ッ 伝う雫
ぽたりと落ちる雫にゾクリと体が震える。
体が冷えてきたのか、それとも彼女から流れ落ちた雫に心を奪われたのか。
その日、直樹は琴子からの要請で大学の門前で待っていた。
別に待ち合わせ場所はここじゃなくてもよかったのだが、琴子の希望だったのだ。
なんでも校門近くで見せたいものがあるのだとか。
そんなものは、校門で待ち合わせなくても、構内で待ち合わせた後にでも行けばいいことだと思ったのだが、あえて反対する気もなかったので琴子の好きにさせたのだ。
待ち合わせと言いつつ、肝心の琴子がなかなか来なかった。
しかも空模様が怪しくなってきて、雨でも降るかもしれないと思い始めていたときだった。
「入江くん!」
顔を紅潮させながら走ってきた琴子は、三つ編みした髪を揺らしていた。
それがまるでデンデン太鼓か何かのようで、思わず直樹は吹き出した。
「何で笑ってるの」
「いや」
不思議そうにこちらを見た琴子は「ごめんね、待たせて。先生があたしだけ呼び出すんだもん」と口を尖らせた。
「どうせレポートのやり直しだろ」
「う…どうしてわかるの」
「あんなレポート出せば俺だって可はやれないね」
「見たのね、ひっどーい。そう思ったならどうして教えてくれないの」
「何で俺が?」
「もう、そういうとこホント冷たいんだから」
そう言いながらもずうずうしく直樹の腕を取って歩き出す。
「後で直すからいいもん。入江くんも責任とって手伝ってよね」
「何の責任だよ。ったく」
「それよりね、見せたかったのはあそこ!」
そう言って琴子が引っ張っていったのは、斗南中学の生徒が書いたらしい工事の壁に描かれた絵だった。
今年斗南中学に弓道場か何かを新設するので工事が始まるとお知らせにあったのを思い出した。
だからと言って看板をわざわざ見せることはないだろうと思ったのだが、その絵を見てようやく気がついた。
「…裕樹か」
「そう!これ見たとき、すぐにわかったの。
このデザイン、裕樹くんが一所懸命デザインしてたやつだよね。
採用されたんだって思ったら、うれしくて」
「よく気がついたな」
「うん。たまたまあたしここ通りがかって見つけたの。
多分完成したばかりだから、今日お義母さんに言うのかもしれないけど、うれしかったから入江くんにも教えちゃおうと思って」
そう言って琴子はうれしそうに笑った。
確かに裕樹が琴子に勝手に見るなと言いながら描いていたものだった。
工事中の壁が味気ないので、絵を募集していたのだという。
夢にあふれ、それはまさにパンダイを将来背負うにふさわしい絵だった。
「いいよね、これ」
自分のことのように絵を見て目を細める琴子を直樹は見た。
血は繋がっていないのに、弟を手放しで褒める姉のようだった。
いつもは憎まれ口ばかりで一方的に裕樹からバカにされたりもしているのに、それでもやはり家族だと思っているからだろうか。
「ほら、これ、さりげなくパンダイのおもちゃに似てるよね。
多分問題あるといけないから少し変えてるけど」
「…ああ、そうだな」
「これなんて、裕樹くんのおもちゃのデザインノートに描いてあったやつみたい」
「デザインノート?」
「知らない?裕樹くんね、将来入江くんのお手伝いができるようにって、ノートにおもちゃのデザイン描いてたりしてたんだよ」
「へえ」
そう答えながら、直樹はそのノートの存在を琴子だけが知っていることに軽い嫉妬を覚えた。
同じ家族でも、兄には内緒だったというのが少しだけ引っかかったのかもしれない。
「入江くんのこと、大好きだもんね、裕樹くん」
「それでもおまえには見せたんだ、ノート」
「あ…それは、もう随分前で…」
慌てて言い訳している琴子の様子がおかしかったが、直樹はあえて不機嫌なまま歩き出した。
「ねえ、入江くんってば」
「雨が降りそうだから帰るぞ」
「裕樹くんだってきっと入江くんに見せるのは恥ずかしかったんだよ」
本当はもう怒ってなどいなかったが、そうやって懸命にすがりついてくる琴子を見て直樹は満足していた。
正直にそう言うと、今度は琴子が怒り出すことはわかっていたので、言わずに適当なところで折れてやった振りをする。
そうやって二人で急ぎ足で歩いていたのに、とうとう雨が降り出した。
大粒でもない雨は、ただひっそりと二人をぬらしていく。
少しずつ降りだす雨は、つい急ぐことを忘れてしまう。
琴子が遅れないように直樹について来ることを確認しながら歩いていく。
「そんなに降ってないと思ったけど、すっかりぬれちゃったね」
駅に着いたとき、琴子がそう言って頭を振った。
髪から一滴、二滴と雨が流れ落ちる。
先ほど、デンデン太鼓だと笑った髪から雫が伝い落ちる。
それが肩から背中に流れ、服に染みとおっていくのをつい見ていた。
あの日、琴子の髪から、頬から、睫毛から、丸い雫ができては落ちていくさまを見ていたように。
「入江くん?」
直樹はゆっくりと視線を戻した。
「寒い?」
「…別に」
「あ、ほら、電車も来るから、早く帰ろう」
「…ああ」
少しだけ上の空で答えながら、直樹は人知れず笑った。
伝う雫一つであの日を思い出したとか、人の行き交う駅の入口でまさか琴子に欲情したのだとはさすがに言わなかった。
そんな直樹に不安を感じたのか、琴子は小さな声で言った。
「裕樹くんのノート、家に帰って見せてもらおうか?」
琴子は直樹がまだそれにこだわっていると思っている。
琴子はただ機嫌をとりたいだけかもしれないが、きっと傍から見ればなんて心の狭い男だろうというわけだ。
「別に怒ってないよ」
「本当に?正直に言って」
「正直に?」
「うん」
「……いや、本当にそれはもうどうでもいい」
「本当?よかった」
その言葉だけで安心する琴子に直樹は電車の窓から外を眺めながら思う。
もしも本当に正直に心の中を明かせば、多分琴子は困るだろう。
揺らした三つ編みを手にとって、ひとつひとつ解きながらキスがしたかったとか。
それでもその濡れ髪を他人には見せたくなくて、家に帰ってから存分にしてみようだとか。
首筋に伝う雫を今ここで唇で受け止めてみようだとか。
もちろんどれも口にすることも今ここで実行することもなく電車に揺られている。
唯一つ答えるなら、今から家に帰ってレポートのやり直しをする時間があるかと問われれば、多分笑って「否」と答えるだろう。
もしくはベッドのシーツと仲良くなった後でなら、と。
もちろん琴子の体力が持てばの話だ。
そんな思いを知らないのか、琴子は念押しするように直樹に頼み込んだ。
「ねえ、入江くん、家に帰ったら、レポート、手伝って、お願い!」
ああ、バカな琴子。
だからこそ可愛いと直樹はただ笑うのだった。
(2012/07/17)