恋愛の卵




番外編





特別。
他の誰でもない、好きな相手からだけもらえるもの。
プレゼントや好きという気持ち。
うれしい気持ちや哀しい気持ちも?
温めた気持ちが相手に伝わったなら、それは全部特別。


坂本君がまた熱を出した。
それでももっと頻繁に熱を出すのかと思いきや、前に熱を出したときから一年ぶりかもしれない。
坂本君とは付き合って一年たっても変わらずで、どちらかというとわたしのペースに坂本君を巻き込んでいる感じ。
前はあれほど気になっていた同じ班の新谷さんとは、友達になってしまった。
新谷さんにいつもよりボケがひどいと聞いて会いに行った坂本君は、明らかに熱の出る前兆だった。
坂本君の困ったところは、これだけ熱を何度も出しているのに、自分では倒れるまで気づかないところだ。
タクシーでアパートまで連れて帰ると、坂本君はよれよれしながらも何とか部屋まで歩いてくれた。

「坂本君、最近ベッド以外でうたた寝したでしょ」
「…そうかもしれません」
周りに積んである山ほどの本からすると、多分レポートを徹夜で片付けたってところかもしれない。
ベッドに寝かせると、水分と食べやすい食事を用意して、手の届くところにおいておくことに。
このまま泊まって看病してあげたいところだけれど、坂本君の分のシフトが今日は入っていた気がするから、お店に行ってこないといけない。
「坂本君、もう少ししたらお店に行ってくるね」
「…はい」
仕方がないので薬はとりあえず市販のものを飲ませることにしよう。
いつものように熱だけならば、様子を見ていれば大丈夫かもしれないし。
すでにうとうとし始めている坂本君の布団をかけ直して立ち上がろうとすると、がしっと力強く腕を捕まれた。
久しぶりだわ、これ。
わたしだってわかってるのかな。
それとも、なんとなくそばにあったものをつかんでみたということかな。
「坂本君?」
呼びかけると少し目を開けた。
「あのね、これ…」
腕を見せると、坂本君はにっこり笑った。
うわー、何この笑み。
何だかかわいらしくて、思わずまじまじと見てしまった。
「…ち…て」
「え?」
何を言ったのか聞き取れなかったので耳を寄せると、坂本君は腕をつかんだまま「小峰…さん」とささやいた。
ささやいたと言うより、それしか声が出なかったってところだろうけれど、妙に色っぽくて赤面してしまった。
実はいまだに名字でしか呼ばれないけれど、いつも丁寧な言葉で話す坂本君が名前を呼び捨てにすると何だか変だったので、そのままだったりする。
わたしのほうも一度日向君と呼ぼうかと思ったけれど、もう坂本君で呼び慣れてしまったせいか、変な感じがして呼べなかった。
坂本君は一向に腕を離さず、仕方がないのでそばに座っていた。
どうしようかと思っていたら、急に坂本君が起き上がった。
トイレかなと思う間もなく、ぎゅうっと抱きしめられた。
これも無意識なのかなぁ。
前に、熱が出るといつもはちゃんとコントロールしている理性が吹っ飛ぶと言っていた。
「…亜美」
珍しく名前を呼んでくれた。
うわー、どうしよう、熱で意識が混濁してると言っても、これはちょっとうれしい。
ためしにわたしも名前で呼んでみた。
「日向君」
すると、まるでそれが合図のように体が反転した。
あれ、わたしベッドに押し倒されてる。
耳元に坂本君の吐息を感じる。
熱が出ているせいか、より一層熱い。
体はぴったりと押さえられていて、身動きができない。
坂本君の理性が吹っ飛ぶと、こうなるんだぁ。
改めて感心していると、坂本君は何かむにゃむにゃ言っている。
もそもそっと手が動いて、熱い手が頬をなでたり、胸元をさまよっている。
熱が出ているのにいいのかしら。
それともしちゃったほうが早く熱が下がるとか?
でもする体力はなさそうだけれど、大丈夫かな。
えーと、いや、そんなことじゃなくて。
わ、ちょっと、どうしよう。
あれよあれよという間に胸はさらけ出されて、このままでは下も脱がされそう。
「ねえ、坂本君…大丈夫…?」
そっと聞いたら、坂本君はわたしの胸に突っ伏して力尽きたように眠ってしまった。
ちょっとほっとしたような、残念なような。
坂本君の体をうんしょっとどかせると、幸せそうな顔をしている。
おかしくて、服を直しながら笑ってしまった。
熱を出すたびにこうなのかしら。
じゃあ、今までは…?
この先も…?
もう終わってしまった過去やこれからまだ見ぬ未来に嫉妬して、わたしは坂本君の鼻をつまんだ。
「こら、坂本日向!わたし以外の人に理性吹っ飛ばしたら怒るからね!」
坂本君はふがっと口を開けて「もうだめです」と言ったので、いったいどんな夢を見てるのだろうとさらにおかしくなって、声に出して笑った。

 * * *

朝は平気だった。寝不足の割には少なくとも目の前がぼんやりすることはなかった。
昼を過ぎて、少し眠いかなと思った。
どうやらぼんやりしていたようで、新谷に「大きな体でぼんやりされると邪魔だ、どけ」と言われた。
もしかしてこれは熱の出る前か、と気づいたときには、彼女に支えられるようにして家路についていた。
どれだけぼんやりしてたんだ。
部屋の中まで連れてきてくれた彼女は、見回して言った。
「坂本君、最近ベッド以外でうたた寝したでしょ」
周りにはレポートで使った資料の本が散らばっている。
「…そうかもしれません」
あまりちゃんと寝た記憶がないので、机に突っ伏していたりとか床に寝転んだりとかしていたかも。
「坂本君、もう少ししたらお店に行ってくるね」
「…はい」
今日はバイトが入っていた。代わりに彼女が行くらしい。
あまり遅くのシフトには入れたくないのに、そんなこと言える立場じゃない。
ベッドに横になると、猛烈に眠気が襲ってきた。
寝てしまえばきっとまた熱は下がるのだろうとわかっている。
彼女に一言お礼を言わなければ…。
彼女が何か言っている。
彼女はかわいくて、よくできたしっかり者だ。俺にはもったいないくらいだ。
ああ、彼女が俺の彼女でよかったなぁ。
「こっち来て」
このままだとすぐに眠ってしまいそうだ。
「小峰さん」
ありがとう。
彼女はまだそばにいるだろうか。
バイトの時間まではまだ少しあるはずだ。
いつだったか、名前で呼んでと言われたのに、どうしてもうまく呼べなかった。
頭の中では何度でも呼べるんだが、実際に口に出して見ると、どうも何だかしっくり来ない。
「…亜美」
今度こそ名前で呼んだら、彼女は喜ぶだろうか。
丁寧に呼ばれるより呼び捨てがいいなんて、女の子はわからない。俺のものと主張しているみたいで気恥ずかしい気もする。
彼女も同じように名前で呼んでいいかと聞かれたので、どうぞと言ったが、やっぱり彼女も何だか恥ずかしいと呼び方は変わらないままだった。
「日向君」
こんな風に呼ばれると、自分の名前も悪くないなと思える。
「ずっとそばにいてくれますか」
いつか彼女を目の前に、こう言ってみたい。
彼女がそばにいれば、それだけで幸せな気がする。
やわらかくて、いい匂いのする何かに包まれて、俺は眠りについた。
「ねえ、坂本君…大丈夫…?」

夢の中で、俺と彼女は海だか川だかに流されていた。
彼女を何としても岸に上げなければ。
ところがどこまで行っても岸がない。
どんどん流されて、ようやく何か捕まれるものが。
彼女をそれに捕まらせて、俺は必死で泳いでいる。というより沈まないようにがんばっていた。
うう、流される。もうだめだ。
「こら、坂本日向!…」
「…もうだめです」
哀れ、俺は彼女の目の前で沈んでいくのだった。
…どこかにあったな、こんな映画。

熱が出た時の自分の様子を彼女から聞いて、俺は冷や汗をかいた。
なんだって俺はいつもいつも…。
むっつりと言われても仕方がない。
「でもね」
彼女はうれしそうに言った。
「名前呼んでくれて、すっごくうれしかった」
ああ、それすらも覚えがない。
「無意識にわたしのこと名前で呼ぶくらいなら、これからも名前で呼んで」
…後じゃだめですか。
「日向君」
じりじりと彼女は迫ってくる。
長谷部さんは「おまえな、『小峰さん』じゃちーっとも変わってないだろ。女の子というのは、特別がほしいんだよ」とごもっともな意見を吹き込んできた。
わかりました、降参です。
「亜美…さん」
「うーん…もう一声」
値切りじゃないんだから。
それでも彼女の要望には応えよう。
「…亜美」
「はい、日向君」
目を見合わせて、二人して笑いあう。
新谷に言わせれば、彼女は邪気がなくていじめ甲斐がないらしい。おまけに俺たち二人が揃うとバカップルの見本みたいでうっとおしい、とも。
言いたければ言えばいい。
何にしても彼女といればとりあえず俺は幸せなのだから。


(2010/02/01)

恋愛の卵(番外編)−Fin−