入江家、地獄を見る
それは、数々訪れた入江家の地獄のような日々。今思えば地獄と言えるほどのものだったかと言われればぬるいのかもしれないが、少なくとも二度とあの日々には返りたくないと思わせるのは確かだった。
一度目はまだ琴子が同居し始めた頃。
新しく家が建ったからと琴子たちが家から出て行った日。
それからしばらく家中が暗くて静かだった。
いや、それまでと同じ生活に戻るはずだった。
それほど兄も騒ぐ人ではなく、元々当時幼かった僕と母だけがはしゃぐだけで、別ににぎやかしい家ではなかった。
それなのに。
母が沈み、家事もままならなくなってまさにうつ状態の日々。
家族で細々と家事を回し、もし母が病気なんかして動けなかったらこんな感じになるんじゃないかと怯えた日々だった。
小学生だった僕にとって、それはちょっとしたトラウマになった。
まあそれも琴子が戻ってきたらあっという間に解消されたのだけど。
このままずっと琴子が同居していく羽目になるのかなと思った。
それが裏切られたのは割とすぐだった。
二度目は兄が見合いをした後。
それまでも父が倒れてピンチに陥ってはいたのだけど、それほど絶望感はなかった。
入院はしたけど父は落ち着いたし、兄が会社を手伝うことになったし。
そんなやっと落ち着いた頃に会社のためにと見合いをして、婚約まですることになった日。
兄は琴子が好きだったんだ。ずっと前から。
それに気づいたのは僕だけで、あの清里でのキスを見なかったら、僕だって信じなかっただろう。
そんなことを知らなかった琴子は黙り込み、母はあからさまに気に入らないと言った。
これから嫁に来る予定だった人はあまりにも完璧で、琴子なんて太刀打ちできないくらいの人だったのに。
美人で才女で優しくて、母の姑いじめみたいな態度にも笑ってスルーしてくれた人。
でも、琴子じゃない。
結婚したら多分家には同居しないだろう。
またあの暗くて沈んだ日々に戻るのだと思っただけで、僕の心は重かった。
琴子がいなくなって、新しい完璧な姉ができるのは悪くないはずだったのに。
多分本当に結婚していたら、それはそれで慣れてしまうんだろうと思ったのに。
心のどこかで琴子だったら、と思いながら。
それは琴子だったらこんなことはしないだろうといういい方も悪い方も含めて。
琴子なんてがさつでドジでバカで別にかわいくもなくて、兄にふさわしいとも思えなかったのに、兄の隣が琴子じゃないというだけでいつの間にか違和感があった。
それはそうだろう。
能面のような顔で笑いかける兄。
怒りも呆れもしない表情の消えた兄なんて、偽物だと思えたのだから。
そんな兄でもあの人はいいと思ったのか、それでも自分に笑いかける兄がいいと思ったのか。
そのうち本物の兄が戻ってくる方に賭けたのかもしれない。
もう今となってはわからないけど。
いろいろあってなんだかんだと琴子は隣にいる。
あんなどうしようもない、行き場のない思いをするのはごめんだった。
三度目は、琴子が進路のことで家出をした日。
琴子の行く先を確かめて戻った。
仏頂面の兄とおろおろする母。
すぐに戻るだろうと思っていたのに、いつの間にかあの貧乏そうな友人の家も出て、やばい奴らに餌食にされそうになったり、僕も本当に大変だった。
兄だって内心は焦っていただろう。
思ったよりも琴子が戻らなくて、友人の家も出てしまって行方がつかめなくなったから。
母は探偵を使って捜そうとまでしていた。お金が自由に使える人って強い。
琴子の気持ちにけりがつくまでが遅かった。
どうせあいつの将来なんて兄を中心にくるくる回っているだけのものなんだから、もっと早く気がつけばいいのに。
本当にバカで困る。
四度目は、二人が喧嘩した日。
詳しいことは知らない。でも多分兄の嫉妬のせい。
これも思ったより長引いた。
原因がはっきりしなくて、兄自身の気持ちの整理がつくまでどんどん泥沼にはまって、まさか離婚騒動になるんじゃないかとまで思った。
普通嫉妬でここまでこじれるかと思うだろう。
でも普通じゃない兄夫婦は、それもありなんだろう。
もしかしなくても兄にとって琴子が初めて好きになった相手だったのかも。
もてるのに。もてるからこそそんな感情に振り回されたことがなかったのかも。
何せ琴子の好き好きの感情のほうが凄かったし。
母の調べによると、相手は別荘にも来た熱血な長髪イケメンだったらしい。
兄とは違うタイプだと母は言っていたけど、あの兄だって結構負けず嫌いだし、表に出ないだけでいろいろ努力してる。
琴子だって兄以外の人に目が向いたわけではなく、単にもてないから迫られた数が少なすぎてついいい気分になっちゃっただけなんだと思う。
もてないやつってあしらいも下手くそそうだもんな。
そんなわけで結構長い間兄の不機嫌は続き、意気消沈した琴子はあの見合い騒動にも匹敵するくらい落ち込み、えらく迷惑した。
父はまた空気になり、次第に帰りは遅くなり、母はやきもきしてヒステリーを起こし、兄はうんともすんとも言わずにただ淡々と過ごして、琴子は一所懸命兄に話しかけたりしていたけど、ある日爆発した。
かと思ったら、次の日には二人して手を繋いで帰ってきた。
ほっとしたと同時に何なんだよ、このバカップルとか思ったのは兄には秘密だ。
もうないだろうと思った五度目は、兄が家を出るとなった日。
まさか琴子を置いて一人で別の場所に就職するなんて誰が思っただろう。
琴子の気持ちの整理がつくまで食事も同席せず、だんだんやつれていって、目の下のクマもすごいことになっていた。
母は密かに兄の行く先の看護科のある大学や看護学校まで調べ始めたり、何とかしてこちらに残らないかと策を練ったりしていた。
何かあると兄は黙り、琴子もおらず、母は怖い顔で兄をにらみ、父はとばっちりがこないようにか心配顔でもそもそと食べる食卓はなんだかもう定番となりつつあった。
結果的に兄は一人で単身赴任状態となり、琴子は残った。
兄はいないのに琴子がいるだけであの気まずい食卓は訪れないのだから不思議だ。
時々琴子は兄不足で不穏になったけど、なんだかんだと食卓は賑やかで、むしろ喚き散らす琴子でうるさいくらいだった。
僕はと言うと、自分の事でも精一杯になってきたので心配するのをやめた。
あんなバカップル…もう付き合ってられないね。
(2023/10/18)