イ 稲光
それは雨の降る前。
まだ遠く光るその雲は、すぐに黒さを伴ってやってくる。
雨の匂い。
まだ降っていないのに、人々は足早に歩き始める。
誰もが濡れてしまうことを危惧する。
稲光とともに音が響く。
まだ、降っていない。
家に帰りつくまで、まだ雨は降らずにもつだろう。
それはわかっていても、頭上でピカピカと光ると、つい足早に歩きたくなる。
同級生は既に家に向かって走っていった。
裕樹はわざと走らずに家までの道を歩き続ける。
家に帰るのが嫌なわけじゃない。
なのに、家に帰るとあの重苦しい空気を感じてしまう。
もうすぐ、降りだすかのような重い空気。
もっと早く稲光のように光って警告してほしかった。
あのまま能天気に過ごしていけるなら、それも悪くはないと思い始めていたのに。
玄関の前に来て、年齢に似合わないため息を一つついてから、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
普通に聞こえるように声を出し、すぐに部屋に行く。
「裕樹?おかえりなさい」
母である紀子の声が階下から響いた。
紀子もここのところため息が多かった。
少しだけ悲しそうな顔をするのをあまり見たくなかった。
廊下の奥の部屋は、そのうち空いてしまうかもしれない。
…どうして大人は、好きなだけじゃダメなんだろう。
裕樹は自分の部屋に入ってランドセルを放り投げた。
裕樹は宿題を広げたものの、そのまま椅子に体を預けたままぼんやりと窓の外を見た。
ますます空は暗くなっていく。
警告は、なかっただろうか。
父である重樹が倒れたのは確かに突然だった。
しかし、重樹は依然として兄である直樹に後を継ぐことを望んではいなかったか。
医者になりたいのだと知ったのはついこの間のことだった。
それを知っていたらしい琴子。
だったら、なぜ、もっと早く重樹にはっきりと諦めさせておかなかったのか。
倒れた重樹の代わりができるのは、直樹しかありえなかった。
もっと他に誰か、代わりになる人もいないわけじゃないだろうに、重樹が許さなかったのだろう。
それは他の誰かを信用しているとかしていないとか、そういう単純なものじゃないのだろう。
小学生の裕樹には、まだ何もできなかった。
会社の経営は一つとしてわからなかった。
もしこれが直樹ならば、小学生でも重樹の力になれたのじゃないかと思うと、あまりにも自分が幼すぎてもどかしかった。
直樹が後を継ぎ、自分はそれを助ければいいと思っていた。
どんなにがんばっても十年はかかるだろうから。
裕樹は知らなかった。
直樹が何をしたかったのか。
直樹なら何でもできると思ってはいたが、それをはっきりと証明されるとは。
直樹が会社を継がないのなら、自分は何をすればいいのか。
ずっと考えていた。
それなのに、直樹は大学を休んで会社に向かう。
会社のために見合いまでして。
稲光が光るたびに目をつぶる。
このまま自分の将来にも直樹の行く末にも琴子との行く先にも何もかも目をつぶってしまえたらよかったのに。
まだよくわからない。
好きなのに好きと言わない直樹。
好きじゃないのに結婚しようとする。
好きなのに、今まで散々好きと言っていたのに、好きと言わなくなった琴子。
言わなければわからないのに。
直樹がいつの間にか琴子を好きになっていたのなら、あの見合い相手の人もいつの間にか好きになっていけるのだろうか。
それなら、琴子を好きだった気持ちは、どこへ行くのだろう。
琴子が直樹を好きだった気持ちは、どこに行くのだろう。
考えても仕方がないことだと思いながら、裕樹はため息をついた。
(2012/06/10)