悪魔の微笑み



180000Hit御礼キリリク『天使のささやき』おまけ


翌日の騒ぎは凄かった。
登校すると、皆が口々に「おめでとう」と声をかけてくる。
うんざりしながら口をつぐむ。
その隣で、琴子は「ごめんなさい、違ったの」と否定しながら歩いていた。
一集団に言えば、あっという間に噂は回る。
昼を過ぎる頃には妊娠騒動も終わりに近づいていた。
しかし、また新たなる噂が回っているとは、さすがに予想できなかった。
この噂が回ったせいで、どうやら妊娠騒動も終わったのだとわかった。


 * * *


「お、入江。おまえ…」

ここで極端に声を潜めながら、同じ実習グループのやつが言った。

「実はバイだって?」

言われた意味がわからなかった。

「…ちょっと待て、どこでそういう噂が」
「どこでって…ここで?」
「……詳しく聞かせてもらおうか」

俺の顔を見たそいつは、青ざめてものも言わずに首をもげそうなほど振った。

実はゲイだの何だのと言われたこともある。そういう人間が寄ってきたこともある。
今はさすがに結婚までしたせいか、そういう噂も最近はなかった。
それが、今度はバイ、だって?
妊娠騒動からどうしてそういう話になるのか。
噂好きの大学の連中にも困ったもんだ。
そういう噂好きはおふくろや琴子で慣れているとはいえ、毎回大学全体にまで広がるこのスピードといい、斗南の連中も相当暇人なようだ。

実習グル−プのやつらが聞いた話は単純だった。
琴子の妊娠は間違いだった。結婚してもなかなか子どもができないのは、実は俺に問題があって、という話まではよかった。
避妊という言葉を思いつかないヤツラは放っておくとして、琴子が責められるくらいなら、俺はそれでもよかった。ところがその続きにはあまりのバカバカしさに開いた口がふさがらなかった。
つまり、琴子は子どもほしさのあまりの想像妊娠だった、と。
その原因は、昔からの付き合いである男と二股をかけられていて(この場合、他の女の影がないので否定されたようだ)、子どもを作れば俺の冷たい態度も何とかなると思い込んだ、というものだ。
どこからその二股男が出てきたのか、全くあきれる。

「い、入江さ、昔から女も男も寄せ付けなかったけどさ、一人だけいつも一緒のやついたじゃん」
「…一人だけ…?」
「A組の育ちの良さそうな坊ちゃん顔の男」
「………渡辺か?!」

俺は目をむいて思わず怒鳴った。

「あいつも俺もノーマルだっ」

俺の剣幕に恐れをなして、半分涙目になりながらそいつは言った。

「うん、だけど、入江と一緒に行動してただけで凄いというか…。あ、いや、今は前より取っ付きがよくなったからさ。その、高校時代なんかはほとんどクラスのやつとも会話しなかったし、3年になってからは奥さんに振り回されてたせいかいつもぴりぴりしてたし、唯一その男だけがそばにいたと聞いて…」
「…それで、その噂か…」

俺は大きなため息をついた。
気の毒にな、渡辺。
おまえは琴子にすら恋情を抱くほどのごく普通の…いや普通以上に寛大でよく気のつくやつだというのに。偏屈な俺にちょっと付き合ってくれたお陰で。

「いや、あいつは、本当に普通のいいやつなんだよ」

俺の口からいいやつと出たのが珍しかったのか(まあ、確かにいつも辛辣な評価しか口にしないせいだ)、そいつらは目をむいて驚いた。

とりあえずその日はそれで済んだ。


 * * *


翌日、噂はさらに変化した。

「お、昨日のあの話、また尾ひれが付いて、おまえと渡辺が奥さんを取り合って争った挙句、気まずくなった渡辺が外部を受けたって話になってるぞ」

…暇人だな、本当に。
だいたい渡辺が他の大学に行ってから結婚したんだから、取り合ったもないだろうとわからないんだろうか。
渡辺がこれを聞いたら、どういう顔をするだろうか。
どちらにしても暇なやつらは、ありえないと知っていてそういう噂を立てるのを楽しんでいるんだろう。

「…今度そういう噂が耳に入ったときには」

そいつは笑った顔を硬直させた。

「自分の身の回りに気をつけろと言っておけ」

ごくりと息を飲み込んだ音が聞こえた。
俺はふん、とばかりに実習へ向かった。
今度無責任な噂が出たら、100倍にして返してやる、と思いながら。


 * * *


噂もすっかり収まった1週間後、一本の電話が鳴った。

『あ、入江?子どもができたって?この間聞いてさ〜。で、いつ生まれるんだ?』

俺は思わず電話口で腹がよじれるほど笑った。
まさかその話はデマで、おまけにその後自分も巻き込まれた噂に発展したとは知らないだろうと思いながら。

『どうしたんだよ。珍しいよな、そんなに笑うなんて。そんなにうれしかったのか』
「ああ、悪い。それはただの噂だ。
それよりも渡辺、久々に飲みに行かないか」
『あ、行くよ、うん。ところで琴子ちゃんの話は嘘なの?』
「まあな。それより、面白い話を聞いたから、話してやるよ」
『へぇ、どんな話かな』

電話口で楽しそうにそう言った友人は、以前と変わらぬ口調なのが懐かしかった。
そういえば高校時代、機嫌の悪いときにもいつも飄々と話しかけてきたそのおおらかさ。

「それより、おまえ、彼女できたか?」
『は?そんな暇ないよ。入江と違って両立できるほど、僕は頭良くないからね』
「…そうか。そうすると…」
『なんだよ、入江』
「今度、話すよ」

再会を約束して電話は切れた。
多分あいつは驚くだろう。

おまえ、琴子のこと、実は好きだったろ?

…どんな顔するか、見ものだよな。


(2009/08/28)