ラ 落雷
激しい雨が降り出していた。
「ひゃ〜〜、ぬれちゃったよ〜」
そう言って玄関に駆け込んできたのは琴子だった。
梅雨時、どんなに言っても傘を持たないで出かけていく。
傘を学校に忘れてくることすらある。
この間などは折り畳み傘を持っているにもかかわらず、それを忘れてぬれて帰ってきたこともあった。
「…バカだ」
裕樹はリビングで琴子の声を聞きながらテレビを見ていた。
母・紀子は買い物に出かけたまままだ帰ってこない。
この分では兄・直樹もまだだろう。
リビングに入ってくる前に裕樹は立ち上がって琴子に向かってタオルを投げた。
「あ、ありがとう、裕樹くん」
そう言ってぬれた身体と髪を拭いていく。
「琴子、先に足元拭けよ。そのままリビングに行ったら床がぬれるだろ」
腕を組んで偉そうに注意したものの、琴子は「うん、わかってる」と返事したままタオルを頭からかぶってなおも拭き続けている。
もう付き合いきれないとばかりに裕樹はリビングに戻ろうとしたときだった。
急にドーン!と激しい音がした。
「ああ、雷が鳴ってるのか」
そうつぶやいたが、なおも外からゴロゴロと音が響く。
「結構近いんだな。テレビくらいは消しておくか」
そう言ってリビングへ戻ろうとしたとき、がしっとつかんだ手があった。
「ま、待って…」
「なんだよ、ぬれた手で触るなよ」
「ね、ねえ、今落ちたわよね」
「さぁ。そうじゃないの?」
琴子が裕樹の腕をつかんで離さない。
「…いい加減に離せよ」
「だ、だって」
更に大きく光ったかと思った瞬間、今度は地響きのする音とともに頭上の電灯がバチッと切れた。
「ヒ、ヒーーーッ」
盛大な悲鳴とともに琴子が裕樹の腕を両手でつかんだ。
そのつかみ具合に裕樹のほうが驚いて「うわぁ」と声を上げた。
「行かないで〜〜〜〜。あたしも連れてって〜〜〜」
悲壮な声で琴子が懇願する。
琴子は鳥目だったが、いくらなんでも外はまだそれほど暗くない。
確かに雨雲が空を覆っているせいか普段よりはずっと暗いが、夜の真っ暗ほどではない。
「は、離せったら」
「暗い〜、雷の音が大きすぎて怖いよ〜」
「わ、わかったから!」
裕樹は腕をつかまれたまま、仕方なくリビングに琴子を連れて行くことになった。
琴子の長い髪からまだぽたぽたと雫が落ち、まるでホラー映画のようだ。
「そこに座ってろよ」
「う、うん」
リビングは他に誰もいない。
しんとした部屋の中で雷の音だけが響き、外はまだ稲光が光っている。
停電はすぐに終わるかと思えば、意外に長く続いている。
ソファに座らせた琴子は縮こまっている。
「普段威勢がいいくせに、たかが停電と雷で情けないな」
そう言ってはみたものの、時計の音だけが響く部屋の中で、裕樹も少しばかり停電が復旧しないことに怯えていた。
それでも琴子をからかうのをやめられず、つい調子に乗った。
「こんなふうに停電すると、なぜかそういうときに血の気の多い犯罪者とかが侵入してくるんだよな。ほら、停電でセキュリティも効かなかったりするしさ」
冗談めかして言ったが、タオルをかぶってソファに座っている琴子が明らかにびくっと震えた。
「もしかしたらうちも狙われてたりして」
ぶるぶると震えた琴子を見たら、からかいすぎたかと首をすくめた。
冷えた体を温めさせようと、先ほど沸かしておいたコーヒーでも飲ませるかと立ち上がった。
「ど、どこ行くのっ」
再びがしっとつかまれた。
少々うんざりしながらその腕をはがそうとした。
「ちょっとコーヒー入れに行くだけだよ。
雷もおさまってきたからいいだろ、離せよ」
「その声〜。その声で何かしゃべって。入江くんみたいで落ち着く…」
「や、やめろっ。離せっ」
そのとき、玄関でガタリと音がした。
「な、何かいるっ」
琴子が悲鳴のような声を上げる。
おまけにますます裕樹にしがみつくようにして怯えている。
何か音がした、と思って裕樹が振り返ったとき、ぶうんという音とともに電化製品が一斉に息を吹き返した。
電源を入れたままだった電灯がぱっとついた。
「う、うわっ」
「なに?なんなのっ」
「…おい」
「いやーーーーー!」
「ぐえっ」
渾身の力で琴子が裕樹にしがみついてた。
締め付けられて息が詰まるほどに。
そして、電灯がついたそこにいたのは、ずぶぬれになった兄・直樹の姿だった。
裕樹ははっとして、しがみついてきた琴子の腕を必死に引きはがした。
しかし、どうやら遅かったようだ。
「…琴子」
落ち着いた声音で呼びかけた声をようやく聞き取った琴子が、顔を上げて直樹見た。
当然しがみついていた裕樹をすぐに押し退け、そのまま直樹に突進した。
「怖かったよー」
「…たかが停電だろ」
「うん、そうなんだけど」
しゃっくりを上げながら泣くその姿は、とても成人した女性のものとは思えなかったが、直樹は仕方がなさそうに背中をぽんぽんと優しくたたいてやっている。
裕樹はようやくほーっと息を吐いて直樹を見ると、目が合った。
その瞬間、裕樹は後ずさりしながらそばにあった財布をつかむ。
「ぼ、僕、ちょっと出かけてくるから」
小さな声でそう言って、慌ててリビングから出た。
一応傘をつかむことも忘れず、携帯電話もポケットに入っていることを確認する。
しばらくこの家から避難するのが望ましいだろう。
家から出たら、早速母・紀子に電話をしよう、と決心した。
決してしばらく家には近寄らないようにと。
上手くいけば夕食は外食になるかもしれない。
そんなことを頭の中でめまぐるしく考えながら、家を飛び出ることにした。
玄関を出て門へと向かう途中で、ガチャリと玄関の鍵がかけられるのを背中で聞きながら、とばっちりが来る前に脱出できて本当によかったと心から思ったのだった。
(2012/06/27)