中、吸い付いてくるけど?」
「うう…ん、でも、もうだめぇ」
「ダメと言って、ダメなことなんて、ほとんどないけどな」
そうは言ってもさすがに声を上げて三度目に達した後、琴子は気絶するようにして眠ってしまった。
仕方ない。
額と頬に張り付いた髪をすき上げると、穏やかな顔で眠り始めた顔が見えた。
うっすらと汗ばんだ素肌もそのうち冷めるだろう。
ところどころ付けたうっ血した痕。
欲望に任せて付けたキスマークは、昨日のものを含めると、色とりどりだ。
付けたばかりの赤。少しくすんだ紫。消えかかっている薄黄色。
お湯でいち早く温めれば、少しは消えるのも早くなるのだが、いつも直後に眠ってしまう琴子の場合、しっかりと痕が残ることになる。
その痕を見ながら手近なタオルで拭いてやり、身体に布団をかけてやると、不意にふにゃりと締まりのない顔で笑う。
その顔を見下ろし、沸き上がった幸福感に自分で驚く。
抱きたいという欲望。
それを満たしてくれる相手。
呆れても、怒っても、決して手放すことは考えなかった。
そんな相手を見つけられた幸運に満たされて、眠りについた。
ベッドの中、素肌の柔らかさと温かさに包まれて。
* * *
「どうする?」
「今回は二人だけで行っちゃおうか」
「そうねぇ。帰りにそこのケーキをお土産にして、顔を見に行く?」
理美の提案にじんこが賛成すると、二人して三人で行く予定だったカフェへと向かった。
三人の予定が二人になったのは、待ち合わせ直前に琴子から体調不良でお断りが入ったからだ。
まさか妊娠か?と聞いてみれば、何のことはない。ただ抱きつぶされていただけだった。
それを言葉を濁して口ごもっていたのを無理矢理聞き出したのだった。
「あの入江くんがねぇ。あ、あたしカフェモカとパンケーキセットにしよう」
理美がメニューを見ながら言った。
「全く女になんか興味ありません、って顔してたくせに。あたしは豆乳抹茶とチョコバナナワッフル」
じんこがメニューを閉じて店員を呼んだ。
「だいたい同居の時だって、散々貶してたくせに」
「でも、琴子にはキッスしてたんだよねぇ」
じんこが思い出したように頬杖をついた。
「そうそう。結局入江くんも男だったんだなーってあたし思ったわよ」
理美も思い出したように言った。
「顔のことは一切言わないけどさ、あれで琴子は結構かわいいと思うんだけど」
「何かいつもプリプリの肌してるしね」
「あー、言えてる」
「愛されまくってるんだから、それも当たり前なのかもね」
「態度は相変わらずなのに?」
「そうだよ。何あのツンデレ。家では抱きつぶすほどかわいがってるくせに」
「そう言えばCカップになる方法教えてって言ってたけど、Cカップになったら抱いてやってもいいみたいなこと言われたんだっけ」
「結局体の話だったの?じゃあ、琴子の顔は文句ないんだ」
「えー、入江くんって、そういう人なの?」
「性欲なんかありませんって顔して澄ましてるのにね」
「しょうがないよ。琴子限定っぽいもん」
「あー、それも何か愛が重い」
「重い重い。言うほど琴子ばっかりじゃないよね」
二人で顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。
この後二人は、入江家にお邪魔して、腰痛を訴える琴子の素肌のあちこちに、うっ血した痕を見つけ、ため息をつく。
「どれだけ見せつけたいのかしら」
「今どきここまでしないわよね」
「ううっ、あたしだってカフェに行きたかったわよぉ…」
涙目でベッドに沈んでいる友を見ながら、理美とじんこはこれに付き合えるのは間違いなく琴子しかいない、と確信したという。
(2015/12/25)