イタkiss梅雨祭り2012



な 名残りの雨



三日ばかり降り続いた雨は、ようやく止む気配を見せていた。
それまでも降ったり止んだりしていたが、からりと晴れた感じはなく、常に空はどんよりと曇ったままだった。
琴子は閉じた傘を手に持って、大学への道を歩いていた。
舗装されて割ときれいな道であるにもかかわらず道路には水たまりができ、それまでの雨の長さを感じさせていた。
水たまりを一つ避け、もう一つの水たまりを避けるところで目測を誤った。
片足が水たまりにはまり、ぴちゃりと音を立てて水が跳ねた。

「あ、あ〜〜〜〜あ」

雨は止んだからと、最近雨続きで着られなかった服を着てみたばかりだった。
琴子は水が服に跳ねたかどうか手繰り寄せて見ていた。
水は跳ねたようだが、泥跳ねまではなかったようだ。
安堵の息を吐いて再び歩き出した。
水溜りはところどころあったが、今度は飛び越すことは止めて、避けて歩くことにした。
水溜りには空が映る。
まだどんよりとしたままだが、それでも今は雨が上がっている。
あまり前を向くことなくひたすら歩くことで、何も考えないようにしていた。

昨夜、些細なことで二人はケンカをした。
ケンカしたと言うよりも一方的に甘えてすねて、結局は直樹の取り付くしまのない態度にしびれを切らして、琴子一人でかんしゃくを起こした。
泣きつけば、直樹の母である紀子は常に琴子の味方だったが、それをしてしまうと仲直りのきっかけを失ったままになるのが怖くて、昨夜はそのまま寝てしまった。
ケンカをしても同じベッドで寝るくらいの気持ちはあったらしく、琴子とは背中合わせに寝たまま、気がつけば朝で、隣にいたはずの直樹はもう家にはいなかった。
直樹は顔が合わせづらいなどというたまではない。
むしろ合わせづらいのは琴子のほうで、今日はどんな顔をしておはようを言えばいいのかとベッドの中で思案していたのだ。
実際にはもう家の中にはいないことを知って、ほっとした反面、どうしたらいいのか宙ぶらりんな気持ちを引きずったまま家を出てきた。
大好きなのに、どうしてケンカしてしまうのだろうと、何度問いかけたか。
大好きだからわがままも言ってみたかったというのはいいわけだろうか。
それをすんなりと受け入れてくれる人でないのは知っているのに、ついやってしまう。
どこまで甘えても大丈夫なのか、探っているかのように。
それを見透かされたようにぴしゃりとはねつけられると、とたんに不安になって意地になってしまう。
どこまでなら許される?
大好きだから、大嫌いとは本人に言えない。
本当になってしまったら、怖いから。
絶対に嫌いになることなどないとわかっていても、人の気持ちは明日も同じだとは限らない。
いつかそう言われた言葉を今も忘れられないでいる。

そんなふうにせっせと歩いているうちに琴子は大学に着いた。
無意識に直樹がいるであろう校舎を眺めてしまう。
仲直りするためには、琴子のほうから謝らなければならないだろう。
構内を歩きながら、少しだけため息をつく。
謝るのが嫌なわけじゃなく、自分がどんなにバカなことをしたのかと思い知らされるのが憂鬱だった。
いつも冷静に判断して、度が過ぎると叱ってくれる人。
もちろん直樹がいつも冷静ではないことを知っていたが、少なくとも琴子よりはモノを考える余地がある。

「あら、元気ないのねぇ。後ろ、跳ねてるわよ。相変わらずドジね」

そう言って声をかけてきた桔梗幹を振り返った。
あえて何も言わずに教室まで行ったが、周りからの執拗なからかいについ昨夜のケンカの原因を話してしまった。

「入江さんが戴帽式だからって浮かれるとは到底思えないわね。
そりゃ来てもらえればいいんでしょうけど、だからと言って教授のお供を断らせるのも、出世を阻む妻みたいで嫌だわ〜」

そんなこと言われなくてもわかっているとばかりに黙っていた。
それでももしもという期待をしてはいけないだろうか。
まだ直樹をわかっていないと言われるかもしれないが、ささやかな夢を見ることを許されはしないだろうか。
そんなふうに思っていたので、帰り道で当たり前のように「よお」と声をかけてきた直樹に琴子は一瞬躊躇した。
謝らなければいけない、とはわかっていたのに。
直樹はそれを知ってか知らずか、ただ声をかけてきただけで黙々と駅までの道を歩いた。
水たまりはすっかりなくなっていたのに、空模様は再び曇りだしていた。

「…また少し降りそうだな」

駅に入る直前でそう言って空を見上げた。

「あの、ね、入江くん」

電車の音に紛れるようにして声をかける。
直樹が琴子を見た視線に耐え切れず、「やっぱ後でいい」と再び黙り込んだ。
今度は駅から家に向かう道で、琴子はぐずぐずと話を切り出せないでいた。
いつものように「戴帽式で暗唱することになったんだよ」と言えば、何らかの言葉が返ってくるだろう。
いや、その前に言うべき言葉を言ってしまうべきだとわかってはいたが、なかなか言えなかった。
ポツリと顔に当たった雨に顔をしかめる。
まるで早く言えとでもいうように、雨は思い出したように落ちてくる。

「…入江くん、昨夜は…ごめんね。
でも、戴帽式に来てもらって花束をもらうのって、夢だったの」
「…昨日今日聞いただけで夢見るとは、さすがだな」
「だって、そういうものだって聞いたから」
「誰が考えたか知らないが、戴帽式の意味からすると、浅はかだな。
戴帽式でなんか役があるんだろ。そっちの心配したほうがいいんじゃないか」
「う…知ってるの?」

やっと口にした言葉は、あまりにも当然のように受け取られ、琴子は少々がっかりもしたのだが、その口調とは裏腹に差し出された手を目を丸くして見つめた。

「明日からは晴れるだろ」
差し出された手を琴子がつかむと、直樹が言った。
「そうかな」
「名残りの雨だな…」
そう言った直樹の口調にどこかため息をつきたくなるような気配を感じて、琴子は直樹の顔を見た。
もしも出張がなかったなら、どうなっていただろうと琴子はその横顔に問いかけた。
差し出された手のように、出した言葉とは違う気持ちがあるのなら。

ポツリと今度はつないだ手に雨が当たった。

(2012/07/04)