06 無自覚の誘惑
知らなかったと言えば嘘になる。
あの最初の手紙事件の後、F組はごめんだと話すクラスメートでさえ、A組に何度か顔を出すうちに、結構かわいいかもと言ってのけるやつがいたこと。
あの渡辺でさえもったいないと言いながら相手をしていたこと。
大学に入ってちらほら誘う奴が増えたこと。
本当にかわいいのかどうか、よくわからない。
美人かどうかと言えば、美人でもなく十人並みという答えはすぐに出てくるというのに。
まあ、そばに松本のようなやつがいるから、あれを美人と言っては申し訳ないくらいだろう。
それでも人の好みというのは千差万別。
美人でなくてももてるし、性格がどうのと言うならば、やはり付き合ってみなければわからないことも多い。
性格?
俺は思わず吹き出す。
あいつのあの性格を理解できて我慢できる奴なんてそうそういないだろう。
だいたい好きだと公言している俺にさえ、ほとんど迷惑しかかけていないというのに。
あれで好かれようなんて思っていること自体バカなんじゃないかと思う。
それでもそんなあいつがいいと言う物好きな奴もいるわけで。
ただ、あいつはいつも俺しか見ていなくて、俺しか追いかけていなくて、それは半ば大学では公認になっていたから、改めてあいつを誘ってデートする奴が金之助以外にいるなんて思ってもなかった。
デートでもなんでもすればいいと思う。
それはあいつの勝手だ。
俺に許可なんていちいち取る方がどうかしている。
宣言することで何かいいことでもあるのか。
おまけにあいつの気持ちは放っておいて、勝手に喧嘩を始めるなんて、本当にどうかしている。
そんな無駄で疲れること。
「あ、あの、入江くん、きょ、今日ね」
相変わらずどもりながら上目づかいでこちらを見る。
バイト中であるにもかかわらず、何をやってるんだ、こいつは。
「おばさまが、夕食を食べにいらっしゃいって」
「なんでだよ」
俺はそう返事をして店内の張り紙を見てああと気付く。
七夕フェアと書かれたその張り紙は、俺の意識をようやく暦の日付に意識を向けさせた。
「そう言えば七夕だったか」
「そ、そうなの。それでね、七夕ラブラブ…あ」
そこまで口にして口をふさぐ。
おそらく言わなくてもいいことまで口にしましたという相変わらずの失言癖を披露した。
「七夕がなんだって」
俺は少し凄みながら追及する。どうせろくでもない計画を立てているんだろう。
「えーと、その、短冊を飾りながら織姫と彦星に思いを託してラブラブな夜をって…その、おばさまが」
「ふん、くだらねえ」
そう言うと、途端にやっぱりという残念そうな顔で眉を下げた。
「えー、じゃあ、琴子ちゃん、俺と一緒にデザートでもどう?」
そんなあいつの後ろから、最近バイトに入ってきた他の大学の学生アルバイトが声をかけた。
「え、でも」
俺の方をちらりと見る。
仕方ねぇなとため息をつき、俺は答えた。
「短冊は書かねぇけど、夕飯だけもらう」
「わかった!おばさまに後で電話しておくね」
先ほどあいつを誘った他大学のバイト学生は、空振りに終わった誘いを前に呆然としてと俺の顔を見た。
あいつはうきうきとスキップして裏へと消えた。
あ、い、つ〜、後でって言って今かよっ。
俺の憤怒した顔を見た他大学のバイト学生は、怯えたように目をそらして入ってきた客の案内に逃げていった。
バイトが終わり、先に帰ったあいつは放っておいてそのまま下宿に帰ればよかった。
それでも夕飯は食べると言ってしまったので、しぶしぶ寄ることにした。
何だかんだとあいつとおふくろの策略に乗せられている気がするが、どうせ断ったとしても同じなので、この際もうどうでもいいかと開き直ることにした。
家に着けば庭には豪奢な笹竹が飾られていた。あいつが同居する前には幼少時しか見たことがないようなやつだ。
空を見上げれば曇り空で、さすがに星も天の川も見えないか。
あいつはバカみたいに口を開けて空を見上げる。何も見えないのに、何を見ようと言うんだ。
夜だからいいものの、まるで下着のような薄いひらひらの服でぼんやりと立っている。
それにしてもこいつは隙がありすぎる。
その舌足らずなしゃべり方も、少しどもり気味の会話も、勘違いする男は大勢いる。
計算づくでやっている女もいるだろうが、バカなあいつは計算すらもできまい。
だから、無自覚なんだろう。
いったい誰がそんな手に引っかかるのかと言えば、その辺の男たちだ。
バカなゆえに失敗をしてフォローしてもらえば、無邪気にお礼を言う。
それだけで済めばいいのだが、満面の笑みでお礼を言われれば、ちょっと誘ってもついてくるんじゃないかと勘違いするんだ。
「入江くん、下から見えなくても、きっと雲の上では再会できるんだよね」
おまえいくつだ。
思わずそう突っ込む。
この俺にそんなおとぎ話めいた説話に回答しろと?
どうせ文学部のくせして出典も起源も知らないだろうに。
それでも俺は説教するのも面倒で、適当に答えた。
「雲の上は晴れに決まってんだろ」
その瞬間、あいつは声を弾ませた。
「そうだよね、さすが入江くん」
顔は暗くて見えない。
見えなくて正解だろう。
そのままあいつも黙って立っている。それにつられて俺も黙って立っていた。
くだらないことに振り回されるのは勘弁してほしいと思う。
それなのに、笹の葉が揺れる音が聞こえるほど静寂な時間を、もう少しだけ味わってもいいかと思ったのだった。
(2014/07/07)06 無自覚の誘惑−Fin−