青空










あの日、空は目が覚めるほど青かった。雲もない秋空なんて珍しいくらいに。
おそらく上空では風が強かったのだろう。
雲まで吹き飛ばされた空がどこまでも続いていた。

その風は、屋上でぼんやりと柵にもたれた琴子のほつれ髪を揺らしていた。
「あ〜あ…、なんでうまくいかないかな〜」
思わずそうつぶやいてしまうほど、琴子は落ち込んでいた。
失敗するのはいつものこと。そういつものように割り切ってしまえばいいのかもしれないが、今日は立て続けに失敗を繰り返し、とうとう細井総婦長にまで注意をされた。
何が悪いと言えば、注意力が足りないという他はなかった。
ガーゼのたっぷり入ったカストは、朝一番でダメにした。
検査のために連れて行った患者を違う場所に送り届けて検査部に迷惑をかけた。
大事な薬液を落として割った。しかもべらぼうに高い薬だった。
「ふーん」
つまらなさそうな響きが横から聞こえ、誰もいないと思っていた琴子は驚いて飛び退った。
「な、な、な…」
「看護婦さん、ドジなんだね〜。あ、そういう属性?それとも天然?どちらにしても看護婦としては向いてないかもね〜」
う、と言葉に詰まって、琴子はとっさに反論できなかった。
「ああ、全部図星で声も出ない?ホント、ぼくの担当じゃなくて助かったけど。で、他に何したの?」
琴子の視線よりはるかに下、パジャマを着た子どもが立っていた。髪の毛はさらさら、目は大きくて、色の白い男の子だった。パジャマを着ているので、明らかに入院中の子どもだろうと琴子は思った。
そして思わず尋ねる。
「あたし、声に出してた…?」
「顔も百面相してたよ」
にっこりと笑う顔はとてもかわいいが、やんちゃ盛りの子どもらしく、いたずらっぽく生意気を言う。
「…小児科の子?」
「まあね」
「入江先生の担当じゃないよね…?」
「ああ、もしかして病院一ドジな入江先生の嫁って、看護婦さんのことか。小児科の看護婦イチオシの噂」
「よくわかったわね」
「だって、名札」
指を差した先には、ポケットに名前と所属が書かれたIDカードがぶら下がっている。しかし入江琴子と漢字で書いてあるのが読めるのだろうかと琴子は疑った。
「入江先生の字と一緒じゃん。漢字習ってなくてもそれくらいわかるよ」
「あ、そうか。でもまだ幼稚園くらいだよね?」
「…うん。にじぐみ」
「名前は?お部屋へ一緒に帰ろうか?ほら、風も冷たくなってきたし、あたしもお昼休憩終わりなんだ」
「いいよ。一人で帰れるし。ぼく、ヨウくんて呼んでる」
「呼んでる、じゃなくて、呼ばれてる、でしょ」
ヨウはかっと赤くなって下を向いた。自分の失敗を恥じたのか、琴子に指摘されたのが悔しいのか、琴子が屋上のドアを開けて振り向くと、すでにそこにはいなかった。
風の音が耳元でざわめき、琴子はきょろきょろと振り返りながらヨウの姿を探したが見つからず、開けた瞬間に身体を素早く滑り込ませて下りていってしまったのだと思った。
それが彼と会った最初、だった。

 * * *

それから数日後、琴子は小児科へ足を運んだ。
ナースステーションで「ヨウくんは?」と聞くと、「今はおりません」と言われた。
仕方なくそのまま帰り、翌日もう一度屋上へ向かった。
そこには前と同じようにしてヨウがいた。
「こんにちは」
「…こんにちは」
「どうしたの。今日は元気ないね」
「看護婦さんは元気だね」
「今日は失敗しなかったから」
「お気楽でいいな〜」
琴子はそう言って沈んだ顔をしたヨウを見て、何も言えなかった。
「ママがね、泣くんだ。ぼくの前で泣かないようにしてたんだけど、かわいそうだって」
「あたしがママでも泣くかもしれない」
「そうかもしれないね、看護婦さんなら。
かわいそうかもしれないけど、実はかわいそうじゃないんだよ。もう生まれたときから何回も入院してるから、入院してるのが結構普通だし。元気に遊べないっていうのは元気に遊びたい人の望みだよね。ぼくはどちらかというと本を読んでるほうが好きなんだ」
「へー、そんな小さいのに本をたくさん読むんだ」
「…看護婦さんは、本を読まなさそうだね」
「ま、まあね」
「ベッドにいながらいろんな話が本でわかるんだよ。すごいよね」
「入江くんとなら話が合いそうだね」
「ああ、入江先生か」
「この間お部屋にいこうと思ったんだけど…それで」
「あ、もう行かなきゃ。じゃあね、看護婦さん」
「え、ちょっと、ヨウくん?」
「お部屋には来ないで」
「え、ダメ、なの?」
「うん。いろいろあるから」
およそ子どもらしくないことを言い残して、ヨウは屋上から出て行った。重い扉を難なく開けて。
「ヨウくん、結構力持ち」
同じように扉を開けて琴子はつぶやいた。

「入江くん、小児科の子と仲良くなったんだけど」
夕食後のひと時、書斎でいつものように紙に埋もれているような直樹に向かって琴子は言った。そういう自分は看護計画が立案できずに基本的な患者の病態生理から勉強し直している始末だった。
「…誰と?」
「えーっとね、ちゃんとした名前は知らないの。ヨウくんって言ってるんだけど」
「…ふーん」
反応の鈍い直樹の様子に首をかしげながら、琴子は教科書に目を落とした。
「ね、この計画なんだけど…」
「…自分でやれば」
「わ、わかってるけど、わからないことがあるんだもん」
「この間も怒られたんだろ」
「そうなんだよね…。そうしたらヨウくんが慰めてくれて。あ、口調は全然慰めてなかったけど」
「俺、風呂入ってくるから」
「あ、入江くんってば!」
直樹の機嫌の良し悪しにいまだについていけない琴子としては、今回の話のどこに機嫌を損ねる要素があったのかさっぱりわからなかったが、どうやら何か機嫌が悪いらしいということだけ悟ったのだった。
患者の情報を持ち帰るわけにもいかず、家で計画を立てるのにも限界がある。琴子は直樹のいなくなった書斎にいるのが嫌になり、ボールペンを放り出してため息をついた。

 * * *

「ヨウくんは、本が好きって言ってたよね」
「うん。結構何でも読むよ。隣のお兄ちゃんが読んでたちょっとエッチな本はまだいらないけど」
「…あ、そ、そう」
琴子はさらりと言ってのけたヨウの言葉に冷や汗を流した。
屋上の風は今日も優しい。
琴子は袋をがさがささせて取り出した。
「それでね、これ、あげる」
「…世界の童話…365日…?」
「毎日一話ずつ読んでも一年かかるよ」
「そりゃそうだけどさ、知ってる話もあるし、ちょっと幼稚じゃない?でも、ありがとう」
ぺらぺらとめくって中身を確認すると、パタンと閉じてため息をついた。
「ほら、お母さんに毎日読んでもらって」
「うーん、でもママ、毎日は来れないんだよね」
「あ、忙しいの?」
「弟がいるんだ。かわいいんだけど、もう大変」
「そうなんだ。ヨウくんも病気なのに我慢してるんだね。あたしだったらわがままいっぱい言っちゃいそう」
「看護婦さんは兄弟いないの?」
「うん、一人っ子なの」
「そうか。うらやましいけど、ちょっとさみしいかな」
そう言ってヨウは本を抱えた。
「これ、ありがとう。ママに頼んでみるね」
大きな本を抱えて、ヨウは駆けていった。
大き目のスリッパを履いた足が驚くほど素早く。

 * * *

それから数日、琴子はヨウに会わなかった。というより、屋上に行ける暇がなかった。
ようやく屋上に行けたとき、空は曇り空だった。
「看護婦さん、久しぶり」
「ヨウくん、身体は大丈夫?」
「…うん、もう、いいんだ。家に帰ることになったから」
「退院なんだね」
「だから、お別れを言いに来たの」
「そっか…。うれしいけど、さみしいね」
「あの、本、ありがとう。ママが、毎日読んでくれるって」
「ホント?良かった!」
「でも、看護婦さんが個人的にこういうプレゼントあげちゃダメなんでしょ」
「と、ともだちにあげるんだから、いいの。だけど、皆には内緒ね」
「ふふふ、いいよ。こんな幼稚園児とともだちじゃ怪しまれるしね」
「まあ、そうね」
「じゃあ、行くから」
「あ、ねえ、家、どこ?」
「いいよ、来なくて」
「なんで?」
「…恥ずかしいから」
「え、でも」
琴子が残念がっている間に、ヨウは笑いながら戻っていった。
琴子は雨の降りそうな空を見上げながら、せめて退院前には会いに行きたいと考えていた。

 * * *

翌日は雨だった。
琴子は小児科へ行こうと思っていたが、なかなか行く暇を作れずにいた。
もう退院してしまっただろうかと気になり、気が気ではなかった。
二日目にしてようやく小児科へ向かった。
小児科には偶然直樹もいて、琴子は手を振って駆け寄った。
「入江くん」
「また誰かに会いに来たのか」
「うん。ヨウくんはもう退院したかな」
「さあ、どうだったかな。俺の担当じゃないから」
「病室行ってみよう」
そう行って歩き去る琴子の背に、直樹は思わず声をかけた。
「琴子、おまえ…」
「なぁに?」
「…いや、いい。昼に屋上で」
「本当?うれしい、じゃあ、また後でね!」
浮かれて病室を次々のぞく。
それでもよくわからなくて、ナースステーションで聞くことにした。
「あの、ヨウくんは」
「田中さんですか?」
「名字は知らないんです」
「田中洋一君なら…306号室です」
3,0,6…。
琴子はもう一度廊下を歩いて札を確認していく。
田中…洋一…これかな、と思いながら部屋に入ると、そこにはあのヨウくんの姿はなかった。
「あの、ヨウくんって…」
そこにはニキビ面の中学生らしき男の子がいた。
「はい?」
その男の子が返事をする。
「田中…ヨウくん?」
「そうです。ようくんなんて久々に呼ばれたけど」
琴子は首を傾げる。
「ごめんなさい、人違いみたい。もう退院したんだっけ」
琴子はその男の子に頭を下げて、病室を出た。
いつ退院かは聞いていなかったが、もしかしたら既に昨日までに退院してしまったかもしれないと結論付けた。

昼に屋上に行くと、直樹が待っていた。約束をちゃんと守ってくれたことがうれしくて、琴子は駆け寄る。
「入江くん、早かったね。お仕事大丈夫なんだ」
「…ああ」
「いい天気」
「なあ、琴子」
「何?」
「ようくんって、ここで会っていたのか?」
「うん、そうだよ」
「それって、5歳の男の子、だよな」
「5歳かどうかは知らないけど、だいたいそれくらいだったかな」
「入江くん、知ってるの?」
「気になって調べた」
「もう退院しちゃったみたい」
「そうだな」
「外来に来る日でも聞いておけばよかった」
「…外来は、来られないだろうな」
「そう、なの?」
それでも、歯切れの悪い直樹の物言いに、琴子はなんとなくいやな感じがした。
「来られないって、どういうこと?どこか遠くに住んでる子なの?」
直樹は空を見上げる。
今日は少しだけ雲があったが、雨の後だけあって風は強かった。
「多分、その子は…」
風の音がうなるように響いていた。プライベートだった琴子の髪は結わずにそのままで、強い風にあおられて舞い上がる。それを片手で押さえながら琴子は耳を疑った。
「…うそ」
「そうとしか考えられない」
「だって、ここまで歩いてきてたんだよ」
「歩けるような状態じゃなかった。ICUに入っていたんだから」
「そんなふうに見えなかった」
「じゃあ、別人だろ」
「でも」
直樹が示した言葉は、ICUに入っていた子どもが、歩いてここまで来ていたことになる。しかも意識がない状態のときに。
「でも、確かにあたしはその子の名前を知らない」
「枕元に、誰かが贈ったらしい本が置いてあった。誰かは知らない。その子のお母さんがいない間に置かれてたらしい」
「本はあげたけど…」
「世界の童話365日」
「…何で知ってる、の…」
琴子は手すりをつかみ、力の入らなくなった膝を屋上の床につけた。
「名前は太陽の陽と書くんだそうだ」
「もう、いないの?」
「ああ、いない」
「あんなに、生意気で元気そうだったのに」
「何で琴子だったんだろうな」
「たまたま会ったから、かな」
「ここで泣きべそかいてたんだろ」
「…何でわかるのよ」
琴子は力なく笑って空を見上げる。
「おまえが泣くから、言いたくなかったんだ」
「…泣いてないわよ」
「そうだな。こんなに青空なのに」
「泣かないもの。ヨウくんが心配するから」
「我慢強い子だったらしい」
「そうよ。お母さんが泣くからって心配して、かわいい弟がいるから大変だって…」
琴子は座り込んで、空を見上げたまま言った。
「…入江くん、もう、昼休憩、終わりだよね」
「ああ」
「あたし、もう少ししたら、帰るから」
「…わかった」
言葉少なに直樹は屋上から出て行く。
琴子の視界の隅に、風に白衣が翻ったのが見えた。
そこまでが限界だった。
琴子は溢れ出てくる涙が頬を伝うのを感じた。
これは泣いているんじゃなくて、青空がきれいで、太陽がまぶしくて、目が眩むせいだ、と言い聞かせた。
太陽の、陽…。
「陽…くん」
琴子は唇をかみ締めて頑なに空を見上げ続けた。

直樹が屋上から出ていき、重いドアが閉まる瞬間、琴子の声を聞いた気がした。
しかし、直樹は戻らなかった。
いつもならすがりついて大声で泣いていただろう琴子が、唇を震わせながらも直樹の前で泣くことを拒んだ。
直樹の知らない琴子の思い出がうらやましかった。
小児科医になって、患児に嫌われることはないが、琴子のような慕われ方はしたことがない。
もちろん医師としていろいろな患児と接するため、ひいきだと思われても困るので、自然と一歩引いた感じになっているのかもしれない。
琴子が屋上で会っていたヨウくんが、本当にあの陽くんだったのか、直樹は知らない。
それならそれでそういうこともあるのだろうと思うしかない。どう解釈するのかは琴子次第だ。
それでも、もしかしたら別の、違う子供かもしれない。
その時は…。
腰を抜かして驚く琴子の顔が見られるだろう。
できれば、そうであってほしい。
直樹は強く思いながら屋上からの階段を下り続けたのだった。

(2011/06/18)