記憶の彼方
正直、記憶の彼方に埋もれて二度と思い出さないだろうと思っていた。* * *
「もう、だいきらい!」
娘がそう言って珍しく癇癪を起したのを妻の琴子が困った顔をしてしかりつけた。
小さい子どもならよくあることだ。
勢いに任せて口から出てしまったのだろう。
「大嫌いじゃないのに、大嫌いだなんて言っちゃダメ。
後で絶対に言わなければよかったって思うんだから」
一度言った言葉は取り消せない。
それで失敗したこともある。
気持ちがすれ違ったこともある。
そんなことを思いながら琴子の言葉を聞いていた。
娘は泣きながら聞いてはいるものの、すぐには素直になれないようだ。
「だって」
その泣き顔を見ているうちに、ちょっとだけ眩暈がしてきた。
ここ数日忙しかったそのツケだろうか。
リビングのソファに力なく座り込んだまでは覚えている。
「入江くん!」
「…大丈夫だ。ちょっと、眩暈が…」
「いやー!しっかりして」
大声出すなよ、現役看護師が。
「…少し、休ませてくれ」
うわあと泣き声がする。
泣きたいくらいの言葉を言われたのは俺の方なんだが、娘が大声を上げて泣いている。
あの言葉で、まさかのダメージなのか。
そうじゃない、と否定したところで後で絶対にからかわれること間違いなしだな。
「…寝る」
その言葉をかろうじて告げて、多分意識がぷっつりと切れた。
* * *
「ほら、初めまして、だろう」
そう促されたにもかかわらず、双方お互いに相手の様子をうかがっていた。
あちらもこちらもおそらく三歳…いや、四歳になろうかという頃合いだ。
覚えているのは、自分と同じような髪形をした顔のこわばった幼女。
こちらはちょっとだけツンと鼻にかけた生意気そうな幼女もどき。
声変わりなどまだするはずもない年端のいかない子どもに女の子の服を着せて自慢げにしていたおふくろの罪は深い。
まだ自我も親の言いなりな頃だ。
自分は女だと思っていた。
いや、女だとか男だとかいう意識は、今ほど明らかではなく、母親の着せる服に母親のセットした髪型。父親は仕事で忙しく、母親とだけ過ごす日常で母親の真似をして生活をする毎日。
あの悪夢の性別ばれの日を迎えるその日まで、おふくろの望むように生きていた。
おふくろが習いたがっていたピアノを習い、おふくろの好みの絵本には王子さまだのお姫さまだのといった言葉やかわいらしい絵が描かれ、おふくろが欲しかったかわいらしいものに囲まれていた日々。
「ごあいさつは?」
もう一度促されて、仕方なく「こんにちは」と言った途端、こちらをうかがっていた幼女は目をキラキラさせて「こ、こ、こ、こんにちは」と嬉しそうに笑った。
それだけでもう目の前の幼女に興味を失ったので、さっさと自分の部屋へ戻ろうとした。
何せ親たちも久々に会った友と話をするためにリビングに入っていったからだ。
「あ、あの、あそびましょ」
「…やだ」
遊ぶ気分ではなかったので素直にそう言った。
一瞬にしてそのキラキラした目を潤ませ、こちらをにらんだ。
泣かせるつもりではなかったので少しだけひるんだら、幼女は力一杯言い放った。
「もう、だいきらい!」
「…え」
うわああんと泣き始め、一度はリビングに入っていった大人たちが驚いたように出てきた。
どう見ても悪者は自分。
子ども同士だとよくあること、で済まされるくらいのものだが、さすがに大泣きした幼女を前に困惑しながら立ち尽くすばかりだ。
大嫌いと言われたのがショックだったのか、それとも自分に向けられた言葉だというのを信じられなかったのか。
それこそ蝶よ花よと育てられ、まさか自分に向かってそんな言葉を投げつける者などいなかったからだ。
おそらく生まれて初めて言われた言葉だ。
幼女はなかなか泣き止まず、そのまま泣き疲れて眠ってしまい、帰る頃になっても起きなかった。
すれ違ったまま、それ以上言葉を交わすこともなく別れた。
その後、会う機会は訪れず、そのままその記憶も薄れていったのだった。
* * *
目が覚めると、そばには娘が座り込んでいた。
「パパ…ごめんなさい」
目が覚めてすぐに娘にそう謝られた。
「大丈夫だ」
「よ、よかったぁ」
「うん、よかった。ママったら、きゅうきゅうしゃよぶっておおさわぎだったもん」
「だってえ、入江くんいきなり倒れるんだもん。そのまま本当に起きなかったし」
「悪かった。眠かっただけだから」
「最近呼び出しも多かったし、手術も多かったもんね」
飛びついてきた琴子が心底安心したように笑った。
「もしかして琴美の言葉にショック受けて倒れたんじゃないかってちょっと思ったのよね」
「そんなことで倒れるかよ」
「でも大事な娘からそんなこと言われたらショックでしょ」
「まあな」
確かにショックだったが、今回が初めてなわけじゃないし、あれからそこそこ陰口でそういうことも言われていたからな。
「人生初はすでに言われたことあるしな」
「えー、そうなんだ。そんなひどいこと言う人いるんだね」
お前だ、お前。
忘れていたと思った記憶がよみがえった。
全くうれしくもないし、できるならそのまま忘れていたかった。
「ママもねー、小さいときに大嫌いって言っちゃってから、会えなくなったお友だちがいたの」
それは俺だ。…会ってるけどな。
「どうなったのかなぁ」
ここでおまえの目の前にいるが。
「だから、言っちゃった言葉は取り消せないから気を付けないと」
「あのね。だいきらいはうそなの。パパ、だいすき」
「ああ、わかってるよ」
「あたしも、あたしも−!あたしも大好き−!」
「…知ってる」
ため息を一つついて言ってみた。
「その大嫌いと言った相手、覚えてるか?」
「えーと、どっかのかわいい女の子。でも何か意地悪なこと言われた気がするから、売り言葉に買い言葉だったような」
かわいい女の子、でぐっと力が入ったのを押し込めて少し反省する。
確かに生意気なガキの頃だから、言い方は悪かったと思う。
「あれ、もしかして、かわいいおん…」
琴子は俺の顔をゆっくりと見た。
かろうじて女の子と言うのをとどまった。
いつも鈍いくせに変なところで勘はいい。
「あ、あは、あはは」
「それ以上言うなよ」
「その節は…」
「…わかってる。お互い様だ」
「でも、どうしても仲良くなりたかったの。だってかわいいお…ぶっ」
すかさず手で琴子の口をふさいだ。
言うなと言った傍から何言ってんだ、こいつ。
「ママ?」
「うん?あのね。どこでどんな出会いがあるかわからないから、やっぱり後悔しないようにしなくちゃ」
「ふーん…?」
いまいち意味がまだわからない娘を抱きあげて寝室へ連れていく。
「後は、ママと話し合うから、琴美はおやすみだ」
「はあい。ちゃんとかんがえてね、ママのおたんじょうび」
「わかってる」
「ママ、おやすみ〜」
「おやすみ〜」
「寝かしつけてくるから、待ってろ」
「…え、えっと、お疲れのようなので無理をしないほうが…」
耳元で囁けば、焦ったようにソファの上で正座した。
「もうすぐ日付も変わるしな」
そもそもこの忙しさはお前の誕生日のためだったんだけど?
「…お、お待ちしてます…」
顔を赤くしてうつむいてそう言った。
あの時の返事を今言うならば「とことんまで遊んでやるよ」といったところか。
「も、もう、入江くんなんて…!」
嘘でも、大嫌い、とは言えない。
(2023/09/28)