ずぶ濡れになるまで
あれが二度目のキッスだと思っていた。
まさか二度目が清里だったなんて。
後から知った時にはただただ驚いただけだったけど、よく考えたら寝ている間だなんてまるで眠り姫か白雪姫のようよね。しかも清里の木立の下で…なーんて。きゃっ。
いやーん、もう、入江くんったら。
それに、本当は三度目だったキッスの後、すぐに四度目とか、もう数えなくていいとか、ああ、今思い出しても夢のよう…。
「…おまえ、恥ずかしいことをいちいち声に出すな」
後ろで入江くんが盛大に眉間にしわを寄せて怒っていた。
あたしが思っていたことを全部口に出していたらしく、それはそれはとても怖い顔。
入江くんはまだ少しだけ髪が濡れた状態で、あたしは鏡台の前。ブラシを片手にようやく髪を乾かし終わったところ。
タオルをかぶっている入江くんは、あたしを見下ろしながらもう一度ため息をついた。
何度も思い出しちゃうんだもの。
こんな雨の夜には。
あたしが使い終わったドライヤーで髪を乾かしながら、顔は不機嫌なまま。
あたしはそんな入江くんを見てちょっと疑問に思う。
入江くんは、思い出したりしないのかしらって。
あれから、本当に数えるのも大変になって、自然とやめてしまったのだけど。
だって、入江くんったら、途中までどうしても数えるのをやめられなかったあたしに気付いて、もう本当に数えきれないキッスをしてくれたから。
それに、あたしもちょっと疑問だったの。
一度口を離したら一回なのか、時間が違えば一回なのか。
雨の中で一度離した唇は、もう一度降ってきて、あたしはああ三度目だって(その時は清里のキッスを知らないから)思ったのだけど。
ちょっと離しただけじゃ一回って数えない方がいいのかしらって思ったりなんかして。
入江くんのキッスは、回数を増すごとに少しずつ深くなっていって、あたしは息も切れてしまったり。
初心者だったあたしは、キッスの仕方もわからなかった。
どうやってキッスをして、どうやって息を継いだらいいのかもわからなかったから。
キッスの合間に見た入江くんの目は、真っ直ぐにあたしを見ていて、普段そんなふうに見つめられたことのなかったあたしは、どぎまぎしてどうしていいかわからなかった。
それだけで息が上がってしまって、息が苦しくて。
それなのにまた口をふさがれて、鼻で息をすればいいんだって気付くのに時間がかかった。
鼻で息をするのだって、鼻息が…とか思ったら、なかなか難しくって。
でもそのうちそんなの気にする余裕もなくなっちゃったんだけど。
そう思えば、入江くんって、かなり余裕だった気がする。
あたしと一緒で初心者…よね?
だってあたしに自分からしたことないって言ってたくらいだし。
それとも天才はそんなことまで天才なのかしら。
理美とじんこはただ器用なだけでしょって言った。
うん、あたしもそう思うことにする。
だって、あたしは不器用だものね。
「ねえ、入江くん、キッスするときって、何か考えてる?」
あたしのこの質問に、ドライヤーを使っていた入江くんは、「は?」と言った。
ドライヤーの音はぶおんぶおんって鳴っていたけど、入江くんの手は止まったままだ。
よく聞こえなかったらしく、少しだけ首を傾げた。
やっとドライヤーを止めてから、それを置くと、あたしの肩をつかんでキッスをした。
「で、何か考えたか?」
突然のキッスじゃ、何か考える余裕もないよ。
あたしは首を振って離れた唇を見つめていた。
キッスをする前ならちょっと考える。
キッスしてくれるのかな、とか、キッスしたいなって。
その唇が触れるとき、あたしはいつも入江くん大好きって思ってる。
怒ってる時でさえつい許してしまう。
いつもあの時の気持ちを思い出す。
一生入江くんを好きでいようって思ったあの時を。
ずっと、このままでいたいって思った気持ちを。
* * *
風呂から戻ると、何やらぶつぶつつぶやいていた。
それはいつものことだが、言ってる内容はかなり恥ずかしい。
清里での事をいまさらぶり返すな。
今思い出してもあれは失敗だった。
まさか裕樹に見られるとは。
しかも寝ている間になんて。
したら何か変わるのか、したから変わるのか。
そんなこともちらりと考えていた。
それでも、した瞬間だけは何も考えていなかった。
自覚が後からやってきたあの時は、自分がそんなふうに理性を無くすことがあるのだと驚いたくらいだ。
それからは意図的に考えないようにしていた。
ただ当たり前の男のようになってしまっては、あのおふくろの思うつぼだと思うとそれは避けたかったからだ。
外の天気に気付いて琴子の考えていることがわかった。
雨が降っている夜は、少なくともあの雨の日の夜を思い出す。
それは琴子だけではなく、俺もだ。
特にこんな秋の夜には。
婚約も何もかももうどうでもいいと思ったあの瞬間、そこが道路だとか雨が降っていることとか、それすらも気にならなかった。
ただ琴子を手放す気はないのだと気付いたとき、俺の理性はどこかに置いてきたようだった。
後でどうにかしないと困ったことになるとわかってはいたが、今はそんなことどうでもいいと思ったのは、俺にしても驚くべきことだったと思う。
琴子があまりにも崩れそうな顔をしていたので、どうしてわからないんだと思ってイラついたことも本当だ。
俺が自分からキスをする意味をわかれって思うのは、まあ冷静に見れば傲慢だよな。
二度目だの三度目だのいつまでも数えられたら堪らないと思ったし、そんなふうに数えられるほどしかキスをしないなんて思えなかったし。
男だからなのか俺だからなのか、キスをするのは簡単なコミュニケーションとして今でも気に入っているし、琴子とキスをするのは気持ちがいい。
あの時でさえ雨の中でも気にならないほど、ずっとキスをしていようかと思ったくらいだ。
髪を乾かし終わって考えたのは、やけに琴子の目が欲しがっていたこと。
こいつは口で言わない代わりに目でものを言う。
「入江くん、大好き」
キスをした後に琴子が小さくつぶやいた。
キスをするときに何を考えているかと聞かれても、たいていはろくでもないことしか考えていないなんて、言えるわけがない。
軽いキスじゃ我慢できなくなって、もっとという目をする。
自分じゃ気が付いていないらしい。
とろりとした目を向けられれば、それを拒否するほど俺の理性は強固ではないらしい。
ずぶ濡れになってもやめられなかったキスは、今も魅了して止まない。
もっともっとという欲につられて、キスを繰り返す。
程よくぐったりしてきた体を抱えてベッドに下ろすと、パジャマを剥ぎ取る。
胸を揉みしだき、尖ってきた先を弄りながらいつものお決まりのコースに至る。
不意に琴子が言った。
「雨…よく降ってるね」
「ああ」
「雨の日は、入江くんにキスをしてもらいたくなっちゃう」
「キス、だけか?」
少しずつ手が下がれば下がるほど息が乱れる。
「だって、あの時は…」
キス以上のことはできなかったからな。
あの日、琴子を抱いてもよかった。
さすがに聞き耳立てられてまでするのは趣味じゃないし、ましてや初めてだらけの琴子にとってはなおさらだ。既にいっぱいいっぱいの状態だったしな。
抱きしめて、雨の音に聞き入る。
お互いの体温だけが温かくて、他には何も聞こえなかった。
もう一度あの時が巡っても、きっと同じだろう。
ずぶ濡れになるまで離せなかったその体を慈しみながら。
(2015/10/30)