夢の狭間








それはいつもの日課。
いつもの夜。
香織は二歳になる娘の身体を抱いて二階へと上がる。
お風呂から上がって身支度を整え、絵本を選んでベッドへと向かう。
今日はどんな絵本を選ぶだろう。
それは楽しみでもあり、わずらわしくもある。
こうやって絵本を読んで眠りにつく習慣をつけてから、繰り返し読んだ本もある。
時には先に香織の方が眠ってしまいそうになる。
絵本を読みながら娘が眠ってしまえば、そっとベッドから出ていくこともある。

「おかあさん」

今日は絵本を1冊読み終わっても眠る気配はない。

「なあに?」
「てて、きゅっ、して」
「いいわよ」

娘の横で添い寝しながら、小さな手を握る。
柔らかいその手を握っているうちに、娘は程なく眠りに落ちた。
それで大丈夫なはずだった。
ところが、握っている手を離そうとしても、起きているのかと思うほど小さな手が離さない。
そのうち疲れもあって香織も眠ってしまった。

夜中にふと気づくと、娘が泣いていた。
娘が泣いたので目が覚めたらしい。
握っていた手はいつの間にか離れていた。
よしよし…。
そう言いながら娘の身体に触れると、娘が言った。

「てて…てて…」

どうやら手を握ってほしいということらしい。
これほど不安を訴えたことは最近なかった。
それにこんなに手を握るようになったのも。
何か最近変わったことがあっただろうかと考える。
やがてまた眠ってしまった娘の寝息を聞いて、安心して香織も眠りについた。


 * * *


翌日、夫にその話をしたが、
あまり気にはならないようで、手を握って安心して眠るならいいじゃないかと言われた。
あちこち出掛けてもいないし、何か怖い話も聞いていないだろうし、見せてもいない。
それでも香織は娘に尋ねてみた。

「ユカちゃん、何か怖いこと、あった?」

香織の問いかけに、娘のユカは首を振る。
それでとりあえずは気にしないことにした。


夜になり、今度は大事にしているクマのぬいぐるみを抱えて寝室に来た。
今日はどうしても一緒に寝たいと言う。
これも不安な心の現われだろうかと香織は思い悩んだ。
それでもユカがそれで安心して眠れるならと、
クマのぬいぐるみくらいは快く許した。
片手でぬいぐるみを抱き、片手はやはり香織の手を握った。
そして眠りについたが、やはり途中で一度泣いて起きた。
夜泣きがそれほどひどい子でもなかったので、
今になって夜泣きが続くことに少し不安を覚えた。
同じ歳頃をもつ友人は、皆夜泣きに悩まされていると聞いたこともある。
香織は楽なんだと喜んでいたのだが、こういうものなのかと考え直した。


 
 * * *


夜泣きが3日も続くと、さすがに少し疲れてきた。
昼間にも少し眠気がする。
夫は泣かせないように何とかならないかと言う。
それは香織とて思っているが、夜泣きを止める方法など思いつかない。
ユカは昼間にはいつもどおりに遊ぶ。
疲れてしまえば夜中に起きることもないだろうと、公園でたっぷり遊んだ。
しかし、かえって昼寝でぐっすりと眠ってしまい、夜は寝つきが悪くなった。

夜になると、いつもと同じようにぬいぐるみを抱き、香織の手を握って布団に入った。
香織はまだそれほど口も達者でないと知りつつ、ユカに眠れないわけを尋ねた。
今回ももちろん答えは期待などしていなかった。
…にもかかわらず、ユカは少し泣きそうな顔で言った。

「あのね。
くらくて、おちちゃうの」

おちちゃう…。

香織はユカの言葉を反芻した。

どこへ?

「ないの」

ない、の意味はよくわからなかったが、何か落ちる夢を見るのかもしれない。
だから、怖くて手を握るのか。
香織はそう解釈した。

「そう。
じゃあ、お母さんがちゃんと手を握っててあげるね」
「うん。
て、ぱっ、しちゃだめ」

どうやら離すな、ということらしい。

「わかった、わかった」

苦笑しながら眠りに就く。
添い寝をしているうちに、香織自身もここのところの寝不足で眠気がきて、ついユカと一緒に眠ってしまった。


 * * *


これは夢だと思った。
多分夢なんだろう。
香織が立っているところはどこまでも暗く、前も後ろも上も下もわからない。
ただ、立っているということがわかるだけだ。
その香織の手に、柔らかい感触があった。

…ユカ。

ユカが同じように暗い中で立っていた。
その手はしっかりと香織の手を握っている。
暗闇の中でそれは少し香織にとっても心強かった。
手をつないでいるのが、自分の母とわかっているのか。

「おちちゃう」

香織は夢だと思っているので、そっとユカにささやく。

「大丈夫。お母さんが握ってるから落ちないよ」
「…おかあさん?」
「そう。ユカちゃんのお母さん、ここにいるよ」

しゃがんでユカの顔を見ようとしたところで、不意に明るくなった。


 * * *


目を開ける。
それは夢ではなくて、寝入ってしまった自分を見にきた夫が開けたドアから漏れる廊下の明かりだった。

ああ、夢だった。

明るさに慣れない目をしばたいて、香織は起き上がった。

「疲れてるんだな」

夫のいたわりがうれしかった。
その途端、ユカが泣き出した。

「どうしたんだ?」

突然泣き出したユカに驚いて夫が言った。

「さあ?
明かりがまぶしかったのかも」
「ああ、そうか。
悪かったよ」

ユカが目を開けた。

「おかあさん、てて、ぱっ、した」

起き上がったところだったので、つないでいた手を離したのだった。

「ああ、ごめんね」

泣いてぐずりながら、ようやくまた寝入った。
たいてい寝始めに手を握ることを要求するものの、もう一度寝るときにはさほど気にしていない。
夢が違うということか。
香織は先ほど見た自分の夢を思い出して、ユカの寝顔を見た。

そういえば、さっきは周りが暗かった。

寝始めのときのようにしっかりとユカと手を握っていた。
確かにあんな夢を見れば怖くて起きてしまうかもしれない。
でも、それはあくまで香織の夢であって、ユカの夢ではない。
それとも、それは奇妙な偶然だろうか。


 * * *


翌日の夜のことだった。
ユカに添い寝した香織は、なんとなく手を握ったまま離せなかった。
もしこの手を離したら、やはりユカは目を覚ますかもしれない。
そして一緒に寝入ってしまうのも怖かった。
それとも一度起こして、違う夢に変えてしまったほうがいいかもしれない。
そこまで考えて、香織は自分の見た夢がユカが見ていると夢と同じだと思っていることに気がついた。

そんなはずはない。

そう思いながらも、その考えがなかなか止められず、香織は手を握り続けた。
このままずっと手を握っていることなど無理だと思っている。
それでも離せなかった。
ユカはよく眠っている。
少しくらい手を離しても大丈夫ではないか?
そう思ったときだった。

ユカはがばっと起き上がって、目を見開いた。
その急な動作に香織は心底驚いた。

夢遊病?

そう思いかけたとき、ユカが香織を見た。

「おかあさん、おかあさん、おかあさん!」

その切羽詰った声は徐々に涙声になった。

「ユカ?ここよ。
お母さんここにいるわよ?」
「…なんでここにいるの?」

意味がよくわからず黙っていると、ユカはしくしく泣き出した。

「…どうしたの?」
不安な様子に香織自身も戸惑いながらそう聞いた。

「よんだの」
「お母さんを?」
「…うん」

なんだかよくわからなかった。
ただ、そのわからないことがより一層不安だった。
しくしくと泣きながらまた寝入ってしまったユカを見つめ、
香織はふと握っていた手を見た。
今、離そうとしたその手を。

…離してはいけない?

いや、そんなばかな。
ただの夢に怯えて、一晩中この手を握っていなければいけないのだろうか。
そう思う一方で、もしこの手を握っていなかったら、ユカはどうなるのだろうとも考えていた。

結局その夜はうとうとしただけでろくな夢も見ず、
ユカの手を離すこともなかった。


 * * *


夫に、無駄だと思いながら夢の話をした。
もちろんユカのことが心配だということで。
夫は、笑って答えた。

「いい大人が夢に惑わされてるようじゃ、ユカも安心して眠れないよな。
やっぱり疲れてるんじゃないのか?」

ユカは昼間には夜のことを忘れていた。
その一方で、暗い場所、そして階段や滑り台を怖がるようになった。
香織は、せめて階段だけは上り下りできるようにしておかないとと思い、ユカと一緒に手をつないで降りるように促した。
昼間はまだいい。
夜は二階へ上がる際にはひどく嫌がった。
それならば、と明かりをつけて寝ることにした。
少々まぶしいが、これでユカは納得して眠りに就いた。その幼い手にはしっかりと香織の手を握っている。
寝入ったのを確かめて、そっと手を離してみる。すぐにでも握れるようにそっと。
しばらく様子を見たが、どうやら今夜は泣き出さない。
明かりをつけたのがよかったのか、夢が違うのか。
香織は、その考えに捕らわれている自分をひどく疲れているせいだと思った。
それから数日、明かりをつけて寝る日が続いた。何事もなく過ぎていき、あれはやはりたわいもない夢の話だったのだと胸をなでおろした。疲れもようやく取れた感じだった。

そして週末、いつものように明かりをつけて眠らせた。
夫は「明かりをつけて眠るのは身体によくない。成長が妨げられるんだ」とどこからか得た知識を当然のように主張した。
その週末から明かりは消された。


 * * *


ふと目覚めると、子どもが泣いているのに気づいた。

「ユカ?」

寝ぼけ眼で隣を確かめる。

「こわい」

泣きながらそうつぶやいている。
揺り起こしてみるが、目を開けない。

「おかあさん」

そうは言うが、やはり目を開けない。

「くらい」
「ユカ?」

強く揺さぶる。

「だれも、いない」

はっと気づいて離していた手を握る。
寝る前に手を握るのはほぼ習慣化していたものの、気づけば手は離れていた。
目を開けない。
口は動くし、泣き声もする。
これはどういうことだろうと香織は強く手を握る。
隣では子どもの泣き声ごときでは起きない夫がいる。
いつも目を覚ますのは、母である香織だけだ。
暗闇の中でどうしていいかわからず、そのまま部屋の電気を付ける。
途端にまぶしさに目を細めたが、やはりユカは起きなかった。
代わりに夫が目を覚まし、夜中の妻の行動に怒っている。

「何するんだ、突然」
「ユカが、起きないの。目を、覚まさないの」

少しヒステリックにそう言うと、夫はのん気に答えた。

「夜中だろ、寝てるに決まってる」
「揺り起こしても、起きないのよ」
「子どもだからな。眠たいときには何したって起きないよ。
もう電気消すぞ」
「消さないで」
「何言ってるんだ、眠れないだろ」

無情にも電気は夫によって消された。
香織は自分が冷や汗をかいてることに気がついた。
パジャマの下で、流れ落ちる汗に気づきながら、それでも手を離せなかった。
今離したら、ユカが夢から出られない。そう思った。

どうすればいいのかわからなかった。
香織がおかしいのか、ユカがおかしいのか。
子どもの夢や寝言ごときにうろたえる母。
そう割り切っていいのだろうか。
朝になればユカは何事もなかったように目を覚まし、おはようと挨拶をするのだろうか。

香織はそのまま手を握ったままもう一度寝ることにした。
朝になれば、これはただの寝言だったとなるかもしれない。
そう思いたかった。
そして、もう一度手を握って眠れば、ユカと同じ夢が見られるかもしれないと期待していた。
もちろんどこかではバカバカしい話だとも思っていたが、半ば本気でそうであると信じてもいたのだ。
眠りに就いた香織は、期待通りの夢を見ることになった。


思ったとおり、そこは暗かった。
上だか下だかわからない。ただ、自分が立っているという感覚で、足元が下なのだろうというくらいだ。

「ユカ」
そっと呼びかける。
辺りに人のいる気配はしない。

「ユカ」
少し大きな声で呼びかけてみた。

「おかあさん」

いつの間にか、ユカがいた。
足元にうずくまって、泣いていた。

「こわかった」
「そう、ごめんなさいね」

香織は夢を見ているのだと思ってはいても、この現実感はどうだろう。
香織はユカを抱きしめて辺りを見回す。

「ここはどこなのかしら」
「ゆめとゆめのあいだ」
「間?」
「うん。おっこちちゃうの」
「じゃあ、目を覚ませば戻れるのね」

ユカは黙って首を振った。
それはだめだという意味なのか、わからないという意味なのか、どちらにしても香織は不安を覚えた。
そんなこと、あるわけないと思う一方で、本当にそうだとしたら、いくら揺すっても起きなかったユカはどう説明するのだろう。

「だれかくるの」
「誰が…」
「おじちゃんとおねえちゃんと…。びょういんいるって」
「それでユカはどうするの?」
「あるくの。いきなさいって」
「その人たちは?」
「どうぞって」

幼いなりにも一所懸命説明を試みる。その言葉からは、同じように暗闇で彷徨うものがいるのだろう。
病院にいるというのは、想像しかできないが、何か植物状態だったりするのだろうか。
そう考えただけで身震いをした。
もしもそこにはまり込んでしまったら。

「どうやって帰るのかしら」
そうつぶやいた香織に、ユカは首を傾げる。

いつまで待っても暗かった。
前のときはどうやって戻ったのか思い出せない。
病院にいる人たちはどうして戻れないのだろう。
何かきっかけが必要なんだろうか。

仕方がなく香織は歩き出した。
ユカを抱え、あてもなく。

そのときだった。
頭上で何かが光った気がした。
出口があるのかもしれない。
香織は急いで上のほうを見た。
何も見えないが、何かがある。いや、誰かが呼んでいる気がする。頭の上にあって覗き込めない。
香織は試しにユカを頭の上に抱えなおす。
幼児一人を担ぎ上げるのは、なかなか女の身では辛かったが、助かると思えばこそ力の限り抱え上げる。

「ユカ、上のほう、見える?」
「うん」
「戻れそう?」
「うん」

香織の肩と頭に足を乗せて、よじ登る気配がする。
ここまでユカは器用になっていたのかと思うほどだった。

そして、頭に乗せられていた足の感触がなくなり、ユカの気配が消えた。
香織自身も一緒に戻りたかったが、そこへ上る術を知らない。
何か足をかけるものさえあれば上れるのかもしれないが、そんなものは見当たらない。
むしろ夢なのだから、想像したとおりのものが不意に出てきてもいいはずなのに、とまで思った。
香織は、一人残された。


 * * *


「のん気なやつだな。いつになったら起きるんだ?」

夫がつぶやくそばで、目をこすって起きだしたユカは、目を開けない自分の母に向かって泣き出した。

「おかあさん、おいてきちゃった」
「ユカが泣いてるぞ、起きろよ」
「おきないよ…」
「ほら、寝てる場合じゃないだろ」
「おきないよ…。ユカ、おかあさん、おいてきた」

声をあげて泣くユカに困りきった夫は、いくら揺すっても起きない妻を前にして、少しずつ違和感を感じ始めた。
いくらなんでもこの騒ぎの中、子どもの泣き声までするそばで寝ていられるものだろうか、と。
眠りに着く前、様子がおかしかったのは確かだった。

「お母さん起きないなー。どうしたんだろうな」
夫は半ば自分に向かって不安を口に出した。

病気だろうか。
いびきも何もないこの静かな状態で?
眠っているとしか思えないこの状況で?
いや、逆に静かすぎるのか?

夫は泣く子どもを抱えたまま、もう一度妻の身体を揺すった。
「おい、起きろよ。…起きてくれよ。何で起きないんだよ」

どんどんパニックになってくる。
起きない妻。
泣く子ども。
そうだ、119番だ。
いや、誰かに聞くほうがいいのか。
でも誰に?

ユカを抱えたまま右往左往する。
パニックになりすぎて涙まで出てくる。

誰か。
誰か…!


(2009/11/11)