花束の向こうに



12345Hit御礼キリリク:こたろさま




バレンタインデーは、郵便でチョコを送った。
あまりいい出来とは言えなかったけど、いつものことだから、と入江くんは笑った。
それよりも国家試験の勉強をがんばれと励まされた。
絶対、絶対合格して神戸へ行く!と誓った。
電話越しに聞こえた声は切なくて、まだ寒い春に胸が痛かった。


 * * *


あれから国家試験は怒涛のように過ぎた。
眠れなくて、食べられなくて、目の下にクマができた。
もうやるだけやった。これ以上は何もできない。
でも、今度は発表まで気が気でない。
発表まであと少しだけど、その前に卒業式がある。
当日は袴をはいて出席するのだ。
入江くんに見てほしかったけど、「大事な手術があるから」と。
入江くんは医師だから、そのために神戸に行っているのだからと、いつも自分にもそう言い聞かせてきた。
時々、本当に崩れそうなとき、入江くんはそれを察したかのように会いにきてくれるのだ。
それだけで十分。
だって、もうすぐ、あたしは卒業して、看護婦になって、神戸へ行くのだから!


 * * *


「琴子ちゃ〜ん、袴が仕上がってきたわよ〜」

リビングからお義母さんの声。
この一年間、お義母さんにもいっぱい心配かけちゃったな。

「ほら、どう?」

ピンクの着物に紺の袴。

「いいわねぇ、私の卒業のときを思い出すわ〜」
「お義母さんも袴をはいたんですか?」
「そうよ。それがね、聞いてくれる?パパったら…」

そのとき、電話が鳴った。
お母さんが話を中断して受話器を取る。

「はい、入江です」
「・・・・・」
「はい、お待ちください」

お義母さんは電話を保留にすると、あたしを振り返り、少し困ったような顔で言う。

「琴子ちゃん、大学から。卒業論文の件で…」
「へ?」

あたしはなんだかわからないまま受話器を受け取る。
受話器から聞こえてくる先生からは恐ろしい通告。
見る見るうちにあたしの顔は青ざめていく。
お義母さんは心配そうにこちらを見ている。
まるで心配なさそうな笑顔を作り、あたしは何とか返事をする。
会話が終わり、受話器を下ろすと、あたしはせっかく届いた着物と袴を合わせることなく、自分の部屋へと急ぐ。

嘘でしょう、いまさら卒業論文を再提出だなんて!!
しかも、それをしないと卒業延期だなんて!!

卒業まであと10日!
あたし、本当に卒業できるの?!


 * * *


すぐに入江くんに電話したかった。
でも、電話してしまうと、またいつものように「ばーか」と言われそうな気がする。
おまけに凄く凄く呆れられそう。
こんなことなら裕樹くんに論文も手伝ってもらえばよかった。
それにしても、いまさら再提出だなんて先生もひどいわよね。
返された論文には、直すポイントが一応書かれている。でも、そんなのもう何十回も直したわよ!
あたしは論文を片手に廊下を行ったりきたりしていた。
頼むべきか、頼まざるべきか…。

「…人の部屋の前で何やってんだよ」

ヒーーッ。
ばさばさ。
あたしの手から論文が滑り落ちた。

「ゆ、裕樹くんか」

一瞬入江くんかと思った。
このごろ声まで似てきたのよね。
それも、普段は入江くんよりも高めなのに、何か文句を言うときだけは妙に似てるのよ。

「もう国家試験は終わったんだろ。僕の手伝うことなんて…」

がしっと裕樹くんの上着をつかんだ。

「そ、そんなこと言わずに手伝ってよ〜〜!あたしの卒業がかかってるのっ」
「はぁ?!」

裕樹くんはあたしの足元に落ちている論文を見て、思いっきり顔をしかめた。

「何で僕が…」
「だって、入江くんの弟じゃないっ」
「関係ないだろっ」
「だって、卒業できなかったら、看護婦になれなくて、入江くんに会えないじゃない〜!」

言いながら、本当にそうなったらどうしようと涙が出てきた。
裕樹くんはあたしの盛大な涙に引き気味になって、
「手伝えばいいんだろっ」
と半ばやけくそ気味に怒鳴ったのだった。


 * * *


それからというもの、来る日も来る日もあたしは論文三昧。

「よくもこんなひどい論文提出したよな」

論文に手を加えながら、ぶつぶつと文句を言う裕樹くん。
看護学の本を片手に、三年間看護学を勉強したあたしよりも的確なアドバイスをする。

「お兄ちゃんとは違うんだからな。これでだめでも僕は知らないぞ。
国家試験のときにも言ったと思うけど、高校生の僕に手伝わせるなよ、専門外だぞ」

そんな風に言われながら、提出期限前日はほとんど徹夜状態で仕上げた。


 * * *


卒業式は静かに始まった。
斗南大に進学した頃のことを考えていた。

大学のF組って言われたこと。
入江くんに会いに理工学部に行ったこと。
医学部に移った入江くんにどうしても近づきたかったこと。
お義父さんが倒れて、入江くんが婚約して、それから嘘みたいにプロポーズされて…。
落第して、看護科に移って。
そう、そう、入江くんがやきもちを妬いてくれて、すごく驚いた。
ああ、あたしもやっと卒業するんだ。
…長かったな。
…冗談じゃなく、ちょっと長かったわよね。
結局、7年?
本当に長かったわね。
ま、そんなことはどうでもいいか。
目をつぶると、そんな思い出が走馬灯のように…。
走馬灯の…。

……。

おっと、なんだか眠気が…。
感動の嵐のはずなのに、どうして眠気が勝っちゃうのかしら。

「入江琴子」

昨日徹夜したのがいけないのよね。

「入江琴子」

だって、先生ってば、ぎりぎりまで渋るものだから…。

「琴子、呼ばれてる!」

え?

「あ、は、はい」

同級生のくすくす笑い。
よかった、こんな恥ずかしいところを入江くんに見られなくて。
そっと振り向いたら、当然のようにお義母さんがビデオをまわしていた!
…しまった。

「卒業生、起立」

慌てて前を向いて立ち上がったら、頭を振ったせいかくらっとした。
そして、たちまち目の前は真っ白に。

「え?琴子!!」
「きゃー!!」
「琴子ちゃん!!」

何をそんなにみんなあたしを呼んでいるの?
あたしはのんきにそんなことを考えていた。


 * * *


次に目を開けたとき、外はすでに薄暗かった。
あたしはまだ着物を着た状態で、袴だけ脱がされていた。セットされていた頭はぐしゃぐしゃ。
でも、目覚めはすっきり。
どうやら式で倒れてそのまま医務室に運ばれたらしい。
さぞかしみんな驚いたことだろう。
でも、薄暗くなった部屋には、誰もいない。いるわけないか、何時間たったのか知らないけど。

「…また入江くんにあきれられちゃうなぁ」

「ま、驚いたけどね」

あたしのつぶやきに返答した人がいた。
ついたての向こうで人影が揺れた。
ついたての下からおろした足がわずかに見えた。
聞き慣れた、でも懐かしい声。

「うそ…」
「嘘じゃない」
「手術は…?」
「したよ、もちろん」
「なんで、いるの」
「琴子に会いたかったから」
「…ほんとに?」
「式には間に合わなかったけどね」
「ううん、来てくれただけでいい」
「いつも間に合わなくて、大事なときにいなくて、おふくろ曰く、夫失格らしいから」
「そんなこと、ない」

あたしは泣くのを我慢して見ていた。
だって、久しぶりに会うのに、会いたくてたまらなかったのに、泣いてしまったら姿が見えない。
顔が見たいの。
声が聞きたいの。
だから、あたしはしゃべり続ける。

「ねえ、何持ってるの?」
「…戴帽式の時には渡せなかったから」

そう言ってあたしに差し出されたのは、大きな色とりどりの花束。
春らしいピンクの花束に、あたしはうずもれてしまいそうになる。
まさか花束をくれるなんて思わなかった。
それなのに、一瞬受け取るのを躊躇した。
もし今これを受け取ってしまったら、今目の前にいるこの人は、消えてなくなっちゃうんじゃないかしら。
花束をくれるなんて、夢じゃないのかな。
触れたら、本当に消えちゃわないかな。

「卒業おめでとう」
「あ…ありがとう」

もう、だめだ。
もう耐え切れない。
あたしは花束ごと抱きつく。

「入江くん!会いたかったよ!」
「…触ったら、消えるかと思った」
「あたしも…」

花束の甘い匂い。
それとも入江くんの匂い?
入江くんのキスは甘い。
大好きな人とするキスは、まるで花束のよう。
色とりどりに咲いて、甘い匂いに包まれて、これ以上にないくらいに幸せだと思う。

「ほら、消えないでしょ」

キスをしてつぶやく。

「それはどうかな。もっと確かめてみないと」

入江くんの声にうっとりしかけたそのとき、ここは医務室だってことに気がついた。

「そうだな。見られるのはかまわないけど、ギャラリーが多すぎるし」

意地悪げにささやいた声と花束の向こうに見えたのは、ドアのすき間に動くたくさんの人影。
ついたての向こうから聞こえるいつものメンバーの声。

「心配して来てみればこれだもんね〜」
「よく寝たみたいね」
「式の最中に寝るなよ」

「…もしかして、謝恩会は…」

「あら、とっくに終わっちゃったわよぉ」

そ、そんなぁ。

「それよりも、入江さん、一緒に卒業のお祝いに飲みに行きませんか?」
「俺はヤダネ」
「あら、誰も啓太は誘ってないわよ」
「なんだと」
「まあまあ、そんなこと言わずに」

勝手気ままに予定を立てる連中に、あたしは息巻いて遮った。

「だ、だめ!!今日の入江くんは貸せない!」

「ふ〜ん」
「貸せないですって」
「久しぶりですもの、仕方がないわよね」
「…どうせすぐに帰るんだろ。手術後の患者、放っておけないだろうし」

啓太の言葉にあたしはびくっとした。
やっぱりすぐに帰っちゃうんだ。

「わかってるなら、話は早いな。…帰るぞ、琴子」
「え、う、うん」

起き上がったあたしの乱れかけた着物を直してくれながら、入江くんは笑って言った。
あたしはその言葉に花束を抱きしめながら、しばし絶句するはめになった。

「…帰ったら、確かめさせてくれるんだろ?」


Congratulations!


花束の向こうに(2006.04.05)−Fin−