たとえようもなく
入江くんの存在は、あたしにとって奇跡。もちろん入江くんと出会ったあの日の衝撃は忘れないわ。
世の中にこんなに格好いい人がいるなんて、と。
入学者代表ならきっと頭もいいのだろう、と。
実際誰よりも頭が良かったのだけど。
性格は…うん、そのうちわかったんだけど、遠くから見てただけのあたしには、入江くんがちょっと意地悪で、そんなにも毒舌だなんて知らなかったの。
噂で聞くだけで直接話したこともない二年間だったし。
そっと眺めるだけで満足で、告白なんてとてもできなかった。
それなのに、告白の手紙を渡した途端に同居になるなんて、神様って入江くんと同じくらい意地悪。
手紙を渡さなければ、もう少しいい印象で出会えたかも、なんてね。
そりゃあたしの頭の悪さはカバーできないかもだけど、もう少しおとなしくしていたはず。
売り言葉に買い言葉をやっちゃった後で、同居のためにどうしても会話したら頼みごとをしたりしなけりゃいけなかっただなんて、ついてなかった。
それでも、出会えたことには感謝する。
出会えたから、あたしは入江くんとこうして結婚もできた。
高校の入学式に運命の出会いなんて素敵じゃない?
…お父さんに言わせれば、小さなときに会ったことあるはずだって言うんだけど、おしゃぶりくわえて寝転がっていたような赤ん坊にどうやって運命の出会いがあるっていうのよ。
だいたい記憶すらないわよ、そんなの。
そんなことを入江くんに言ってみたら…。
「おまえ、憶えてないのか」
「え?何を?何を覚えてるって?まさか、入江くん、一歳の頃の記憶まであるって言うんじゃ…」
あたしは驚いて聞き返した。
入江くんは天才だ。
一度見たものはほぼ忘れない。
意図的に忘れることにしてることはともかく。
入江くんは読んでいた本をぱたんと閉じた。
「…ばーか、簡単に騙されやがって」
「う、嘘なの?!ひどい、入江くん!」
「いくら俺でもおまえと会ったことすら知らねーよ」
「う…。そ、そうよね。それが普通よね」
いくら入江くんでもそんなことあるわけない。
でももしも、もっと早く会っていたら…どうかな。
「多分無視した」
あっさりと言った。
どうせ、そうよね。そう言うと思ってたわ。
こう甘い幻想をバッサリはっきり壊してくれるのよね。
「でも、まあ…」
そう言うと、入江くんは笑ってあたしにキッスした。
「なあに?」
「こんなふうになるなんて、高校生の俺でもわからなかったんだから」
「あたしは思ってた。いつか入江くんと運命の…とかね」
あたしはいつもそう思っていた。
運命の出会いだと思ったあの日から、あたしの中には誰にも代えられない人が存在している。
「思うのとわかるのは違う気がするが…、おまえの思い込みには負けるよ」
「そうでしょ」
あたしは入江くんの首に手を回し、キッスをねだりながら思う。
何度キッスをしても、何度好きって言っても、足りないくらい。
あたしの入江くんへの愛はたとえようもないくらい大きいの。
入江くんと見つめ合うことのできるこの奇跡だけでも神様に感謝しなくっちゃね。
* * *
「奇跡よ…奇跡…」
「…寝言かよ」
腕の中で琴子がつぶやいた言葉に一瞬にして目が覚めた。ついでに言うとパンチもくらった。腕の中だというのにおとなしくしていないやつ。
無理矢理休みを取ったこの日、もう少しこのまま眠っていたい。
同じ奇跡で言うならば、おまえが看護科に受かったのも奇跡だと思うけどな。
あられもない格好で寝ている琴子を抱き寄せる。
起きているときは恥ずかしがっているくせに、寝ているときの寝相は知らないんだろう。
こうも無防備にさらけ出しているのを見ると、つい悪戯したくなる。
うなじはともかく、脇の下も広げっぱなしだ。
そこをぺろりと舐めれば、「ん…」と微かな反応。
胸の先も適当に突いてみる。
いつになったら起きるのか見ものだ。
そのまま指をなぞって下におろしていく。
へその辺りで何かむずがゆいのか、手が出てきた。
追い払おうというわけだ。
その手を片手でつかんで、更に指をへそから下に添わせる。
下腹に来た辺りで「う、ううん」と体が動く。
顔はしかめられ、先ほどまでの平和すぎるくらいの寝顔が険しくなっていく。
それと同時に頬が少しずつ染まってくる。
歯をくいしばるせいなのか、首筋もうっすらと色づいてくる。
まだ乾ききっていない下腹から先の繁みに指が到達する頃には、唇が吐息とともに開いた。
まだ目は開かない。
散々潤わせた狭間に指はするりと入り込む。
「ん…はっ…」
まだ寝たままなのか、無意識のように体を捩る。
指一本では物足りない。指を抜いて違うもので埋めたいと体が欲求する。
こんなに間抜けな寝顔から欲情できるのも我ながらもの好きか、と思いながら結局は琴子にがんじがらめになるのだ。
「琴子…まだ寝てるのか」
そうささやいてみたところで答えはわかってる。まだ寝てるのだ。
「もう一度眠れるように付き合えよ」
そう言いながら勝手に琴子の体を撫でる。
「はあ…ん、いり…えく…ん」
ようやく目をうっすらと開ける。
「俺を起こした責任を取れよ」
「ん…な、んの…責任…?」
目を開けた琴子にキスをして、琴子にとってはわけのわからないうちにまたもや刺激を与える。
「もう、朝…?」
「まだ夜明けだよ」
「じゃあ、また寝る…」
「そうだな、もう一度」
「うん…って、ええっ、い、入江くん、また入ってる、入ってる…」
一息に挿入した俺に抗議するかのようにそう言った。
「…だから?」
琴子はう…と黙った後、「寝るんじゃなかったの?」と聞いた。
「寝るよ。おまえが起こしたから目が覚めた」
「あ…たし、が?えっと、ご、めんなさい?」
どうも腑に落ちないという顔をして琴子が言った。
そりゃそうだろう、本人は寝ていて記憶にないんだろうから。
このまま寝てしまいたい衝動に駆られる。
「あの、入江くん、その…」
俺があまりにも動かないものだから、どうしてこのままなの、とでも言いたげだ。
中に入るたびに実感する。
好きな女の中に入るのは、どうしてこうも気持ちがいいのだろうと。
これをずっと我慢してたなんて、俺はバカだったな、と。
「…お願い、入江くん」
琴子のお願いに負けて、このぬくもりの中から出ていかなければと思うと少しばかり残念だ。
あまり性能のよくない安物のベッドは、動くたびにきしむ。
それがまた琴子はたまらなく同棲か何かのように思えるらしくて、離れていたこともあって余計に乱れる。
何せ狭いベッドの上だ。
琴子が神戸に来るたびにこの狭いベッドにはうんざりだと俺は思う。
それでも、いつもより密着して眠ることに琴子は満足しているらしい。
実家はバカでかいベッドだからな。
ずり落ちないように抱き合って眠るなんてこと、あの雪の日には到底想像できなかった。
いや、少しくらいはそうしてもいいかと思った瞬間もあった。
一人暮らしの男の部屋で、爆睡した女は今、俺の腕の中にいる。
それは、あの頃には素直に思えなかった。
たとえようもなくこの女を欲していると示すこと。
キスをして、抱き合って、抱きしめて眠ること。
「いり…えくん、だ…いすき」
いつも変わらぬ言葉を変わらないまま口にしてくれる存在に愛しさを伝えること。
ぬくもりの中から引き揚げざるるを得ない自身を残念に思いながら処理をして、再び眠りにつくことにした。
明日から…明日からまたどうやって日々を過ごしていくのだろう。
先に寝落ちしてしまった体を壁際に少し押しやって、少し涙の浮かんだ顔を見やる。
温かな体から健やかな寝息を聞きながら眠りに落ちる。
そのささいな幸せとぬくもりを感じながら。
(2015/10/16)