教授から神戸での学会に付き合うように言われたその日、家では琴子が食べすぎで胃を壊していた。
天使のささやき
「えーと、8個くらい…?」
俺はあきれてものも言えないでいた。
ケーキバイキングとはいえ、あんな甘ったるい物をいくつも食べる者たちの気が知れない。おまけにバイキングで元を取るために8個も食べるか?!
それだけ食えばそりゃ胃も壊すだろうよ。
俺はそう言って琴子をにらみつけた。
全くいつもいつも限度ってものを知らない。
もちろんそこが琴子のパワーの凄さであり、俺が惚れた部分でもあるのだが、時々、いまだその行動にあきれたり怒ったりする自分がいる。だいぶ慣れたつもりでいたのに、だ。
明日から3日も家を空けるというのに、琴子がこれでは落ち着いて寝られやしない。俺は諦めて寝室を出て行く。
「えー…」と残念そうに声を上げる琴子は、俺の胸のうちを知らない。
その声を振り切って書斎へ行く。
書斎で琴子が完全に眠るまで明日からの学会の資料に目を通すことにした。
何も知らないから診察の真似事で「お医者さんごっこみたい」と簡単に言えるに違いない。
琴子は寝つきがいいが、念のため10分。
もう既に何度も目にした資料なんてそらで言えるくらいだ。
時計を見ながらイライラする。
もう一度明日の持ち物を確認して、あと5分。
今、寝室へ戻って抱きしめてしまったら…気分が悪いと言っている琴子に無理強いをしてしまうだろう。
…最中に吐かれても困るし。
思わずそんなことを考える。
いや、琴子ならありえるか。
ふと笑みがこぼれて、ジャスト10分。
寝室へそっと歩いていく。
真っ暗にされた寝室には琴子の寝息。
「やれやれ」
つい言葉に出してベッドに近づき、琴子の隣へもぐりこむ。
気分が悪いと言ってた割には平穏な寝顔。
その寝顔を少し見つめた後、わざわざ向きを変えて寝入ることにした。
キスの一つでもすれば、抱きしめて止まない欲望に背を向けるように。
* * *
学会の間中、隣でつぶやく船津はうっとおしいことこの上ない。あれほど綿密に論文を…と言ってる声はあえて無視することにした。
そんな船津ともようやくおさらばできると思った最終日、大学まで教授と一緒に戻ることに。
正直3日も見たくない顔を見続けて、聞きたくない声を聞き続けて、一刻も早く家に帰りたかった。
大学で教授と別れた後、構内を歩く俺たちを見ながら、周りがざわめく。
船津…ではなく、やはり俺のようだった。
「何か君、注目されてるみたいだなぁ」
周りから聞こえてくるのは「あ、入江だ」というこそこそとした声。
「琴子と知り合ってからそんなことすっかり慣れたけど」
「慣れるほど噂になってるんですね」
船津はそんな俺に変な尊敬をする。
「今回は何か理由がわからないのが嫌な感じだな」
いつも、掲示板に派手に書かれている噂の内容。
念のため掲示板を見たが、おふくろ手作りの貼り紙はされていない。
おまけに周りも俺を遠巻きに見て噂するだけで、噂の内容を明かしはしない。
本当に嫌な感じだ。
でも、その裏にはきっと琴子とおふくろが関係してるような気がする。
途中、武人が俺を見つけてニヤニヤと笑った。
「あー、入江さん、早く家に帰ったほうがお楽しみが待ってますよ」
「何かあったのか」
「いやー、それだけはくれぐれもおばさんから言うなって言われてるし、じゃ!」
間違いなくおふくろの差し金か。
そのまま構内を歩いていくと、木の陰から金之助の気配が。
「スケベしやがって…」
ほとんど恨めしや〜と変わらないくらいの怨念を感じる。
俺が学会に行ってるこの3日の間に何があったんだろう。
まさか家で裸エプロンの琴子が待ってるわけでもあるまいし。
…まさかな。
ゼミなどに顔を出してから帰り支度をする。
いつもなら待ち構えている琴子も今日は構内にいない。
やはりおかしい。
家で何事か待ち受けているのかもしれない。
それでも家に帰らないわけにはいかず…。
家に帰り着くと、インターフォンの下に貼り紙。
出来ることならこれを見落としたふりでもしてやりたいが、あまりにもバカでかいため、嫌でも目に入る。
『お兄ちゃんならピンポンを2回鳴らすこと。母より』
なんなんだっ、ったく。
仕方がないのでインタフォーンを2回押す。
わざわざ押してやったにもかかわらず、誰も出てくる気配がない。どうなってんだ!
そのまま鍵を開けて玄関に入ると、リビングからおふくろの上ずった声。
『来たわーっ!来たわよー』
丸聞こえだ。
リビングのドアを開けると同時に派手なクラッカーの音とおめでとうの声。
ちょっと待て。
俺の誕生日はとっくに過ぎたぞ。
結婚記念日も…過ぎた。
クラッカーから飛び出た紙帯を頭にかぶりながら、俺は頭痛がする思いだった。
「…いったい何の騒ぎなんだ、これは」
「聞きたぁい?お兄ちゃん」
「是非聞かせてもらいたいね」
「ほらほら琴子ちゃん、あなたから言っておあげなさいな」
おふくろに後ろから押されて、真っ赤な顔をした琴子が小さな声で言った。
そういえばいつもなら真っ先に飛びついてくるはずなのに。
「お、おかえりなさい」
「…ただいま」
「あ、あのね。あ…あのね、あのね…」
「あのねはもういいよ」
いつも以上にどもる琴子。
「そ、そう、あのね、実は…その…」
そしてより一層顔を赤くしてからうつむいた。
「赤ちゃんがどうもできたみたいで…」
「え、何て」
あまりに小さい声でうつむいてしゃべるものだから、よく聞こえなかった。
「赤ちゃんが、で、できたみたいなの」
その言葉が正しく頭に入ったかどうかは、正直定かではなかった。
一瞬空白になる頭。
何の単語も浮かばない。
周りでおふくろたちがいつものようにビデオを回していることさえそのときは気にならなかった。
やっとのことでめまぐるしく回転しだした頭に浮かんだ言葉を口に出す。
「…本当に?」
世間ではこんなとき何て言うのか。きっと似たり寄ったりに違いない。
世間にも認められた夫婦で、それなりに夫婦生活をしていれば普通のことだ。
もちろん学生である以上気をつけてはいたが、100パーセントの避妊なんてありえないから。
「た、多分…」
「多分?医者は?」
「ま、まだ行ってないけど、お義母さんがきっとそうだって」
ようやく頭が冷えてきた。
おふくろの勘じゃ当てにはならない。
琴子の覚えも…当てにならないだろうな。
俺の覚えでは、多分、妊娠はない。
ないとは思いつつ、100パーセントはないから、それを口にはできない。
いったい何を根拠に騒いでるんだか。
おふくろは、琴子に現れたという妊娠の兆候を俺に訴える。医者の勉強をしているこの俺に向かって、だ。
…生理くらい遅れることもあるだろ。少なくとも今までだって遅れることくらいあったはずだ。
吐き気?つわりが来るのはもう少し後じゃないのか?
だいたい出かける前にはケーキの食いすぎのはずだった。
ふと横を見ると、おやじやおふくろ、お義父さんまでもが涙ぐみながら喜んでいる。…が、確信もないのにどうしてそこまで妄信できるんだ。
「それでこれか」
壁に貼られた命名の紙に、いつの間に揃えたのかベビー用品。
いくら何でも気が早すぎる。
今さらながらここまで期待されていたのかと顔が引きつる思いだ。
結婚自体は紙切れ一つだが、子どもとなるとそうはいかない。
だいたいまだ学生の身分で、しかも付き合いをすっ飛ばして結婚した俺たちに、子どもは早過ぎるとは誰も思わないのか。
時計を確認する。
時間は4時。
午後の診療ならまだ行ける時間だ。
「行くぞ、琴子」
「え、どこへ」
「病院に決まってるだろっ」
皆に祝福されて舞い上がっていた琴子は、戸惑いながら俺に連れられて近所の産婦人科へ。入口で少しだけ躊躇する。
何やってんだ、ほら、とばかりに促すと、おずおずとついてくる。
病院の中でも産婦人科は敷居が高いかもしれないが、妊娠したら嫌でも行くんだ。入れなくてどうする。
中に入るとずらりと並んだ妊婦。
顔を赤らめながら周りを見渡している。
さっさと受付を済ませ、尿検査を促す。
「入江くんからこういうの受け取りたくなかったな」
ブツブツ言いながら尿コップを持ってトイレへ。
別に尿が入ってるわけでもあるまいし。
尿検査で結果が否定されれば、あえて内診も必要ないかもしれない。
でも、もし本当に妊娠していたら?
俺は手近な椅子に座って待つことにした。
トイレから戻った琴子が同じように隣に座った。
「こ、こういうところって恥ずかしくない?」
「別に。俺は医者になる人間だし、病院の匂いは妙に落ち着くね」
そう言った言葉は、半分は本当で、半分は無理矢理そう言い聞かせていた部分もあった。
自分の子どもができているか、できていないかの判断を待つなんて、滅多にあるもんじゃない。
医者としての俺は理性的に対処しようとしている。
妊娠するには排卵日近くで夫婦としての営みを…と、教科書的な事柄と、まあ、覚えがないわけじゃない、とか。
琴子の夫としての俺は、『もしも』という言葉で埋め尽くされている。
望んでいないわけじゃなかったが、突然そう言われた戸惑い。
この俺が父親…?
他人の子どもを見ると、いつかはそういうこともあるだろう、くらいに思っていた。
思っていたのと現実とは全く違う。
隣で琴子は緊張している。
何か言葉をかけたほうがいいのはわかっている。
だが、何と?
俺はこういうときに自分の力のなさを思い知る。
「ねぇ、入江くん、赤ちゃんできたって聞いて、どう思った?」
きっと一番聞きたかったことなのだろう。
それに答える前に、琴子が診察室に呼ばれた。
多分きっと…。
俺は息を吸い込んで琴子に言った。
「結果聞いた後に教えてやるよ」
「うん。いってきます」
琴子はそう素直にうなずいて診察室へ入っていった。
琴子が入っていった後、静かな待合室には時計の秒針の音まで聞こえるくらいだった。
もしも父親になることになったら、俺はどう変わるだろう。
おやじは子煩悩な人だし、おふくろはああいう人だし、俺自身はたっぷり愛情を持って育ててもらったと言える。むしろ過保護なくらいに。
何せ弟ができるまでに間があったから、それまでは実質一人っ子状態だ。
琴子は子ども好きだから、育てることに何も問題はないだろう。むしろ俺のほうがどういう扱いをしたらいいのか戸惑うことだろう。
小児科外科に行くことにしたときの唯一の悩みがそれだった。
できのいい弟と、世間一般の子どもとは大きく違うのだということ。
もちろん弟の裕樹だって、琴子への態度を見れば十分にそこいらの子どもとなんら変わりがないのだということは理解できた。むしろその態度の変化に驚いたくらいだ。
いわゆる世間一般の子どもというのは、うるさくて、しつこくて、元気で、それでいて実はかわいげのある生きものだと思っていた。
今でもその認識は概ね変わっていないのだが、病院にいる子どもというのは、元気そうに見えてどこか弱弱しいところがあるのだと知ったのは、裕樹の入院のときが初めてだった気がする。
夜中に幽霊騒動の真相を確かめるべく皆で夜更かししたあのときの生き生きとした顔。そのすぐ後で熱を出して寝込んだ苦しげな顔を見たとき、やはり子どもは元気でうるさく動き回るべき生きものなのだと認識したのだ。
医者としての原点がそこにあるのと同時に、子どもに対する認識もそこからのような気がする。
多分琴子と出会っていなければ、おもちゃを作る会社にいながら子どもをさっぱり理解できないまま作っていただろう。
ただ売れるものを、という機械的な作業。
夢を持つということ。
それがどんなに大事なことなのか知らされた。
そして子どもを持つこと。
正直沙穂子さんといたときは義務のように感じていた。
将来子どもをつくるということは、跡取りを得ることだと。
琴子と一緒になったとき、ただ二人でいられることだけで幸せで、子どものことは考えなかった。
どちらが正しいのかそんなことはわからない。
わからないが、二人で得た幸せの延長線上に子どもがいるのだと今は感じる。
もしも二人の間に子どもができたなら…。
俺は…。
程なくして、診察室のドアが開き、琴子が出てきた。顔色は優れず、看護婦に慰められながら俺のそばへ来る。
「…い…入江くん…あ…あの…あたし…」
漫画のように顔に縦線でも浮いてそうな顔つきで、琴子は話し始めた。
「い、胃が荒れてるって…。生理もすぐ始まるって。そ、それで…」
もう涙目だ。
「ご、ごめんなさいっ」
「違ってたんだろ」
出てきた途端わかったよ…。
俺は一つため息をつく。
「そ、そうなの。ごめんなさい。大、大勘違いしちゃって、あたし…」
琴子は謝り続ける。
ほっとしたと同時に残念な気持ちも相まって、ふつふつと怒りが湧き起こる。
「ったく、医者も行かずに先走るからだ。まあ、根源はおふくろだけど。
出かけるときの様子から見て、どーもおかしいと思ったよ」
会計を済ませ、帰るために玄関に向かう。
琴子の歩みは意気消沈して進まない。
「あたし、皆になんて言えば…」
「できてないもんはできてないんだから、そう言うしかないだろ」
そりゃそうだけど、と琴子はつぶやく。
だいたいはっきりもしてないときに、なんで大学中に触れ回ってんだよ。
俺には明日からの騒動が目に見えるようだった。
「ほら、帰るぞ」
スーツのポケットに入れていた手を出し、琴子の頭をくしゃくしゃとしながら引き寄せる。
涙目のまま俺を見上げると、とぼとぼと歩き出した。その割には差し出した手をしっかりと握って。
* * *
家の玄関を入る前に、琴子は壮絶なる覚悟を決めたような顔で息を飲み込んだ。
なんとなくゆっくりとドアを開けて静かに入る。
リビングで待ち構えるおふくろの姿が透けて見える。
ドアを開けると、先ほどの俺と同じようにクラッカーを鳴らして叫ぶ。
「今度こそおめでとーー!」
クラッカーから飛び散った紙吹雪を頭に受けながら、二人して何とも言えない顔をする。
いつもわけもわからずこれをやられる俺の気持ちがわかったか、琴子?
おふくろたちの手には既にシャンパングラス。
どれだけ早とちりなんだ。
俺たちの様子を気にも留めずにどんどん話を進めるおふくろに、俺は怒りを込めて言った。
「おふくろっ、琴子は妊娠してない」
おふくろも、おやじも、お義父さんも、裕樹も、グラスを持ったまま凍りつく。
「え…今、なんて…?」
俺はため息をついてもう一度言った。
「妊娠してない。おふくろの思い違いだよ」
「ご、ごめんなさい」
隣で小さく琴子が謝った。
事をようやく悟ったおふくろは、気が抜けたのか、何も言わずに倒れこんだ。おやじが慌てて支える。
「そ、それじゃ…孫は…なし…」
お義父さんまで泣かんばかりに肩を落とした。
視界の片隅で、裕樹が壁一面に貼られた命名の紙をはがしていくのが見えた。
「これからは確かめてから大騒ぎしてください」
俺の一言に家族中が下を向いて「はい」と答えた。
そうは言ってもまた繰り返すんだろうな、と思いながら部屋へ引っ込んだ。
* * *
琴子の落ち込みようもひどかった。
それほどに子どもを望んでいたのかと思ったが、大学であれほど噂になったのをどうやって打ち消したらいいかで悩んでいたようだ。
夕食後におふくろがまたもや「ねえ、本当の本当にできていないの?」としつこく尋ねてきたので、俺はただの勘でどれほど皆に迷惑をかけたのかを言ってやった。
大学中を巻き込んで、おそらく親戚や近所にも触れ回っていたことだろうことを考えると、あまりにも軽率と言えるだろう、と。
風呂を終えて寝室に戻ると、琴子の姿がない。
バルコニーに出る窓が開いていて、バルコニーにもたれてぼんやりとしている琴子の姿が見えた。
そのまま近づいて声をかけた。
「まだ立ち直れないのか」
「入江くん…」
琴子は一度振り向いただけで、またすぐにバルコニーにもたれた。
「胃炎の次は風邪ひくぞ」
「…風邪ひいて寝込んで、大学休みたい気分」
休んだら、噂はさらに尾ひれをつけて広がるだろう。
皆になんて言おう、と半泣きで訴える。
諸悪の根源であるおふくろのはしゃぎぶりを思い出し、またもやため息が出た。
「おふくろも叱っといたよ。さすがに反省してたよ」
琴子の隣に同じようにもたれると、琴子は「かわいそう、お義母さん…」とつぶやいた。
自分も同じくらいがっかりしているだろうに、そういうところが琴子のいいところなのだろう。
そういう琴子を元気付けるためにも、俺は飲み込んでいた言葉を口にすることにした。
「あの時」
琴子は顔を上げて俺の言葉を待っている。
「赤ちゃんができたって聞いたとき、正直言ってこの俺が、一瞬頭真っ白になったな。
だけど病院行って、おまえが診察してる間の時間いろいろ考えてさ。
多分俺の勘では違うと思ってたけど、だけど、もしそうならって、あの何分間の時間、俺もオヤジの気分になれたよ」
琴子は俺の言葉を聞いてくすっと笑った。
「どうだった?オヤジの気分」
「なかなかよかったよ」
珍しく即答した俺を見て、琴子はうれしそうに笑った。
「あたしも」
そんな琴子を見ていたら、子どもがいなかったのが本当に残念な気がしてきた。
琴子の耳元にキスを一つ落とし、温かな身体を抱きしめる。
柔らかな唇を捉えると、そのまま身体を離したくなくなった。
「入江く…」
身動きした琴子にそっとささやきかける。
「ちょっと子どもほしくなってきた。作っちゃおうか」
「え…」
一気に頬を上気させ、こちらを見上げる。
その頬を包み込み、もう一度キスをする。
この無邪気とも思える顔がいつか母親の顔にになるんだろうか。
そしていつかは俺も父親に。
琴子の身体を部屋の中へ押し込みながら、ちらりと夜空を見上げた。
このぶんだと明日も晴れるだろう。
部屋の中、ベッドに座って琴子を手招きする。
おずおずと近づいてくる琴子の温もりを求めて引き寄せる。
こうして二人きりで過ごす夜も悪くはない。
それでも、いつかは。
少し肌寒くなった夜空の下、耳を澄ませば、いつかは降りてくる天使のささやく声が聞こえるかもしれない。
(2009/08/27)